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三十六話

――それは奇妙な夢だった。



 レオノーラは前世があるとわかってから、昔のことは一度も夢を見たことはなかった。いや、夢だけではない。記憶だってほとんど思い出せず、ただ、ぼんやりとかつての景色のようなものが脳裏をよぎるぐらいだった。

 だが、この時に見た夢は実にはっきりとしたものだった。

 年は今の自分よりももう少し上だろうか。

 ひどく焦っているように、大通りに出る脇道を走っていた。


「もう! どうして今日に限って残業なんだろ!」


 ああ、そうだ。

 確かこの時、自分はひどく焦っていた。何しろ、今日はずっと待ちわびていたゲームの続編が発売される日だったからだ。


「やっぱり有休とっておけばよかった」


 しかし仕事が立て込んでいて、休みをとれる状況ではなかった。

 とても楽しみにしていたのに。

 ぶつぶつつぶやきながら、大きい交差点に差し掛かった。

 ここを抜けて少し行けば最寄り駅はすぐ目の前だ。

 すでに周辺の会社は大半の人が帰宅してしまったのだろう。いつもなら混雑する交差点だが人通りはまばらだ。

 ちょうど赤信号になったばかり。

 いら立ちを抑えるように足踏みしながら、ちらりとスマホに視線を落とす。

 発売日にSNSをのぞくのはご法度。

 ネタバレを気にするならばクリアするまでは我慢だと分かっていても、趣味友達のコメントが気になって仕方がなかった。

 薄目でちらりと見ると、前評判通り前作ではわき役で攻略出来なかったキャラのルートの話で持ち切りだった。


「……ああー、早くやりたい」


 こういう時に限って、時間の流れというものはどうして遅く感じるのだろうか。

 いつもならさして気にならない赤信号の待ち時間すら、いつもの倍。いや、三倍にも感じられる。

 と、その瞬間、ぽんと片手の中のスマホから小さな音が聞こえた。

 新しいコメントが到着した音だ。足踏みをしながら手の中の小さな画面に目を落とすと、気になることばが飛び込んできた


――ちょっと! クリストフ様ルートマジやばいんだけど!


 クリストフ。

 前作ゲームでは主人公のサポート役であり、そして全ルートにおける当て馬的存在だったキャラクターの名前だ。

 今作は前作の続編ということもあって、前作をクリアしていれば色々なデータを引き継ぐことができる。

 例えば前作のキャラの追加エピソードや後日談が見られたり、特別なルートを開くことができる。

 もちろん、このゲーム単体でも十分遊ぶことは可能だが、やはり120%堪能するならば、前作もやりこむべきだろう。

 それに、今回は前作とは主人公が違う。

 前作での主人公は王都で暮らす平凡な少女。聖なる女神の力を授かったことで物語が始まった前作とは異なり、今回の主人公はクリストフと同じ貴族の娘で、名前は――


「あ……」


 車が通り過ぎる音に、顔を上げる。と、丁度信号が青に変わるのが見えた。

 首都高の入り口が近いせいだろう。この交差点は交通量も多く、信号ギリギリに突っ込んでくる車も少なくない。だからこの交差点を通るときは、気を付けるようにしているつもりだった。

 けれども、その時はずいぶん気持ちが浮かれていたんだろう。

 青になった瞬間、交差点に飛び出した。その時どこからか声が聞こえた。それは背後にいた人の叫ぶ声か。それとも自分の声だったか。

 激しくきしむブレーキ音。さっと舐めるように辺りを照らすヘッドライト。

 はっと振り返った瞬間、明かりは目の前にありそしてまぶしいほどだった光は一瞬にして暗転した。



――そして世界は閉ざされた。




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