三十一話
戻ってきた二人が通されたのは辺境伯の屋敷の応接間だった。
そこにはすでにアンリエッタ、そして辺境伯とクリストフが、二人がやってくるの待ち構えていた。
「……遅くなりまして」
おずおずと切り出したレオノーラに、真っ先に答えたのはアンリエッタだった。
「気にすることはなくてよ。それに、もともと出かける予定だったじゃない。久しぶりに出かけたから楽しかったでしょう?」
「ええ……まあ……」
にこやかに笑うアンリエッタに対し、クリストフの機嫌は最高潮に悪そうだ。
のそのそとうなずくレオノーラの横で、クリストフが満面の笑みを浮かべる。
「いやあ、実に楽しかったね。ここの市は初めてだったんだよね? レオノーラ」
「え? まあ……」
「そうよねぇ。ずっと屋敷にこもりっぱなしだったものね? 気分転換ができたのではなくて?」
にこやかな二人に挟まれながら、レオノーラははあ、とかまあ、とか返す。
アンリエッタは表面上にこやかだが、何かに腹を立てているようにも見える。ジェレミーといえば、何か面白がっているようで、どこまでも上機嫌だ。
そしてクリストフは今更確認するまでもない。
ただ一人、平常心を保っているのは辺境伯だけ。
特に面白みもない。ただの日常会話のはずなのに、どうしてこれほど緊張しなくてはいけないのか。レオノーラには皆目見当がつかなかった。
「それはそうと、クリストフ様。突然のお越し、おどろきましたわ? 殿下の使いならばジェレミー様ですし……、一体、どうかなさったの?」
にっこりと笑みを浮かべるアンリエッタに、クリストフはわずかに頭を下げる。
「アンリエッタ様、マルロー閣下にはこのように騒ぎを起こしてしまい、申し訳ございません。ですが、どうしても会わなくてはならないと思い」
「会う?」
アンリエッタの顔から笑みが消える。片手に持っていた扇をぱしりと鳴らしながら、クリストフをまっすぐに見据える。
「クリストフ様。今、会うとおしゃいました? それは一体どなたに?」
「それは……」
クリストフの視線がレオノーラに向けられる。
だが、彼女は先ほどからうつむいたまま、クリストフの方を見ようとはしなかった。
じっと見つめる彼の耳に、アンリエッタの声が突き刺さる。
「王都の噂はこちらにも届いておりますのよ、クリストフ様。レオノーラは私にとっても大切な友達。これ以上、彼女を傷つけるならばわたくしにも考えがあります」
「いえ」
クリストフが再びアンリエッタを見つめる。
「アンリエッタ様、私はそのことで彼女と話がしたいのです」
「……断るといったら?」
アンリエッタの声はどこまでも容赦がない。
彼女は彼女なりに、レオノーラを守ろうとしてくれているのだろう。
いや、彼女だけではない。能天気に見えるジェレミーも、そして黙ったまま事態を見守ってくれている辺境伯も、誰もがレオノーラを守ろうとしてくれている。
その好意に、やさしさについ甘えたくなる。
だが、いつまでも頼っていいわけではない。
いずれ一人で立ち向かわなくてはいけなくなる。それが遅いか早いかだけ。
だったら――レオノーラはしずかに顔をあげ、そしてクリストフを見つめる。
「わかりました」
「レオノーラ?」
アンリエッタが叫ぶ。
「いいのよ! 無理に話なんて聞かなくたって」
「いえ、アンリエッタ様」
レオノーラは薄くほほ笑む。
「大丈夫です。私、それほど弱くありませんから。それに覚悟なら、ずっと前からしています」
「……レオノーラ」
アンリエッタは言葉を切り、それから小さく息を吐いた。
「わかったわ。でも覚えていて、レオノーラ。私はどんな時でもあなたの味方だということを」
「ありがとうございます」
深々と頭をさげ、レオノーラは再びクリストフへと視線を向ける。
彼ときちんと向き合うのはどのぐらいぶりだろうか。
クリストフはレオノーラの視線をまっすぐにうけ、それからゆっくりと近づく。
するとわずかに彼の面差しが変わった気がした。頬のあたりがこけているような気がする。仕事が忙しいのだろうか。そんなことを考えていたレオノーラの前に、クリストフが片手を差し出す。
その手のひらに、レオノーラは自分のそれを重ねる。
手のひらに感じるぬくもりは、長年慣れ親しんだものだ。レオノーラが望めば、いつもそこにあった。だが、それも今日まで。
覚悟をしていたとはいえ、ひどく胸が痛んだ。
クリストフが向かったのは屋敷の庭だった。回廊を抜けた先にあるそこは、等間隔に置かれた外灯のおかげで、ほのかに明るい。その中央に見える白い東屋のベンチにレオノーラを座らせ、自分はその向かいに腰を下ろした。
今日は月が出ていない。
そのせいで明かりはいつもの青白いものではなく、どこか温度を感じるものだった。
それを横顔に受けたクリストフの顔を、レオノーラはまじまじと見つめる。
すっと通った鼻筋。薄く引き結んだ唇。やわらかな目元。
ここに来てからというものの、必至に忘れようとした。だけど、そう思えば思うほどクリストフの顔が脳裏に焼き付き、離れない。
こうしている間にも何度もその記憶を確かなものにしようとしている自分がいた。そんな自分にどこまで諦めが悪いのだとレオノーラは心の中で笑う。
それが表情に出ていたのだろうか。
こちらを見つめていたクリストフが目をすがめる。
そしてそれを隠そうとするようにわずかに顔を伏せ、息を吐く。
「……レオノーラの父君から婚約解消の申し出があった」
クリストフの言葉に、レオノーラははっとしたように目を見開く。
それから一瞬こらえるように顔をゆがめ、そしてすぐに笑みを浮かべた。
「ええ、私が父に頼んだことです」
「……本気か?」
「ええ、もちろんです」
クリフトフの問いに、レオノーラは一瞬黙り込む。だが、すぐに笑みを浮かべた。
「クリストフ様が幸せになられるのですから、私のことなどは忘れてください」
「……僕の、幸せ?」
クリストフの顔が一層険しくなったような気がしたが、レオノーラはそれどころではない。今にも泣いてしまいそうなのを必死にこらえていたのだから。
「ええ、そうです。前に言ったのを覚えていませんか? ほら、小さいころに、言ったでしょう」
「……幸せにすると言ってくれた、あの」
「そうです。ですから、クリストフ様は何も気にされることは」
言いかけたその瞬間、レオノーラはクリストフの鋭い突き刺すような視線にようやく気が付いた。
「……幸せ? これが、僕の幸せだと?」
「え?」
ふと、レオノーラは、膝に置かれたクリストフの手が硬く握りしめられているのに気が付いた。そしてその硬く握りしめた手と同じく、彼の顔も硬くこわばっていた。
「レオノーラ、君は……」
クリストフは絞り出すような声。クリストフは一度、言葉を切る。そして膝の上に置かれたこぶしにさらに力を籠めた。
「……君は、僕との婚約を本当になかったことにしたいのか」
「わ、私は……」
そうだ、と告げるべきだとわかっていた
だが、いざクリストフを目の前にすると言葉が出なかった。
声を詰まらせたレオノーラに、クリストフはふと視線を逸らす。
「君の父上から……マルロー伯から言われたよ。君が私との婚約を取りやめたいといっていたと」
「お父様が……」
王都での噂はよほどひどかったらしい。でなければ、あれほどまでにクリストフとの婚約にこだわっていた父が折れるはずもなかった。
「……君は後悔していたのか、僕とのことを」
目を伏せたレオノーラの耳に、クリストフの苦し気な声が聞こえる。
ぱっと顔をあげたレオノーラは、二度、三度とかぶりをふった。
「いえ、いいえ」
「では」
クリストフは目をそらしたまま、言葉を切る。
それは何かをこらえているようにも、泣き出しそうなのを我慢しているようにも見えた。
「……では、どうして」
「クリストフ様を……幸せにしたいと……」
「……僕を?」
驚いたように振り返る彼に、レオノーラは小さくうなずく。
「あの……、クリストフ様が誰を思っておられるのか、ずっと前から知っていたんです」
「……え?」
クリストフは一瞬、おどろいたように目を丸くする。だが、すぐさまその目はすがめられた。
「僕が、誰を思っていると?」
「それは……」
言いかけたレオノーラは、クリストフの顔が険しさを帯びていることに気が付いた。
はっとしたその時だ。クリストフがすっと立ち上がった。
出ていくのかと思ったが、違った。彼は東屋を出ていくことなく、レオノーラの前で足を止めた。
じろりと見据える彼の視線からレオノーラは逃げるようにうつむく。
と、その瞬間、彼の両手がレオノーラをとらえるように長椅子の背もたれに手をつく。
「……君が僕の思っている相手を知っている、と?」




