表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/45

三十二話

―……君が僕の思っている相手を知っている、と?



 そんなこと今更言われるまでもない。

 あのゲームで彼が何度も愛を告げた相手は、誰でもなクララだ。

 そのことをレオノーラは何度も液晶画面越しに見てきた。だから知っている。彼がどんな言葉で、どんな視線で彼女を求めたのかを。

 だが、それを口にすることはできなかった。ただ、レオノーラができたのは、まなじりを吊り上げ、覆いかぶさるように自分を見つめる彼を見つめることだけだ。

 その視線を真正面から受けたクリストフもまた、表情はこわばったままだ。


「だから、別れると?」

「……仕方ないじゃないですか」


 レオノーラはふっと視線を逸らす。


「そうでもしなければ、クリストフ様は私と一緒にいなくてはならなくなります」

「それのどこがいけないんだ」

「どこがって……」


 はっきりさせないとダメなのだろうか。

 今でさえレオノーラの心は千々に乱れ、冷静に話すことすら難しいのに。

 レオノーラは再び視線を上げる。


「……嫌ではないのですか?」

「嫌?」


 クリストフはわずかに眉を寄せる。


「それは私のセリフだよ、レオノーラ。君こそ、嫌になったのだろう。僕といるのが」

「……っ」


 違う。そういいたかった。だが、言葉が喉に張り付いたまま。わずかに開いた唇から漏れたのはかすかな吐息だけだ。

 だが、それはすぐにかき消された。

 押し付けるようにふさがれた、彼の唇によって。

 身をかがめ、わずかに顔を傾ける。押し付けられた唇はひんやりとしていた。

 触れるだけの口づけ。

 レオノーラは二度ほど目をしばたかせ、それからようやく自分が口づけをされていることに気が付いた。


「……っ!」


 反射的に顔を振ろうとするが、その前にクリストフの両手が彼女の両頬をとらえ、動くことすらままならない。

 それどころか、重ねただけの口づけが、動いたせいだろうか。

 わずかにずれた。その拍子に薄く開いたレオノーラの唇の隙間から、ぐっと何かが押し入った。クリストフの舌だ。

 あまりのことにレオノーラはぎょっとする。

 重ねるだけの口づけだけなら、レオノーラだってしっていた。

 幼いころからクリストフからは挨拶がわりに頬や、額への口づけをされていた。唇はされたとことがなかったが、いずれするのだろうぐらいには思っていた。

 だが、これは想像すらしていなかった。

 いや、なんとなく知識としてはしっていた。小説だったり、年ごろの侍女のうわさだったり。それを聞いたときまず思ったのが、衝撃とそれから動揺だった。

 だってそうだろう。相手の舌だ。そんなものを入れてどうするのだ。

 だが、侍女たちから言わせると「むしろそれじゃなかったら物足りなくなってくる」といっていた。それがこれだろうか。

 重なる唇の間から、粘ついた音が耳を侵す。

 そのたびにレオノーラの頭の中から思考がぼろぼろと欠けていった。

 押し返そうと置いた手は、力を失い今や縋りついている始末だ。

 体の奥までかき回され、どこにも力が入らない。口端からこぼれたものを、クリストフが親指で拭う。そのしぐさに、ようやくレオノーラは口づけが終わったことに気が付いた。

 ぐったりと体を背もたれにあずけ、今にも崩れ落ちそうなレオノーラは、涙でにじむ瞳を目の前に向ける。


「……どうして」


 レオノーラの問に、クリストフがわずかに目を見開く。


「別れようとしているのにどうしてこんなことをするの?」

「レオノーラ……、それは」

「別れるから? だから? こんなことをしたの?」

「違う」


 静かに、だがきっぱりと断言したクリストフの指が頬を撫で、それから目じりを撫でる。

 そのとき初めて、レオノーラは自分が泣いていること気が付いた。

 先ほどまでクリストフの舌で乱されていた口から、小さく嗚咽がこぼれる。くしゃりとゆがめたレオノーラを、クリストフは身をかがめ静かに抱き寄せた。


「君は言ったね。僕が誰を思っているのか知っていると」


 知っている。レオノーラは慣れ親しんだクリストフの香りにつつまれながら、小さくうなずく。


「でもね、レオノーラ。君は誤解している」

「……ご、かい?」

「ああ」


 クリストフは小さく笑う。


「レオノーラ。僕が思っているのは、君だ」

「……え」


 レオノーラは小さく声を上げ、視線を上へと上げる。

 と、クリストフの優しく見つめるまなざしとぶつかった。


「……嘘、よ」


 レオノーラは信じられないというような顔をして、かぶりをふった。

 それはそうだろう。彼女の記憶のクリストフは、いつも報われない恋に苦しんでいた姿しかない。

 かきむしられるような焦燥を押し殺し、彼女の幸せのためにと優しく背を押している姿しか見たことがなかったのだ。

 違う、と小さくつぶやく彼女に、クリストフは笑いながら小さくため息をついた。


「嘘じゃない、レオノーラ。君と最初に会ったあの時から、僕の心の中にいるのは君だけだ」

「……クリストフ、様」


 レオノーラが小さくつぶやく。と、その瞬間、大きく見開いた瞳からころり、と涙が転がり落ちた。

 気が付かないふりをしていた。

 ずっと、クリストフのためだと自分に言い訳をして、あえて見ないふりをしてきた。

 だけど、なかったことにはできなかった。

 クリストフはずっとレオノーラに優しかった。あんなヘタクソな刺繍や、お守りを後生大事に持っていてくれたり、お姫様のように扱ってくれたりしたのだ。

 好きにならないわけがない。

 だからこそ、レオノーラは逃げたのだ。

 クリストフに別れを告げる勇気も、告げられる度胸もなかった。

 だから、しっぽを巻いて逃げ出したのだ。遠くに逃げてしまえば、なかったことにできると思ったからだ。

 だけど、それを彼は許してくれなかった。

 ぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちる。それをクリストフは優しく何度も何度も指先で拭う。


「レオノーラ、愛しているよ。君だけだ、君だけを愛している」

「……フ、様」


 私も。そうこたえようとしたレオノーラだが、嗚咽がそれを邪魔する。

 きゅっと唇をかみしめる彼女に、クリストフは小さく笑う。と、その時だ。


「……失礼します」


 がさがさと垣根が揺れる音と共に近づいてくる足音が聞こえた。

 その音に素早く反応したのはクリストフだ。先ほどまでの甘い雰囲気が滑り落ち、厳しい表情をうかべたまま音がするほうへと視線を向ける。

 庭園を照らすか細い明かりの中、現れたのは屋敷ではそう珍しくもない辺境伯の従者だ。

 年嵩クリストフと同じぐらいだろうか。すでに二人がいることを聞いていたのだろう。険しい顔をして腰を浮かせたクリストフにもさして驚いたようすはなかった。


「失礼いたします」

「……何かあったのか」


 すっかり水を指された格好になったからか。クリストフは不機嫌さを隠そうともしない。

 しかし従者も心得たもので、彼の不機嫌さなどまるで気にする様子はない。落ち着き払ったようすで東屋の手前で足を止めた。


「王都から火急の知らせとのことで、使者の方がお待ちです」

「火急の?」


 眉をよせたクリストフに、従者は静かに頷く。


「はい、ヴィクトール殿下からのご使者だと伺っています」

「殿下……」


 ヴィクトールの名前が出た瞬間、クリストフの顔色ががらりと変わった。


「すぐに向かう。レオノーラ、君も一緒に」

「申し訳ございません」


 従者はクリストフの言葉を遮る。


「なんだ」

「内密のご用件のようで、クリストフ様おひとりでとのことです。後から別の者がこちらに参ります。レオノーラ様はこのままこちらでお待ちいただくようにとのことです」

「だが」


 一人、レオノーラを残していくことをためらうクリストフに、レオノーラは慌てたように首を振る。


「大丈夫よ。一人で待てるわ」

「……すまない」


 素早く立ち上がり、歩きかけたクリストフが、レオノーラを振り返る。

 そして再び彼女の前に戻ると、その場で膝まづき、彼女の手を取る。


「すぐに戻る。君はここで待っていて」

「……わかったわ」


 うなずくレオノーラに、クリストフは小さくため息を落とし、それから握り締めていた彼女の手の甲に口づけを落とした。

 そして名残惜し気に手を離すと、やってきた従者と共に屋敷へと戻っていった。

 深い闇に包まれた庭の向こうへと二人の影が消えるのをまち、レオノーラは小さく息を吐いた。


「……クリストフ」


 小さくつぶやき、レオノーラは手を握り締める。

 手の甲に彼の唇が触れたのは、わずかな時間だ。そのぬくもりはあっという間に消えてしまう、はず。だが、握り締めた手はいまだ熱を持ったまま。

 レオノーラはそれを引き寄せるように抱きしめ、そして再びため息を落とした。

 嬉しかった。ただただ、純粋にうれしかった。

 いつのころからだろう。遠い存在。ただあこがれるだけの、画面越しの存在だったのが体温を持ち、そして同じ鼓動を奏でる存在に変わっていったのは。

 それをわかっていたからこそ、ずっと自分を偽っていた。

 彼を幸せにするのは自分ではない。だから、好きになってはいけない、と。

 だが、気持ちというものは頭で考えてどうにかなるものではない。

 自分をだませなくなったと気が付いたころから、レオノーラは彼と距離をとることをきめた。

 それはひどく苦しい決断だった。

 だが、そうでもしなかったらきっとこの気持ちをあきらめることはできないだろう。

 そう思ったのだ。


「……でも、違った」


 ぽつりとつぶやいた言葉に交じり、白く色を付けた息が闇に染まる空へと散っていく。

 ふ、と視線を空へと向けると頭上にはそれこそ一面に散らばる小さな光のかけらたち。まるで今にも降ってきそうなその空を見上げながら、レオノーラは握り締めた手を、胸に引き寄せる。と、その時だ。

 静寂を打ち破るように、再び生垣が揺れるがさりという音が飛び込んできた。

 ふ、と振り返ると、音がした生垣の向こうに人影が見えた。だが、等間隔に置かれ庭を照らす灯篭からは遠く、やってきた人が男なのか女なのかすらもわからない。

 だが、おそらくやってきたのは先ほどの従者がいっていたもう一人の従者とやらなのだろう。ふっと息を吐いたその時、その人影から小さく笑う声が聞こえた。


「何が違ったわけ?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ