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九話

 騎士になれば、クリストフはもうやってこないと思っていた。

 何しろ騎士という職種は見た目以上に忙しい。職務以外にも訓練があるし、それにクリストフのように王族に近しい人ならば、夜会にも呼ばれることだって多くなるだろう。

 そこにはレオノーラなんかよりもずっとかわいい子だって綺麗な子だっているだろう。もともと、クリストフとレオノーラの関係はあくまでも政略的なものだ。

 義務で付き合っていたとしても、本当に心を揺さぶられる相手を前にしては太刀打ちなどできるわけがない。

 そう思っていたのだが、妙なことにクリストフは頻繁にレオノーラの元を訪れた。

 といっても、デートのような甘いものではない。

 ちょっと立ち寄ったからという理由で会いにきたり、たままた見つけたからといってちょっとしたものを届けたりといった具合だ。


「え……、悪いです」


 ちょっとしたものといっても、決して安いものではない。

 美しい細工が施された髪飾りともなると、そうやすやすと受け取れるものではない。

 戸惑うレオノーラに、クリストフはならばと交換条件を出してきた。


「じゃあ、またハンカチに刺繍をいれてくれないかな?」

「え……」


 明らかに難しいものであったならば断ることだってできただろう。

 だが、彼の条件はレオノーラが少しだけがんばればできることだった。

 不器用だからと固辞するレオノーラに、クリストフはやわらかな笑みをうかべ、どうしてもと頼んできた。

 そこまで言われたら断ることも難しい。

 レオノーラはなんとか――以前よりも多少マシになった刺繍をいれたハンカチをクリストフに渡した。


「……うれしいな」


 渡されたハンカチを見つめ、クリストフは少し照れたような笑みを浮かべ、ぽつりとつぶやく。

 その瞬間、レオノーラの心の中にある思いが浮かび上がった。

 それをあえて言葉にするならば、罪悪感、だろうか。

 クリストフに会えて楽しかったのは、なにも彼だけではない。

 おそらく誰よりもレオノーラ自身、楽しかったのだ。

 考えてみれば当たり前のことだ。

 クリストフはただ好きなキャラというわけではない。レオノーラの前世、苦しい時、心の支えとなってくれたキャラだった。

 小さな画面の向こうから聞こえる彼の言葉に、レオノーラがどれほど救われたかわからない。その彼が目の前にいるのだ。好きにならずにいられるわけがないのだ。

 それと同時にレオノーラの心の奥で、痛いほど感じるものがあった。

 この世界の主人公は自分ではないし、彼が最後まで望んでいたのは自分ではない。

 彼が心の奥底から求め続けた相手こそ、ヒロインであるクララだ。

 そして自分は彼にとってはただの足かせでしかなく、自分の存在こそ彼を幸せから遠ざけるものでしかないこと、を。だからこそ――


「お母さま、あの、少しお話が」


 なるべく機嫌のよい時にと、サンルームにいる母に、レオノーラはおずおずと声をかける。と、母は色鮮やかな女性の立ち絵姿が描かれた紙の束から顔をあげた。


「あら、レオノーラ。ちょうどいいわ」

「え?」


 きょとんとするレオノーラを手招きし、母は向かいに腰を下ろすように促す。

 そして彼女の前に差し出されたのは、先ほどまで母が見ていた女性の絵姿だ。


「これは?」

「いいでしょう?」


 母が満面の笑みを浮かべ、絵姿を指さす。

 それは細身の女性で、つんと顎をそびやかし美しい華やかなドレスをまとっていた。


「今度の聖月祭にはあなたに新しいドレスをしたてようと思っているの。ああ、もちろんレヴィナス伯爵の方にはお伝えしてあるわ。色とか会わせなくてはいけませんからね」

「え?」


 聖月祭とはこの国の祭で、この国でもっとも有名な月の女神をたたえる祭りだ。

 街ごとに祭りが行われるが、最も大きなものが王都で行われるものだ。そこでは国王主催の夜会が開かれる。レオノーラにも当然招待状は来ている。


「どうしてですか?」

「どうしてって……」


 母は目をしばたかせる。


「当たり前じゃない。クリストフ様とあなたは婚約者同士なのよ」


 婚約者同士が夜会でそろいの衣装を着ることはよくあることだ。

 しかし、そんな目立つことをしてみたらどうなることか。クリストフとの婚約はもう公然のものとなり、なかったことにするのはほぼ不可能になる。


「……困ったわ」


 サンルームを出たところでつぶやいたレオノーラに、執事がそっと近づく。


「お嬢様、何か悩み事でも?」

「悩み事?」


 レオノーラはわずかに振り返り、そして肩をすくめる。


「まあね。でも、たいしたことはないわ」

「お嬢様」


 執事が心配そうに見つめる。


「私はいつでもお嬢様の味方ですよ」

「……ローランド」


 レオノーラはふっと頬を緩める。


「では、お母様には内緒にしてくれる?」

「おや、奥方様にも内緒の悩みですか? 随分、深刻なようですな」


「ええ、そうなの。だから、お母様には知られず、一人で静かに考え事をしたいのだけど……」


 ため息をつきながら、レオノーラはちらりとサンルームを振り返る。そこでは侍女を相手に声高に何かをしゃべっている母がいる。そこをちらりと見たローランドがにこりと微笑む。


「でしたら、行かれますか? 例の場所に」

「例の場所……」


 一瞬、不思議そうにしたレオノーラは、ふいにあっと小さく声をあげた。


「あそこね!」


 思わず声をあげたレオノーラに、ローランドはにこりと微笑んだ。






 ローランドが言った「例の場所」とは、王都の中にある神殿のことだ。

 ここにはある伝説がいまだにこの世界は神がつくったという話が根強く残っている。

 そして世界のあちこちにあるすべてのものに神が宿るという。

 その中でも人々は恐ろしい闇を払う光を与えてくれたという月の女神を特別大切にしていた。

 そのため、街ごとにある神殿には月の女神が祭られ、人々の日常の一部になっている。

 それこそ生まれた瞬間から死ぬまでずっと。

 だが、ゲームの中でそのような慣習は軽く触れる程度で、深くは説明されることはない。

 説明があったとしてもあくまで乙女ゲームの範疇の中でだ。

 特に母の言っていた聖月祭の祭りなどは、ゲームの主要イベントの一つだ。だが、そこでもやはり女神の名前が軽く出てくる程度で、生活にどれほど密着しているかなどは想像するしかない。

 しかし、実際神殿に一歩足を踏み入れればわかる。ここがどれほど人々にとって大切な場所かということが。

 誰もいないそこは塵一つなく掃き清められ、漂う空気はどこまでも清らかだ。

 祈りの時間は終わっているせいか、今、神殿にいるのはレオノーラただ一人。それがより一層、静謐さを感じさせる。レオノーラはあたりを見回し、それから静かに息を吸い込む。

 この神殿は、レオノーラにとって大切な場所だった。

 幼いころよりレオノーラは常に大勢の人に囲まれていた。一人になれる瞬間は生活の中でどれほどあるだろう。

 時折息切れしそうになるレオノーラに、ここを教えてくれたのはローランドだった。

 時々、一人になりたいときにレオノーラはここにきていた。

 といっても、もちろん厳密に言えば一人きりというわけではなく、ローランドや従者たちと一緒なのだが。

 久しぶりに神殿にやってきたレオノーラは、神殿の中に等間隔に置かれた古い木製の長椅子に腰を下ろす。


――……やっぱりいいなぁ


 豪奢な装飾品があるわけでもない。どちらかといえば地味で質素な方だろう。だが、長いこと人々に大切にされている雰囲気がそこかしこから漂ってくる。

 こんな素晴らしい場所ではあるが、ゲームの中ではこれっぽっちも出てくることはない。ヒロインが神殿が祭る女神の使いだというのに。


――まあ、攻略対象者の中に神殿の関係者がいなかっただろうけれども


 レオノーラは指を組み、そしてじっと目の前にある色ガラスの窓。女神が描かれたステンドグラスを見上げた。と、その時だ。


「おい!」


 がたりと背後から大きな物音が聞こえ、レオノーラは思わず振り返る。と、両開きの扉を必死に足で開けようとしている少年の姿があった。


「あら、ルウじゃない」

「あら、じゃねーよ」


 口をとがらせ、むっつりと返す彼の名前はルウ。この神殿の神官見習いをしている。

 当然のごとく、レオノーラが思い出す前世の記憶――エターナル・サクリファイスに彼は存在していない。

 神官の見習いは数年の修行ののち、試験を経てようやく神官になることができる。

 そんなルウとレオノーラとは幼いころからの知り合い……いや、友人だ。

 出会ったのは前世を思い出すずっと前。この神殿を訪れるようになってからだ。だが、いくら親しくなったとしてもルウと会うのはここ――神殿だけ。

 おそらくレオノーラがどのような家の生まれかはルウは知らないだろうし、レオノーラも彼のことは神官みならいであるという以外はほとんど知らない。

 とはいえ、立ち居振る舞いや身なりでおおよその検討はつくだろう。

 しかし、ルウもレオノーラもそのことについて何か言ったり聞いたりすることはなかった。

 立場というものは時折、高い壁のような存在になるものだ。どれほど親しい間柄だとしても。

 だからこそ、なんのしがらみのない関係でいたい。

 ロワリエ伯爵令嬢ではない、ただのレオノーラ――ノーラでいたい。

 無意識にそう思っていたのかもしれない。


「なあ、手が空いてんだろ? ちょっと手伝ってくんない?」

「……手伝う?」


 見ると、彼の両手には山のような荷物が乗っていた。

 どうやらそのせいで両手が使えず、とりあえず足でなんとか扉をあけたものの中途半端にしか開かなかったらしい。

 今更荷物を下に置こうにも今の態勢からは難しいだろう。

 下手をすれば両手に持った荷物を落としたうえ、体が扉に挟まれるという何ともみっともない事態になりかねなかった。


「ちょ、ちょっと待って!」


 レオノーラは慌てて駆け寄り、扉を押し開く。

 神殿の扉はどこも古く、重厚で、そして立て付けが悪い。力いっぱい押し開けた扉からすべりこんだルウは、荷物を近くの長椅子の上に置くと、大きくため息を落とした。


「助かったー! 今、俺、タマゴを持ってたんだよ」

「タマゴ?」


 首をかしげるレオノーラに、ルウは眉をひそめる。


「……なんだよ、ノーラはタマゴも知らないのか?」

「知ってるわよ! 言いたかったのは、どうしてルウがタマゴなんか持っているのかってこと! ねえ、どうしてタマゴなんて持っているの?」

「なんでって……神官様に頼まれたからな。タマゴを二十個すぐにもってくるように! ってさ」


 軽く咳ばらいをし、ルウはわざと慇懃な物言いをする。どうやら、タマゴを持ってくるように言いつけた神官の真似をしたようだった。

 あまり似ていないうえ、ルウには不釣り合いなその言い方にレオノーラは小さく笑う。


「随分急ね」

「ホントだよ」


 ルウはため息を落とす。


「女神様がいったんじゃないのか? 今日の夕食はタマゴですよーってさ」

「え?」


 これまた仰天するレオノーラにルウは顔をしかめる。


「なんだよ。夕食にタマゴって、そんなに驚くような話か?」

「違うわよ!」


 レオノーラは思わず叫ぶ。


「あなた、そんな下働きのようなことまでしているの?」

「そうだよ」

「ふうん」


 神官なんてものは、神殿で祈りばかりしているようなイメージだった。

 神に仕えることが重要で、こんな買い出しのような下働きなど下賤な仕事だと見下しているのかと思ったけれども――ふいに、レオノーラはまじまじとルウを見つめる。


「な、なんだよ」


 無遠慮なまでにじろじろと見つめるレオノーラに対し、ルウは眉をひそめながらもさっと頬を染めた。

 そりゃそうだろう。年ごろの娘がじろじろと顔を見つめることなんて品の良いものではない。だが、レオノーラはそんなことも忘れ、彼を見つめた。


「……ルウってホント、かわっているわよね」

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