四十三話
そこはどこかで見たことがあるような景色だった。
どうやらベンチで眠ってしまっていたらしい。
青銅製の硬いベンチから体を起こし、当たりを見回す。
どこかの公園だろうか。
蔦の絡まるアーチの向こうに見える、美しく整えられたトリアピー。
「……ここって、お城の……」
そうだ。レオノーラは、小さくつぶやく。
ここは王城の中庭。聖月祭のときに一人、逃げ込んだ場所だ。
ふ、と視線を空へと向けると、頭上には聖月祭と同じ青白く大きな月が見える。
「……また夢、なのかな?」
「そうだね」
ふふ、と聞こえる笑い声に、レオノーラは振り返る。
と、蔦の絡まるアーチをくぐり、近づいてくるのは
「ルウ!」
にこりと微笑みを浮かべ近づいてくるのは、ルチアーノだ。
一瞬笑みを浮かべかけたレオノーラは、はっとしたように顔をしかめる。
「ノーラ、何、怒っているの?」
にこにこ笑いながら東屋にはいってきたルチアーノに、レオノーラは眉を吊り上げる。
「何って、ルウ、あなた、自分が何をやったか覚えていないの?」
「え?」
レオノーラの向かいに座ったルチアーノは、ほほ笑んだままわずかに首をかしげる。
「僕、何かした?」
「したじゃない!」
レオノーラは反射的に声をあらげた。
「変な部屋に閉じ込めてたでしょ! あと、魔法かけたでしょ! それも2回も」
「あ、そうだね」
すんなり頷くルチアーノに、レオノーラはぽかんと口をあける。
「そうだねって……」
「だって、ノーラ、そうでもしなかったら、おとなしくしてくれないでしょ?」
首をかしげるルチアーノに、レオノーラは眉をひそめた。
「当り前でしょ。どうしてこんなことをしたの?」
「どうしてって……」
ルチアーノは、言葉をいったん切った。
そして何かを探すように視線をゆっくりと虚空へとさまよわせた。
「……覚悟ができてなかったんだと思う」
「え?」
予想外のルチアーノの言葉に、レオノーラは目をしばたかせる。
「覚悟って何?」
「君を幸せにするためなら何でもできるっていう覚悟、かな」
そういうと、ルチアーノはふわりと笑った。
「まあ、俺自身びっくりしてたんだけどね。ずっと覚悟はできてるとおもっていたから。でも、実際現実になると……、覚悟なんてできなかったって気が付いたんだよね」
それは昔、幼いころ互いの違いなど知らないころを思い出させるものだった。だが、意味が分からない。レオノーラは首をかしげる。
「……どうして? ルウがどうしてそんなことを」
「どうしてって……、決まっているよ」
君を愛しているからだよ。
ルチアーノのさらりと告げた言葉に、レオノーラは最初、反応らしい反応ができなかった。
なにしろ彼は、まるで今日の天気の話をするようだったから。
ぽかんとするレオノーラに、ルチアーノは再び小さく笑う。
「君が幸せになるならどんなことだってするつもりだった。それが禁忌だとしても、関係なんてなかった。できることをただやっただけ。俺にとって、それだけのことだったんだ。でも……」
ルチアーノは視線を足元へと落とす。
「……人間っていうものは予想以上に欲張りだって言うことを忘れてたよ」
「あなた、何を言っているの?」
「……そうだよね。今の君が知っているわけないんだ。それなのに」
「ルウ?」
ルチアーノの声は今にもかき消えそうなほど小さい。そのため、レオノーラはわずかに体を寄せた。その時だ。
「ノーラ!」
ルチアーノが叫び、彼女の体を引き寄せる。
「ル、ルウ!?」
反射的にもがくレオノーラの体を、ルチアーノは固く抱きしめたまま、首筋に顔をうずめる。
「……わかってるんだ。今の君は、あの時の君じゃない。あいつに振りまわされ、それでも家のためにと自らを犠牲にしつづけた君とは」
「……っ」
ルチアーノの言葉に、レオノーラは思わず動きを止める。
彼の言葉はまるで先ほど見た夢の一部そのものではないか。
あの時のレオノーラは、クリストフに愛されていないとわかっているのに婚約すると決めていた。
あれは夢ではなかったのか。
そう考えたレオノーラは、ふいにはっとする。
「……そうか」
自分も同じではないか。
もともとレオノーラという存在を知っていて、さらにクリストフの行く末も大まかに知っている。彼もまた同じような存在なのではないか。
「……ルウ……あなた、知っているね」
ぽつり、と吐き出されたレオノーラの言葉に、ルチアーノはがばりと体を起こす。
「ノーラ……」
レオノーラはルチアーノをまっすぐに見つめる。
「……ルウ、あなたは知っているのね。別の未来のことを」
「ノーラ……君は」
愕然とするルチアーノに、レオノーラは静かに夢でみたことを話し始めた。
言葉にすると実に曖昧な内容だった。やはり半分は夢だったのかもしれない。だが、ルチアーノは一度たりともレオノーラの言葉を遮ることはなかった。
そしてすべてを語り終えたその時、ルチアーノはふっと息を吐き出した。
「……そうか、君も見たんだね。あの未来を」
「も、ってことは……」
やはり、とつぶやくレオノーラに、ルチアーノが弱弱しい笑みを浮かべる。
「そう。君が見たのは夢じゃない。あれは、君がたどる可能性があったもう一つの未来だ」
「……もう一つの未来」
ルチアーノの言葉を聞いた瞬間、レオノーラはある言葉が脳裏によぎった。
――ルート
レオノーラは愕然とする。
そうだ、ルチアーノが言っているのはまぎれもなくルートのことだろう。シミュレーションゲームにおいて、主人公が進む道はけっして一つではない。多くの場合、選択肢により結末がかわるものだ。
それはこのゲームでも同じのはず。
レオノーラという人物は画面には出てこないが、彼女に深くかかわるキャクラーは多い。主人公であるクララの選択肢によっては人生が大きく変わったはずだ。
つまり、彼女の人生はこの世界において幾つもあるということだ。
「……そうか、そういうことなのね」
レオノーラはぽつりとつぶやく。
「あなたは『彼女』がたどるはずだった別の未来を知っているのね」
「……ああ」
ルチアーノは静かに頷き、自らの広げた両手を見下ろす。
「俺は生まれつき奇妙な力があった。それは時間を自在に操ることができる力だ。それがわかったのは、物心がついたころだったよ」
そういうと、ルチアーノは自嘲気味に笑う。
「君は覚えているかな? 初めて会った頃のこと」
「……卵を持っていたときのこと?」
「卵……」
ルチアーノはふっと笑う。
「ああ、そうだったね。君は今までのノーラとは少し違っていたね」
「……え? そう? ほ、他がわからないから違うっていわれてもなぁ」
あはは、と誤魔化すようにレオノーラは笑ったものの、内心は冷や汗ものだ。
今までは本当のレオノーラと、今の自分を比べることなどありえないと思っていた。そもそもこの世界において、レオノーラはたった一人だからだ。
だが、ルチアーノだけは違う。
彼は本当のレオノーラをしっている。
おそらく、今までの彼女と自分がわずかでも異なっていることを薄々気が付いていたのだろう。
黙り込んでしまったレオノーラに、ルチアーノはふっと笑みを漏らす。
「……でも、そのせいかな。今までと違う結末にたどり着いたのは。これで俺の望みはかなった」
かなった、と言いながらもルチアーノの表情はどこか冴えない。
視線を足元におとしたまま、ルチアーノは広げた両手をゆっくりと握りこむ。
「……かなったとおもったんだけどね」
「ルウ……?」
ルチアーノは視線をゆっくりと上げる。
そこには先ほどまでの笑みはない。ますぐに見つめる
「嫌になるね。俺が誰よりも、人というものがどれほど欲深なものか、知っているつもりだったのにな」
「ルウ、もしかして……」
その先は言葉にするまでもなかった。
薄くまるで宝石のようなルチアーノの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。それを見た瞬間、レオノーラはルチアーノがしたことも忘れ、彼を抱きしめた。
「……ノーラ」
反射的にルチアーノは身を固くしたが、すぐにふっと力が抜けた。
そして肩に顔をうずめた。
かすかに震える彼の体を抱きしめながら、レオノーラもいつものまにか涙をながしていた。
だって、気持ちがわかってしまったから。
レオノーラもルチアーノと同じだった。
レオノーラが自分の前世に気が付いてから、クリストフの幸せだけを考えていた。結果は望んでいたものとはまるで違ってしまったが、もしも――もしも、自分が望んだとおりの結末だったらどうだっただろうか。
今、泣いているルチアーノを、お前が望んだ結末ではないかと一蹴できただろうか。
「……ルウ、ごめんね」
ぽつり、とつぶやいたレオノーラの言葉に、ルチアーノがゆっくりと顔をあげる。
涙でお互いぐしゃぐしゃだった。それを見たせいか、ルチアーノが未だ涙が残る瞳を、わずかに緩ませた。
「ノーラ、何をあやまっているの」
「だって……」
この世界のレオノーラの体に、自分が入り込まなければルチアーノが望んだような結末を迎えられたかもしれない。
そう続けようとした彼女の唇に、ルチアーノは指をあて言葉を制した。
「ノーラ、君は今、幸せ?」
「……ええ」
レオノーラは小さく頷く。
「幸せだよ。ルウ」
「……そっか」
ルチアーノはふっと笑う。と、同時に瞳の端にのこっていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「よかった」
ぽつりとつぶやきながら、ルチアーノはレオノーラの頬に手をやる。
そして頬に残る涙のしずくを親指で優しくぬぐう。
「……ふふ、ノーラ、ひどい顔だね」
「ルウだって」
二人とも涙やらなにやらで顔はひどい有様だった。
ルウは、笑いながら何度も涙をぬぐう。途中で涙以外をぬぐわせているのではないかと思い、やめるように告げる。だが
「え? 全然平気だよ?」
「いや! 平気とかそういう意味じゃなくて!」
鼻水をぬぐわれるなんて、想像したくもない。
だが、いつのまにか抱きしめているはずが、ルチアーノに抱きしめられ逃げるに逃げられない。
うつむきながらもごもごとつぶやいていると、ルチアーノが小さく息を吐いた。
「しょうがないな」
「……え?」
とっさに顔をあげたその時だ。レオノーラの額にやわらかな何かがかすめた。
それがルウの唇だと気が付いたのはたっぷり時間がかかったのちのことだった。
「ル、ルウ!?」
ぎょっと目をむくレオノーラに、ルチアーノが笑う。
「すごい顔してるね」
「いや、当たり前でしょ! なんで」
「……んー」
ルチアーノはくすくす笑いながら、首をかしげる。
「まあ、最後だからね。ちょっとぐらいいいでしょ」
「……え?」
最後? 不思議そうに尋ねるレオノーラに、ルチアーノが目を細める。
「そろそろ俺、行かなくちゃ」
「……行くってどこに」
言いかけて、レオノーラはあ、と小さく声を上げる。
「……戻るの? もう一度」
「うん」
ルチアーノは小さく頷く。
「君に会って、ようやく自分が何を望んでいたのかわかったんだ。だから、ノーラ」
一旦、言葉を切ったルチアーノは静かに微笑みを浮かべ、そして茫然と見つめるレオノーラの頬に手を当てた。
「……もう一度、君に会いに行くよ。だから、少しの間だけさよならだ」
彼がそうつぶやくのと同時に、ルチアーノの足先からまるで光に溶けていくように消えていった。
それはまるで光の砂粒のようだった。さらさらと崩れていくそれに、レオノーラはとっさに手を延ばす。だが、その光の粒は伸ばした指の間をすり抜け、まるで風にさらわれるかのように消えていく。
足先から腰、そして胸元。
「ルウ!!」
「……ノーラ、またね」
さらさらと崩れていく。
彼が別れの言葉を告げるのと、すべてが光の粒になり消えていったのはほとんど同時だった。
「……ルウ」
虚空に伸ばした指の先を、最後の光のかけらが触れる。
だが、触れた先からさらに小さく砕け、消えてしまった。
それと同じくしてがさりと生垣が揺れるような音が聞こえた。振り返ると、そこにいたのは
「レオノーラ!」
綺麗に刈り込んだ生垣を押しのけるように駆け寄ってきたのはクリストフだ。
体をぶつけているのだろうか。枝が折れる音が時折聞こえる。そして東屋に飛び込んでくるやいなや、茫然したままのレオノーラの体を強く抱きしめた。
「クリストフ様……、どうして」
「君がここにいると言われた」
「……誰に、ですか?」
尋ねるレオノーラに、クリストフは抱きしめていた腕をわずかに緩める。
そしてのぞき込むように彼女の顔を見つめた。
「神殿で言われたんだ。君を王宮に返したと」
「……え」
ぽかんとするレオノーラに、クリストフが小さく笑う。
「まさか本当に戻っているとはおもわなかった。……無事でよかった」
「クリストフ様……、ごめんなさい」
うなだれるレオノーラの頬を、クリストフの手が触れる。と、その瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。
「レオノーラ、泣いていたの?」
「……え?」
はっとしたレオノーラが、自分の頬に手をやる。
と、指先に濡れた感触が伝わってきた。いつの間に、泣いていたのだろうか。
ふとそこで、なぜ自分がここにいたのか。わからなくなっていたことに気が付いた。
「……私、どうしてここに」
「神官の一人が連れ去ったといわれたが、覚えていないのか?」
心配そうなクリストフに、レオノーラは小さく首を振る。
おかしい。いや、おかしいという感覚さえ、ふとした拍子に消え失せてしまいそうなほどあやふやだ。
レオノーラは膝の上で手を握り締める。
「クリストフ様。おかしいの。さっきまでちゃんと覚えていたの。誰かと一緒にいたはずなのに」
誰か一緒にいた。その人と話をして、それから――だが、いくら考えたところで、記憶は頼りなくつかもうとしたそばからまるで雲をつかむように消えていく。
しかし、それは忘れてはいけないことのような気がする。
レオノーラは必至に思い出そうとしたその時だ。
硬く握りしめていた彼女の手の上に、ふわりと何かが重なった。クリストフの手のひらだ。おどろいて顔をあげたレオノーラに、クリストフが静かにほほ笑む。
「レオノーラ」
「……クリストフ様」
目をしばたかせるレオノーラの手を、クリストフが優しく握りしめる。
「体が冷えてしまっている。温かいところにこう」
「……はい」
うなずき、レオノーラは立ち上がる。
すると思い悩んでいたことすら、まるで薄衣が風にさらわれるように消え去っていく。クリストフに手をとられ、レオノーラはあずまやを出る。そして数歩あるいたところで、レオノーラはふいに後ろを振り返る。
誰もいなくなった東屋。
そこにふわりと何かが風に舞い上がる。光の粒だ。だが、それはふわふわとまるで、綿毛のように舞いあがる。
「レオノーラ?」
「……あ、ごめんなさい」
不思議そうに振り返るクリストフの声に、レオノーラは慌てて歩き出した。
二人の姿は遠ざかり、そしてその姿が中庭から消えると同時に、漂っていた光の粒はふわりと崩れるように消え去った。
すると奇妙なことに、誘拐されたときの間の記憶はレオノーラの中からすっぽりときえさってしまった。
いや、レオノーラだけではない。
彼女の周りにいた人達の中でも、最初は覚えていたはずなのい、時がたつにつれまるで何事もなかったかのように記憶が曖昧になっていった。
そして、事件の真相はまさに闇の中に葬り去られることとなった。




