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四十四話

「あれから1年もたったなんて、時間がたつのは早いものね」


 しみじみとつぶやくアンリエッタの言葉に、レオノーラは小さく頷き、そして視線を周囲にすべらせる。

 王城の中庭。レオノーラがアンリエッタの屋敷から突然消え、王城のこの場所。美しい花々が周囲を取り囲む、青銅製の東屋で発見されてからちょうど1年がたつ。


「あれからどう? 何か思い出せて?」

「いいえ……」


 レオノーラは笑いながら、首をふった。

 記憶はもうすっかりなくなってしまい、言われなければあったことすら思い出せないぐらいだ。一時はその話題で社交界も持ち切りだったが、奇妙なことに三日もたつとまるで何もなかったかのようにかき消えてしまった。

 笑みをうかべたまま、首をふるレオノーラに、アンリエッタは小さくため息を落とす。


「それにしても奇妙な出来事だったわね。当事者であるあなただけではなく、多くの人の記憶をかき消すなんて。とてもではないけれども、一神官ができるようなものではないわ」


 アンリエッタはそこで言葉を切る。そして小さくかぶりをふった。


「ああ、ごめんなさいね。レオノーラ。このことで一番、思い悩んでるのはあなただというのに」

「いいえ、アンリエッタ様」


 レオノーラはくすりと笑みを浮かべる。


「おかしなことだと思われるでしょうけれども、あまりあの時のことを思い出そうとおもわなくなってるんです」

「そうなの?」


 おどろいたように目を丸くするアンリエッタに、レオノーラは小さく頷く。


「ええ、びっくりしました。自分でも奇妙なことだとわかっているのに、周りがどんどん忘れてしまうと、あまり考えなくなってしまって」


 くすくす笑うレオノーラに、アンリエッタも苦笑いを浮かべる。


「まあ、クリストフ様があれいらい、あなたをそれこそ籠の鳥のように囲っておしまいになりましたものねぇ。今日もいらしてくださらないかと思ったのよ」


 そうなのだ。レオノーラが辺境伯邸から消えたことで、クリストフはひどく過保護になったのだ。

 未だ婚約者という立場ではあるが、対外的にはすでに夫婦同然のよう。

 唯一違うのは同じ屋敷に暮らしていないことぐらいだろうか。まあ、それには理由があるのだが――アンリエッタの言葉に、レオノーラは乾いた笑いを浮かべる。


「しょうがないわ。いくら記憶がなくなってしまったとはいえ、貴女がいなくなったことが事実だったし、そのことでとても心配されてましたから」


 やれやれと肩をすくめるアンリエッタに、レオノーラは笑う。

 レオノーラの事件はひどく衝撃的な出来事だった。いくら記憶が薄れたとはいえ、全員が忘れ去るまでは時間がかかった。その間、レオノーラの盾になったのは誰でもない。クリストフだ。

 過保護すぎるのも、すべて彼女のため。二度とレオノーラを傷つけさせまいとする彼なりの思いやりだろうことは、誰よりもレオノーラ自身、わかっていることだった。


「でも、今日は別です。アンリエッタ様の特別な日ですからクリストフもわかってくれました」

「まあ」


 アンリエッタはレオノーラの言葉に頬を緩める。


「うれしいわ。レオノーラ」


 やわらかくほほ笑む彼女の首には、美しい首飾りが輝く。

 それは代々この国の王族に伝わる宝の一つ。第二王子后となるアンリエッタに現王妃から送られたもの。そう、先日ようやくアンリエッタと、第二王子であるヴィクトールの結婚が半年後に行われるときまったのだ。


「辺境伯もお喜びになられたのでは?」

「どうかしら」


 アンリエッタは肩をすくめる。


「機嫌がよさそうにはみえなかったわね。逆にヴィクトールの機嫌は良いわね」

「それは……」


 レオノーラは苦笑いを浮かべる。

 もともと、アンリエッタとヴィクトールの婚約は国内の貴族を抑え込むための政略結婚だ。王太子が他国の姫を后にして宮廷が落ち着けば、改めて婚約者を選びなおすはずだったのだ。だが、一つ予想外のことがおきた。

 当の本人であるヴィクトールがそのことを頑なに拒否したのだ。

 そのことをクリストフから聞かされたとき、レオノーラはひどく複雑な思いだった。

 なにしろレオノーラにはゲームの記憶があったからだ。

 ゲームのヴィクトールはあたり前だが、無理やり決められた婚約者であるアンリエッタを疎んじていた。アンリエッタはというと定められた役割を全うしようと、どんなに疎んじられても毅然とした態度でヴィクトールに尽くした。

 だが、現実はというとまるっきり正反対だ。

 アンリエッタはことあるごとに婚約を辞めようとし、隙があれば辺境地に逃げ帰ろうとした。だが、それをヴィクトールが必死に押しとどめていた。

 ある時は自らの持つ権力をつかい。

 そしてある時は情に訴えかけ。

 だが、アンリエッタの心はまるで動かない。

 このまま駄目かとおもっていた矢先に、アンリエッタとヴィクトールの結婚が知らされたのだ。

 それは唐突といえば、唐突だった。

 なぜ。うかがうように見つめるレオノーラに、アンリエッタは微笑みを浮かべた。


「ヴィクトールがね、どうしてもってごねるのよ」

「……ごねる」


 大柄で、いかついヴィクトールが、ごねる。

 とてもではないが想像ができない。

 頬をひきつらせるレオノーラに、アンリエッタはくすくすと笑う。


「そう。それはもう子供みたいに、ね。だから、しょうがないなって」

「……しょうがない」


 言葉とは裏腹に、アンリエッタの表情は以前のようなとがったところはなく、穏やかでとても幸せそうだった。

 それは宮廷がおちついたことの裏返しだろう。

 近々の課題であった第一王子と隣国の姫の結婚がつつがなく行われたこと。そしておそらくアンリエッタにとって最大の悩みであっただろう、クララの問題がかたづいたことに他ならない。

 クララはあれから彼女の言葉通り、宰相の子息であるコンラドと結婚し宮廷を出ている。

 王宮は1年ぶりに落ち着きを取り戻してた。


「そういえばジェレミー様が隣国に戻られた話は聞いていて?」

「ええ」


 レオノーラは小さく頷く。


――実家がうるさくてね。少し顔を見せてくるよ


 跡継ぎ問題が勃発しているとかで、隣国にある実家に戻るといってあいさつに来たのは先月のことだ。彼の軽い口調とは裏腹にどうやら問題はかなり深刻らしく、しばらく戻ってこられないかもとこぼしていたのをつげると、アンリエッタはふんと鼻をならした。


「今までふらふらと遊んでいた罰があたったのね。あんなのでも一応は王族の端くれなのだから少しは苦労していただかないと割に合わないわ」

「……え?」


 王族? ぽかんとするレオノーラに、アンリエッタはあら、とつぶやく。


「あら。レオノーラ、あなたしらなかったの?」

「ええ……」


 当たり前だ。どこの世界で王族が他国で武官などしているというのだ。

 目をしばたかせるレオノーラに、アンリエッタはくすくすと笑う。


「ジェレミー様は変わり者だから。ふらりと遊びにいらしたジェレミー様を武官にしてしまったのもヴィクトールがおもしろがってのことなのよ」

「……はあ」


 変わっているというレベルではないだろう。第一、王族が他国で武官をやっていることのどこがおもしろいというのだ。

 いや、とレオノーラは首をかしげる。

 もしかしたら、自分がわからないだけで、王族同士ではこういう冗談が普通なのだろうか。ヴィクトールも、見た目こそ厳つく、武骨を絵にかいたような男であるが、アンリエッタを前にすると威厳のいの字もなくなってしまう。それをアンリエッタは面白がるが、レオノーラとしてはあまりに変わりぶりに恐怖すら感じるというのに。

 いや、おそらく、こういったことが彼らなりの冗談なのだろう。

 よくわからないが。

 首をかしげるレオノーラに、アンリエッタはふっと笑みを向ける。


「そういうレオノーラも、ようやく落ち着いたようね」


 ああ、いえ、とアンリエッタは首を振る。


「落ち着いたといえば、落ち着いたような……」

「ああ、貴女は落ち着いていたわね。落ち着いていなかったのはクリストフの方だったわね。ああ、でも結婚が正式に決まったことで落ち着いたのかしら?」


 からかうように笑いかけるアンリエッタの視線がふ、と中庭に続く小道へとむけられた。

青銅製のアーチが等間隔に置かれ、その両脇には美しく整えられた植え込みが続く。その奥から聞こえてくる足音。ひどく慌てたような荒れた足音にかさなるように、現れたのはクリストフだ。

 レオノーラがアンリエッタに呼び出されたのと同じくして、クリストフもヴィクトールに呼び出されていたのだ。

 おそらく仕事で呼び出されただろうに。

 あからさまに慌ててやってくるクリストフの姿に、アンリエッタはくすりとほほ笑んだ。


「そうでもなさそうね」


 そういうと、アンリエッタはゆっくりと立ち上がる。慌てて立ち上がろうとするレオノーラをアンリエッタは押しとどめる。


「あなたはそのままでいいわ」

「え? でも……」


 戸惑うレオノーラに、アンリエッタはにこりと微笑む。


「今日のところはあなたをここにつれてきてくれたことで許してあげるわ。でも、私の式のときは別よ」


 そういうと、アンリエッタはあずまやを出る。

 周囲に控えていた女官たちが小走りで駆け寄ってくる。と、同時にクリストフがやってきた。

 クリストフのあまりの焦りっぷりに女官たちは戸惑うように視線を交わす。

 それはそうだろう。彼女たちにとってクリストフの印象は、穏やかで落ち着いた青年というものだろう。

 だが、今の彼は彼女たちの印象からは程遠い。

 髪は乱れ、焦る様子を隠そうともしない。

 アンリエッタは戸惑う女官を一瞥し、そしてゆっくりとその視線をクリストフへと向ける。そして肩で息をきらせるクリストフに嫣然と微笑みをむけ、静かにたちさっていった。

 アンリエッタが立ち去るのをまって、東屋にやってきたクリストフに、レオノーラはわずかに眉を寄せる。


「そんなに慌てなくても……。ヴィクトール様に呼ばれていたのではないんですか?」

「別に大した用事ではないから大丈夫だよ」


 第二王子の用事を大したことではないなんて。

 言葉を詰まらせるレオノーラの手を、クリストフは優しく取り、彼女の隣へと腰を下ろす。そしてほっとしたように息を吐いた。

 その姿を見たレオノーラは、わずかに顔を曇らせる。

 レオノーラが消えたことは、もう噂にもならない。ともすれば、その時のことを知っているアンリエッタたちでさえ忘れかけてしまっているぐらいだ。

 だが、ただ一人、記憶が消えなかった人がいた。クリストフだ。

 彼だけが、未だにあの時の記憶を引きずっている。

 だからこそ、クリストフはあれからレオノーラに対して異常なまでに過保護になった。もちろん、クリストフはそのことをレオノーラにはおくびにも出さない。

 だが、彼の態度が変わったことがに気が付かないレオノーラではない。

 何しろ等のレオノーラでさえ、自らに起きた事を忘れることがあるのだから。


――おそらく、術がかけられている。それもかなり強力なものです。一体、これほどまでの術を使えるものとはどのような方なのか……。


 あの事件のあと、この奇妙な出来事に対し宮廷魔術師が言ったことだ。

 だが、すぐに魔術師は自らの言葉を否定した。


――だが、それほどまでに強力な魔法を使えるものなどいるわけがない。もし、いるとするならばまさにそれは聖なる乙女に匹敵する者ぐらいだ。そのようなものがこの世界に存在するわけがない。もし、いるとなれば誰かが気が付くはずだ。


 魔術師の言葉に、誰もが言葉を失った。

 だとすると、この事態はどういうことなのか。

 答えの出ない問いは、次第に忘れ去られていった。クリストフをのぞいて。


「クリストフ様」


 レオノーラの呼びかけに、クリストフは不思議そうに見つめる。


「なんだい? レオノーラ」

「いいえ」


 ふっと笑みを浮かべ首をふるレオノーラに、クリストフは優しくほほ笑む。


「レオノーラ、君は幸せかい?」

「……え?」


 きょとんとするレオノーラを、クリストフは静かに見つめる。


「幸せかい? レオノーラ」

「ええ、もちろんよ」


 レオノーラはふわりとほほ笑む。と、次の瞬間、レオノーラの体を、クリストフは優しく引き寄せる。レオノーラは驚いたように目を見開いた。


「え……」

「……ノーラ」


 かすかに聞こえる言葉に、レオノーラははっとしたように体をこわばらせた。


――ノーラ


 誰だろう。

 昔、そうやって呼ばれたことがあった。

 懐かしい声。ふわりとレオノーラの脳裏に何かが浮かびかける。だが、再び強く抱きしめられたことでそれは霧散した。

 ああ、そうだ。クリストフだ。そうやって優しく呼んでくれたのは。

 レオノーラの体から力が抜け、クリストフの体にもたれかかる。

 うっとりと目をつむるレオノーラとは対照的に、クリストフのまなざしはどこか苦し気だ。


「……君が幸せならそれでいい」

「幸せよ、クリストフ様。私、誰よりも」

「……そうか」


 吐き出された言葉はわずかに苦みを含む。

 しかしのめないほどの苦みでもない。

 彼女を抱きしめながら、クリストフはすっと視線を庭の奥へやる。と、そこには珍しく夜には飛ばないはずの月夜鳥がいた。

 ちりちりと小さくさえずりながら、鳥はじっとクリストフを見つめる。

 くりん、と目をしばたかせ、わずかに首をかしげた鳥は、ふわりと吹き込んできた風にはじかれるように飛び立った。

 羽ばたきながら、小さな光がちらちらと舞う。

 それはまるで月の光が粉になったよう。

 その光の粒はやがて風に紛れるようにきえていく。

 それを見つめながら、クリストフは小さな苦みを静かに飲み下すように、静かに目をつむった。





――了

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