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三十七話

「……目、覚めた?」


 耳朶をかすめるやわらかな声に、闇の中に漂っていたレオノーラの意識がふわり浮き上がる。意識がはっきりしてくると、ひどく体がだるいことに気が付く。

 身じろぎどころか、指一本動かすことすらできない。

 それでもなんとか瞼を押し上げ、当たりを見回す。

 と、そこは見たこともない場所だった。辺境伯の屋敷でも、自室でもない。一言で言えば青い部屋。

 おそらく壁には一面、青いタイルが張り巡らされるせいだろう。

 壁紙とも違うどこか硬質なそれに、天井から吊り下げられたランプのやわらかな光が反射している。それがやけにまぶしい。

 うめき声をあげ、レオノーラはゆっくりと体を起こそうとする。だが、

 体はピクリとも動かない。戸惑うように瞬きをするレオノーラの横で、くすりと小さな声が聞こえた。


「ノーラ、無理しないほうがいい。暫く体は動かせないからね」

「え……」


 そろりと声のする方へと視線をやると、広い天蓋付きのベッドの脇に腰をかけ、こちらに手をのばしている人がいた。


「……ルウ?」

「やっと目が覚めた」


 そういってルウはにこりと笑った。


「気分はどう? って、いいわけないか」

「……どう……して」


 もつれる舌を必死に動かし問いかけるレオノーラの頬を、ルウは細く白い指先でゆっくりとなぞる。


「どうして? それって君がここにいること? それとも動かせないこと? それとも俺のことかな」

「……ぜ、んぶ」

「あー」


 ルウはなんどもレオノーラの頬を指でなぞりながら、わずかに顔をかしげる。と、やわらかなまるで月光のような色をした髪がわずかに揺れた。


「説明してあげたいけれども、今は君のほうが難しいんじゃないのかな?」

「ルウ……」


 ルウはふっと笑みを浮かべ、頬をなぞっていた手を引き戻す。

 そして今にもまどろみの中に落ちていきそうなレオノーラの上でゆっくりと円を描く。と、意識がずるりと引き込まれるような感覚が全体を襲う。


「……ま、ほう」


 レオノーラは魔法をかけられていることに瞬時に気が付いた。

 だが、彼女の抵抗など、ルウの魔法の前には子供の抵抗よりもなお、弱い。


「話は次に目覚めたときに、ね」


 レオノーラはかき消えそうな意識の中、ルウが笑ったのが見えた。

 その瞳の色は、王宮でのあの夜会。中庭で見た冷たい月の光のようだった。





 次に目覚めたとき、レオノーラには最初の時に感じたようなどろりと引きずりこむような、まとわりつくような感覚はなかった。

 起き上がり、レオノーラは改めてあたりを見回す。

 タイル張りの部屋。窓には幾何学模様の格子がはめ込まれそこから細い光が部屋に差し込む。光はタイルの表面で乱反射し、当たりをまぶしく照らす。

 寝台も同色の天蓋が欠けられている。

 布の端には房がつき、その先端には小さな石が等間隔に括り付けられている。


「……派手な部屋」


 辺境伯の屋敷はどちらかというと質実剛健。

 元が要塞だったせいだろう。石造りで頑強なつくりの上、豪快な辺境伯の人柄があちこちに感じられるものだった。

 そして王宮ともここは違う。

 王宮は外見の豪華さが中にまで感じられた。そしてその優美さは人が立ち入らなそうな細部にまで行き届いていた。

 しかし、ここはそのどれとも違った。

 豪華さは王宮をしのぐものであり、そして雰囲気はまるで


「……神殿みたい」

「神殿だからね」


 ふふ、と笑う声に、レオノーラははっとしたように振り返る。

 と、戸口にたたずんでいたのはルウだった。反射的に顔をしかめたレオノーラに、ルウは笑いながら軽く肩をすくめた。


「ノーラ、もしかして、怒ってる?」

「当たり前でしょ」


 レオノーラは眉を吊り上げる。


「いきなり知らない場所に連れてこられたのよ。びっくりするし、それに怒って当然じゃない。説明してちょうだい、ルウ。これってあなたがやったの?」

「そうだよ」


 さらりと答えるルウに、レオノーラは絶句する。そのまま目を見開き、口をぱくぱくと動かす彼女に、ルウはにっこりとほほ笑んだ。


「君をここにつれてきたのは俺だよ、ノーラ」

「どうして?」

「どうして?」


 尋ねるレオノーラの言葉を、ルウは首を傾げ、ほほ笑んだまま繰り返す。


「あれ? この部屋気に入らなかった?」

「そういう意味じゃないわ」


 レオノーラは首を振る。


「私が聞きたいのは、どうしてここに連れてきたのかってこと。なぜなの、ルウ」

「……そうだな」


 ルウはゆっくりと寝台に近づくと、上にいるレオノーラの近くに腰を下ろした。


「君が聞きたかったのはそれだけじゃないだろう? あと、なんだっけ?」

「どうしてここにつれてきたの? 魔法を使ったのはなぜ? あと」


 レオノーラはいったん言葉を切り、すぐ隣に座ったルウを見つめる。


「ルウ、あなたは誰なの?」


 ここまでくれば彼が神殿の下働きでも、騎士見習いでも、治癒師でもないことぐらいわかる。今の彼はおそらくそのどれでもないのだろう。

 一体、彼は何者なのか。

 今まで知っていたと思っていたはずの人が、まるで別人のように見える。

 かすかな震えが全身に広がる。それを抑え込むように強くにらみつけるレオノーラに対し、ルウの表情は何一つ変わっていない。


「質問が多いね」

「ルウ、答えて」


 思わず叫ぶ彼女に、ルウはその長い指先を延ばしレオノーラの頬を、そして唇に触れる。


「静かに。そうでないと、また君の自由を奪うことになる」

「……っ」


 ひゅっと息をのむレオノーラに、ルウは深い笑みを浮かべる。


「俺だってそんなことはしたくない。けれども、君が協力してくれないと周りがうるさくなるからね」


 肩をすくめ、ルウはちらりと視線を扉の方へと向ける。

 窓にはめ込まれた幾何学模様の格子と同じ紋様が刻まれた両開きの扉。おそらくその向こうに人がいるのだろう。そしてその人はどうやらレオノーラには協力的ではないことも。

 小さく息を吐き、レオノーラはゆっくりとうなずいた。


「ありがとう」


 ルウはほほ笑み、唇を抑えていた指をゆっくりと離した。

 かすかに残る指の感覚を拭い取ろうと、レオノーラはぎゅっと唇をかみしめる。


「……あなたの本当の名前はなに? ルウは偽名なんでしょ」


 レオノーラの問いに、ルウはほほ笑んだまま小さく息を吐く。


「ルウじゃダメ? 君だけの名前なんだけどな」

「本当の名前を聞かせて」

「……、わかったよ」


 やれやれと息を吐き、ルウはレオノーラを改めて見つめる。


「ルチアーノ。僕の名前はルチアーノ・ジラルドーニ」




――昔々、一人の心優しい少女のもとに月の女神さまが現れました。


 女神様は心優しい少女に自らの力をほんの少しだけわけてあげました。

 するとどうでしょう。

 少女に聖なる力が宿ったではありませんか。

 人々は少女のことを聖なる女神の娘と称えました。

 聖なる力を宿した娘は、長らく人々を苦しめていた魔物を倒すべく都を旅立ちました。

 そこに三人の従者があらわれました。

 一人は騎士。大剣をふるいやすやすと魔を切り裂いた。名前はリシャール。

 一人は魔法使い。闇さえも祓う強い稲妻の力を操った。名前はシャルロ。

 そして最後に現れたのは彼女に力を与えた女神に仕える神官。名前はルチアーノといいました。



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