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四十一話

「……ここって、あの神殿だわ」


 王都の屋敷の近くにあるルウと出会った神殿だった。

 

「そういえばここの夢って見たことがなかったわね」


 あれほどよく訪れていたはずなのに、神殿の夢は見たことがなかった。

 だが、やはりルチアーノとあんな話をしたせいだろうか。

 ふわふわとした足取りのまま、レオノーラは古い落ち着いたたたずまいの神殿を歩く。すると、背後にある扉が開く音が聞こえた。

 何気なく振り返ったレオノーラは、飛び込んできた人の姿に思わず目を見らく。

 飛び込んできたのは誰であろう、レオノーラ自身だった。年ははレオノーラと同じか少し上だろうか。

 

「こんなことって……」


 思わず立ちすくんだままのレオノーラに、飛び込んできたもう一人の彼女はまるで気が付く様子もない。

 いや、それどころかレオノーラのことなど、そこにいないようだった。

 見えていないのだろうか。

 首をかしげたレオノーラの耳に、何かが聞こえる。雨音だ。窓を振り返ると、まるで礫のようにたたきつけられる雨粒が見えた。

 どうやら外は雨らしい。それもだいぶひどい。

 吹き付ける風が窓をガタガタと揺らす。

 飛び込んできたレオノーラは濡れた頬を指で拭う。どうやら雨のなかをやってきたようで、ドレスはぐっしょりと濡れそぼっている。


「……変ね」


 彼女の様子を見ていたレオノーラは首をかしげる。

 貴族の娘が一人で供もつれず、外出することなどあるだろうか。ましてや外は嵐だ。馬車に乗ってきた様子もない。

 一体、何があったというのだ。


「家出かしら」


 ぽつりとつぶやいたレオノーラだが、すぐに首を振る。

 もめて家を飛び出すほど親とは親密なわけでもない。

 屋敷は小さいわけでもない。会いたくなければ、会わないことだって可能だろう。

 では、何が理由なのだろうか。

 首をかしげるレオノーラの耳に、駆け寄ってくる荒い足音が聞こえる。振り返った先に見えるのは神殿の奥に続く扉。その扉から現れたのは、額に汗をにじませたルウだった。

 どうやら神殿の奥から走ってきたのだろう。

 ぜいぜいと息をきらせ、ルウはまっすぐにレオノーラを――いや、その向こうを見つめた。


――やっぱり見えないんだわ……


 予想通り、駆け込んできたルウは、レオノーラをすり抜けずぶぬれの彼女に駆け寄る。


「ノーラ、こんなに濡れて……! 何があったんだ」

「ルウ……」


 レオノーラの顔がぐしゃりとゆがむ。そして大きく見開いた瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。

 ルチアーノは小さく息をはき、自分のまとっている上着を脱ぐと濡れた彼女の方に優しくかけた。そして彼女の肩をだき、木製の長椅子に促す。


「……ノーラ、何があったんだ?」


 彼女を座らせ、その隣に腰を下ろしながら訪ねるルチアーノに、彼女はすんと鼻をすすった。


「クリストフ様が……」

「あー……」


 ルチアーノが苦笑いを浮かべる。


「何? また約束をすっぽかされた?」


 すると彼女は小さく首を振る。


「違うわ」

「じゃあ、あれだ。ほかの女の話ばっかりしてたとか?」

「……いいえ」


 力なく首を振る彼女に、ルチアーノはわずかに眉を寄せる。


「じゃあなんだよ。まさか、とうとう婚約破棄になったとか?」

「……ルチアーノ」


 彼女は小さく笑みを漏らす。それは笑っているのに、まるで今にも泣きだしそうな表情だった。号泣するよりも悲し気な笑みに、さすがのルチアーノも言葉を詰まらせた。


「なんだよ……、何があったんだよ」

「今度、結婚することになったの」

「……は?」


 ぽかんと口をあけていたルチアーノは、信じられないというように首を振る。


「え? あいつ、とうとうあの女と結婚することにしたのか?」

「……違うわ」

「じゃあ」

「クリストフ様と私が結婚するのよ」


 視線を膝に落とし、ぽつりと返す彼女の言葉はどこまでも静かだ。

 感情は先ほど駆らないでいて、ひとかけらの揺らぎもない。妙に落ち着き払った態度が、離れたところで二人の会話を聞いていたレオノーラに違和感を覚えさせた。

 それはルチアーノも同じだったらしく、ぎこちなく笑みを浮かべながら彼女の顔をのぞき込む。


「どうしたんだよ。よかったじゃん。夢がかなったんだろ?」

「……夢? そうね」


 彼女は小さく息を吐く。


「そう思っていたこともあったわね」

「ノーラ……?」


 その瞬間、ぱたりと彼女の膝に小さな雫が零れ落ちた。

 硬く握りしめた拳の上に落ちたそれは、しずかに滑り落ち膝に小さく丸い染みをつける。


「……でもね、ルウ。クリストフ様は未だにあの方を愛しているのよ。それなのに」

「ノーラ……」


 ルチアーノは地面に膝をつき、うつむく彼女の顔をのぞき込むように見上げる。


「……ノーラ、考えすぎだよ。あいつだってバカじゃない。君のすばらしさに気が付いたんだよ。ようやくね。だから結婚を申し込んだんだろう」

「ルウ……」


 彼女はゆっくりと顔をあげる。

 その瞳には大粒の涙が浮かび、色をなくした頬を滑り落ちていく。


「……そうだったらどれほどよかったか」

「ノーラ?」

「ルウ」


 はらはらと涙をこぼしながら、彼女がつぶやく。


「だからね、ルウ。今日はお別れにきたの」

「え?」


 ルチアーノの頬がこわばる。


「どうして」

「……結婚をしたら私は彼の領地の屋敷にいくことになるの。だから、もう……会えない」

「そんな……」


 ルチアーノは一瞬声を詰まらせる。だが、すぐにぎこちない笑みを浮かべた。


「……でも、ずっとってわけじゃないだろ? シーズンになったら王都にまた戻ってこられる。その時にまた会えば」

「いいえ、ルチアーノ」


 彼女はゆるゆると首を振る。


「……私はここに来ることはもうないの」

「は? なんで」


 言いかけたルチアーノは何かに気が付いたようにはっと息をのむ。


「……まさか、あの女のため?」

「違うわ」


 弱弱しく返す彼女の言葉に、ルチアーノは眉を吊り上げる。


「だから君をあんな辺鄙な場所に閉じ込めようって」

「ルウ、そうじゃないわ……」

「そういうことだろ!」


 激昂するように叫びながら、ルチアーノは硬く握りしめたままの彼女の手を取る。


「ノーラ! 僕が力になる! だから、逃げよう」

「ルウ……」


 はっとしたように彼女は顔をあげる。

 だが、すぐに視線を膝へと落とした。


「だめよ」

「どうして!」

「……ルウを、犠牲になんてできないわ」

「犠牲? なんだよそれ」


 ルチアーノは彼女の手を握り締め、叫ぶ。


「犠牲になっているのは君にほうだろ! あの二人のために犠牲になるつもりかよ」

「……違うわ」


 彼女の瞳から涙が零れ落ちる。


「犠牲になったのはクリストフ様の方よ。あの方こそ、愛する人と一緒になれず、私なんかと一緒になることになったんですもの」

「じゃあ、ノーラ、君は?」

「……え」


 声をつまらせる彼女の手を握り締めたまま、ルチアーノはまっすぐに見つめる。


「君はどうなの?」

「私は……」


 彼女は目を伏せる。


「……私はいいのよ。愛されなくても」

「嘘だ」


 握りしめていた手を離し、そのまま彼女の腰に両手を回す。

 まるでしがみつくようなルチアーノを、彼女は静かに見つめる。そして口を開いたその時だ。ドンドンと神殿の扉をたたく音が響く。


「レオノーラ様。こちらにいらっしゃいますか!」


 静寂をかき消すような冷たい声に、二人ははっと息をのむ。

 彼女はしがみつくルチアーノの手を引きはがし、そしてそっと立ち上がった。


「……今までありがとう、ルウ。元気でね」

「ノーラ!」


 ルチアーノの声に、彼女はわずかに顔をゆがめる。

 だが、それを振り払うように背を向けるとそのまま扉の方へと去っていった。

 遠ざかる足音が消え、神殿は再び静寂に包まれる。ただ一人残されたルチアーノは彼女の残り香を追うように扉をじっと見つめ続ける。


――これって……


 二人のやり取りを見つめていたレオノーラは、ごくりと息をのむ。

 これは本当に夢なのだろうか。

 夢というものはたいてい、荒唐無稽なものというのが相場だ。

 だが、今、目の前で繰り広げられた光景はとてもではないが、荒唐無稽という言葉では片づけられないものがあった。

 そもそも、レオノーラの知っているルウとも違うし、あのレオノーラも自分とはまるで違う。まったくの全然別人だ。

 

――でも、どういうこと?


 レオノーラはどくどくと音を鳴らす胸に手をあて、小さく何度も息を吐く。と、ばしり、と激しい破裂音があたりに響いた。

 はっと視線をあげると、神殿の窓ガラスすべてにひびがはいっているのがみえた。

 最初はわずかだったひびはまるで生き物のように広がっていく。小さな破裂音のようなものに交じり、ルチアーノがぎり、と奥歯を鳴らす。


「……ふざけるな」

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