三十八話
「ルチアーノ教皇に会えないってどういうこと? この私が! 聖なる乙女である私が会いたいといっているのよ」
「申し訳ございません」
深々と頭をさげる男を、鋭く見据えるのはクララだ。
いつもの朗らかな微笑みや、愛嬌のある表情はどこへやら。今、彼女に浮かんでいるのは焦りと怒り。
苛立たし気に吐き出されたため息にも、目の前の男――染み一つなく滑らかな光沢をたたえる衣をまとった男は張り付けたような笑みをたたえたまま、静かに目の前のクララと、そしてもう一人の女性を見つめる。
「アンリエッタ様も教皇様に御用でしょうか」
「ええ」
アンリエッタは顎をそびやかしたまま、静かに答える。
凜としたたたずまいはさすが第二王子の婚約者だといえるだろう。男はうかがうようにアンリエッタを見つめる。
「なるほど。ですが、妙ですね。アンリエッタ様は領地に戻られ、しばらく王都には戻られないものだと私どもは伺っておりましたが」
「あら、私のようなものの動向をご存知とは恐れ多いことだわ。ますます、教皇様にはぜひご挨拶をさせていただかないと」
嫣然と笑うアンリエッタに、男はいえいえと笑みをたたえたままかぶりをふる。
「領地からお戻りになられたばかりでお疲れでしょう。教皇様には私の方からアンリエッタ様のご帰還をお伝えしておきましょう」
では、と男は頭を下げ、そのまま立ち去ってしまった。
「もー! なんなの!」
残された二人のうち、最初に声をあげたのはクララだ。
苛立たし気に足を踏み鳴らしながら、長い廊下の先。男が消えた方をぎりとにらみつける。
「この間までぺこぺこしていたくせに! なんなの、あの態度! 全然違うじゃない!」
「もう、あなたに利用価値がないとわかったんでしょう」
「はああ?」
突き放すような冷たいアンリエッタの言葉に、クララは目を見開く。
「なにそれ!」
「あきれた。あなた、まだわからないの?」
アンリエッタはあきれたように踵を返すと、そのまま歩き出す。その後ろを慌ててクララが追いかけた。
「ちょっと! 待って! 待ちなさいよ」
わめくクララを、行き交う侍女たちが驚いたように振り返る。
だが、そこで騒ぎにならないのは、おそらくこういったことが日常茶飯事だからだろう。アンリエッタは背後で喚き散らすクララをちらりと見、それからあきれたようにため息をつきながら先を急ぐ。
長い長い廊下を抜け、たどり着いたのは突き当りの両開きの大きな扉だ。
すると、アンリエッタが声をかける前に扉がまるで魔法にでもかかったかのように静かに開いた。
戸口にいるのはこの部屋付きの従者。
そして奥に見えるのはジェレミーとクリストフ。そしてもう一人。
宵闇のように暗く冷たい黒髪に、そして黒曜石のような瞳。鋭い刃のような瞳が飛び込んできた二人に向けられる。と、その瞬間、ふわりとそのまなざしをゆるめた。
「おかえり、アンリエッタ。君がなかなか戻ってこないから心配したよ」
「……ヴィクトール」
駆け寄ってきた背丈の大きな男に、アンリエッタは顔をしかめる。
「戻らないって……、さっきこの部屋を出たばかりじゃないの」
あきれたように返すアンリエッタの横で、クララが顔をしかめる。
「……ほんと、毎回思うけれど殿下ってギャップありすぎるよね」
クララの言葉に、ジェレミーが頷く。
「これで外では鬼だのなんだのいわれてるんだもんなぁ」
「アンリエッタは特別だ」
がりがりと髪をかくジェレミーを冷たく一瞥し、ヴィクトールはアンリエッタを抱きしめ、額に口づけを落とす。
アンリエッタは顔をしかめながらも、ヴィクトールのことを拒否はしない。
思う存分口づけをおとし、満足したのかヴィクトールはアンリエッタを部屋の中央に置かれた長椅子に連れていく。そして自分の横に座らせると、そこでようやく未だ戸口に立つクララに視線をやる。
「そこで何をしている。座ったらどうだ」
「……あー、はいはい」
誰のせいだと言いかけ、クララは言葉を飲み込む。
むっつりと顔をしかめる彼女の横で、ジェレミーが小さく笑った。
「堪えろ。もう、慣れただろ」
「慣れた。慣れたけどさぁ」
顔をしかめたまま、クララはどかどかと二人の座っている長椅子に近づく。
そして息を吐き、腰に手を当てる。
「アンリエッタ。さっきのことだけど」
「さっきのこと?」
アンリエッタは肩に回るヴィクトールの手を鬱陶しそうに振り払いながら、クララを見つめる。
「さっきのことってなんのことかしら?」
「だから! 神官がいってたでしょ! 私のことを用済みだって!」
「ああ」
ようやく思い出したのか、アンリエッタはうなずく。
「そうね」
「そうねって……、私、聖なる娘よ? まだ何もしてないのに、用済みってどういうこと?」
憤慨するクララに、アンリエッタが眉を寄せる。
「どういうこともこういうこともないでしょ。教皇様の狙いはあなたでもこの国でもなかったということよ」
「つまり」
先ほどまで部屋の隅で、何かを考え込むように黙り込んでいたクリストフがふいに口を開く。
「目的はレオノーラだったということか」
「そういうことね。理由はわからないけれども」
アンリエッタが肩をすくめる。
「でなければ、ある程度重要な駒である聖なる娘の願いを無碍にするようなことはしないわ」
「ある程度?」
思わず叫んだクララの横で、ジェレミーが首をかしげる。
「だが、わからないな。レオノーラと教皇は一体どこで知り合ったんだ? 道端か? 店か? あの大神殿の最奥にいるといわれている神官たちの中でもっとも高位な人物と彼女が? 信じられないな」
「……まあ。そうだな」
うなずいたのはアンリエッタに二度ほど手を振り払われたヴィクトールだ。
「だが、可能性はゼロではない。そして今、その可能性を判ずることにどんな意味がある?」
彼の言葉は一つ一つが氷の礫のように鋭く、まっすぐ突き刺さる。
黙り込んだクララと、そして表情を硬くするクリストフを、ヴィクトールは交互に見つめる。
「しかし、今の話で一つわかったことがある」
ヴィクトールは振り払われた手をちらりと見、一瞬残念そうな表情を浮かべた。それからその手をゆったりと組みなおした。
「クララを切り捨てたということは、奴らはすでにここにはいないということだ」
「……そうでしょうね」
アンリエッタが頷く。
「クララをここに置くことで私たちの意識を逸らすことができるわ。もし、まだ教皇様がここに残っていたとしたら、邪魔な私たちをきっと妨害してきたはずよ」
「じゃあ、レオノーラはどこにいるのだ」
クリストフの唸るような声に、ヴィクトールが静かに目を伏せる。
「……アンリエッタの屋敷から一番近い神殿といえば、辺境伯領地の中心の神殿だ。距離からして普通に考えればあそこが怪しいと考えるのが妥当だろう」
だが、とすぐさまヴィクトールは首をふる。
「相手が教皇となるとそういった推測自体が無意味な話となる。奴にとって距離というものはまったくもって意味をなさないからな」
「どういう意味よ」
むっつりと割り込んだのはクララだ。
「そもそも馬車もなかったのよ。教皇がどうやって連れ去ったっていうの? 空でも飛んだの?」
「空ではない」
クララが言ったのはあくまで冗談のつもりだったのだろう。
だが、ヴィクトールの答えに、クララは仰天したように目を丸くした。
「え? うそ! ルチアーノって空、飛べるの?」
「違う。空を飛んだのではないといっているだろう。奴がしたのは空間を捻じ曲げたのだ」
「……はあ?」
クララは口をぽかんとする。あまりのことに言葉も出ないのだろう。
絶句するクララの横で、クリストフが口を開く。
「空間を捻じ曲げる術があると以前、書物では読んだことがあります。ですが、それはあくまで可能性の話であって、かつてその術を使ったものはいないといわれていたはずです。……まさか、教皇様はお出来になられるのですか?」
「クリストフ、別に驚く話でもないだろう」
クララにかわって尋ねたクリストフに、ヴィクトールが鋭い視線を向ける。
「過去にも教皇と呼ばれた人の中には、特殊な能力を持つものがいたと聞く。先々代の教皇はかつてこの地に水害の危機が訪れたときには、指一つで荒れ狂う川をせき止めたという話は有名だな」
「では……、今の教皇様もそのような力が?」
アンリエッタの問に、ヴィトールはうなずく。
「だが、彼の能力はそのような甘いものではない。おそらく時空や空間といった目に見えないものを操る力を持っている」
「……そんな」
絶句するアンリエッタの声に、クララが叫ぶ声が重なる
「チートすぎるじゃない! そんな話、聞いたことないわ!」
「……チー……? なんだそれは?」
胡乱気に見つめるヴィクトールの横で、アンリエッタが僅かに首をかしげる。
「そんなすごい力を持っているなんて、どうして誰も知らなかったのかしらね」
先々代の教皇の逸話がいまだに残っているぐらいだ。これほどの力を持っているならばもっと多くの者に知られていてもおかしくはないだろう。
クララも同意見らしく大きく頷いていた。
「そんなチートキャラなら、もっと目立つようにしてもらわないとだよね!」
「……だから、チートっていうのは何だと聞いている」
ヴィクトールの冷たい視線にも、クララはまるで気にするようすもない。
「チートっていうのは、裏技っぽい意味じゃない?」
「……お前の言葉の意味はさっぱりだな」
首をかしげるヴィクトールに、クララはふんと鼻を鳴らす。
「別に殿下にわかってもわらなくても、コンラド様はわかってくれますー」
「あいつは元々変わり者だからな。変わり者同士、話が合うのだろう」
「なんですってぇ!」
負けじと小ばかしたように笑うヴィクトールに、クララが眉を吊り上げる。
「変わり者っていったら殿下のほうでしょ! つか、ゲームんときも範疇外だったけど、リアルのほうがめちゃくちゃ苦手なんだけど!」
「奇遇だな。私も同意見だ」
「ちょ、ちょっと!」
ばちばちと火花が飛び散りそうな二人の間に割り込んだのは、場所的にもちょうど二人の間にいたアンリエッタだった。
「もう、二人とも! 今はそんな話をしている場合じゃないでしょう!」
二人をにらみつけ、アンリエッタは小さく息を吐く。
「そもそも取り立てて目立つ存在でもなかった彼が、どうして今になってこんなことをしでかしたのかしら? レオノーラのこともだけれど、何か裏でもあるのかしら」
「裏など、最初からないのではないか」
ヴィクトールは視線を隣に座るアンリエッタへと向ける。もちろん、彼女の手を握ろうと手を延ばし、そして振り払われるのも忘れない。
冷たくあしらわれながらも、ヴィクトールはひどく真面目な表情を浮かべた。
「そもそも、クララが城に送り込んだ時にいろいろ手を打つことができたはずだ。アンリエッタ、君が領地に戻った時も奴らは何もしなかった。そう考えると彼の目的は、国といったものではないのだろうな」
「……やはり、彼の目的はレオノーラだったということですか」
ぽつりとつぶやいたクリストフの言葉に、ヴィクトールは静かに頷いた。




