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三十話

「ルウ?」


 ノーラと呼んだ時とは違う少し低い声音に、レオノーラは振り返る。

 と、椅子からルウが立ち上がるところだった。

 座ったまま見上げる彼女の手を、ルウはしずかに取る。


「ノーラ、人は見た目じゃない。君が思うほど、この世界はやさしいくはないよ」

「ルウ?」


 立ち上がりかけるレオノーラに、ルウはにこりと微笑み、掴んでいた彼女の手の甲に唇を寄せる。かすかに触れるその感触にはっとしたその時だ。


「レオノーラ!」


 喧噪をつんざく鋭いジェレミーの声が聞こえる。

 ルウはさっと掴んでいたレオノーラの手を離し、そして身をひるがえすように雑踏の中へと姿を消した。

 駆け込んできたジェレミーは、消えたルウを追うようにあたりを見回す。

 だが、すでに彼は通りを行く人の流れの中に飲まれ、姿は見えなくなっていた。

 ジェレミーは小さく舌打ちし、一緒にやってきた人になにやら目配せをした。そして彼らが立ち去るのを待ってから、ベンチにぽつねんと座っているレオノーラを見つめた。


「今のは誰? 神官のように見えたけど」

「知り合いです。王都での」

「知り合い?」


 ジェレミーはわずかに驚いたように目を見開く。


「神官に知り合いがいるの?」

「元は王都の神殿で下働きをしていた子なの。そこで知り合ったの」

「ふうん。それがどうしてここに?」

「用事があるといったけど……」


 言いかけ、レオノーラはふとルウのいったことを思い出し、首をかしげ考え込むジェレミーをじっと見つめる。

 ルドリアは東の方の国だと聞いたことがある。

 三方を内海に囲まれた国だ。海運業が盛んで、陽気な人が多いときく。瞳はルドリアを囲む海と同じ青緑色をしているときいたことがある。

 確かにジェレミーの瞳も同じだ。

 それに性格は男女問わず友好的とのことだ。そういわれると、ジェレミーはルドリアっぽく見えないこともない。

 だからルウはそういったのだろうか。


「どうかした?」

「え?」


 あまりまじまじと見つめていたせいだろう。

 不思議そうに首をかしげていたジェレミーは、何やら思いついたのかにやりと笑った。


「ん? 見惚れた? 結婚する?」

「ち、違います! ただ……っ」


 言いかけて、レオノーラは言葉を切る。

 それをジェレミーはわずかに眉を上げるだけにとどめた。

 馬車に戻ったのはそれからしばらくしてのことだ。その間も、ジェレミーの口は相変わらず軽く、それを聞くたびやはり彼がルドリア出身だと思えてしかたがなかった。

 しかし、それだってただ口が軽いからというだけだ。

 それだけでルドリア出身ならば、陽気で女好きの大半はルドリア出身でないとおかしいという話になる。

 きっと、そういうつもりでルウもいったのだろう。

 そう考え、レオノーラはそれ以上考えるのをやめた。

 馬車が屋敷に戻ると、なにやらようすがおかしいことに気が付いた。


「……誰かきたのかな?」


 ぽつりとつぶやくジェレミーにつられるように、レオノーラも視線を窓の外へと向ける。

 と、出かける前はいつもと同じ。閑散としていた屋敷の前には、まだ馬具をつけたままの馬が三頭、落ち着かなさげにたたずんでいるのが見えた。


「あれは……、近衛騎士の馬に似ているな」


 わずかに目をすがめジェレミーがつぶやいたその時だ。

 屋敷の扉が勢いよく開き、慌てたように叫ぶ執事の声が聞こえてきた。


「ですから、お二人はまだお戻りにはなっておられません!」

「結構。ならば、私が迎えにいくまで」

「いえ、それは……」


 転がるように飛び出してきた執事が、屋敷前に止まっている馬車に気が付き目を丸くする。明らかに、戻ってきたことがまずいといっているようだった。


「……なんか、まずいところに戻ってきたみたいだな」

「え? どうして」

「いや、だから」


 言いかけたジェレミーは、ふいに口を閉ざす。

 戸口で押し問答をしていた執事の脇を、誰かがすり抜け立ち止まった。そしてその鋭い視線が、まっすぐに馬車を。いや、馬車の中にいるジェレミー、とレオノーラをとらえた。


「……レオノーラ」


 こぼれた声は、決して大きくはない。

 だが、離れた場所にいるレオノーラにはしっかりと届く。それが誰かなど、いまさら確認するまでもない。

 その声の主はまっすぐにレオノーラを見つめたまま、こちらにむかってくる。

 とっさに腰を浮かせたレオノーラに、隣に座っていたジェレミーが小さく笑う。


「逃げても無駄だろ」

「だ、だって」


 射貫くような視線。今まで一度だって感じたことのない彼の強い視線に、レオノーラは明らかに動揺していた。

 一体、なぜ、彼は――クリストフは怒っているのか。

 皆目見当がつかなかったからだ。だが、今、彼と鉢合わせるのはまずい。

 だが、どこに逃げるというのだ。

 レオノーラがまごまごしているうちに、クリストフは馬車の扉に手をかけ、やや乱暴に開け放った。


「よう、クリストフ。お前、なんでこんなところにいるんだ?」

「……その話はあとだ、ジェレミー」


 ばさりと切り捨てるように言い放ったクリストフは、ジェレミーの腕にすがるように縮こまるレオノーラへと視線を向ける。

 それはどんな恐ろしい魔物の咆哮よりも、レオノーラを震え上がらせた。

 それに気が付いたのか。ジェレミーが小さく息を吐いた。


「クリストフ……、お前の気持ちはわかるが少し落ち着け。これじゃ話もできないだろう。それに、このままじゃオレは動けない」

「……すまない」


 クリストフは絞り出すように言葉を吐き出し、くるりと踵を返す。

 彼の強い視線からようやく逃れられたレオノーラは大きく安堵のため息をつく。


「……こ、怖かった」

「それはこっちのセリフだよ」


 そういってジェレミーもまた大きくため息をついたのだった。


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