三話
「え?」
クリストフとしては、予想外の言葉だっただろう。
美しいブルーグレイの瞳を大きく見開き、まじまじとレオノーラを見つめている。
当たり前だ。何しろ先ほどまで黙り込んでいた娘が突然、顔を上げたかと思うと「力になりたい」などいいだしたのだ。
突拍子もないことのこの上ないし、どう考えても普通ではない。
「す、すみません。突然、変なことを言って」
レオノーラははっとして、手を引き戻そうとする。だが、握り締めた手が、クリストフのそれから離れることはなかった。
優しく。だが、しっかりと握り返されたレオノーラは、おどろいたようにクリストフを見つめた。
「あ、あの」
「……うれしいな」
ぽつりとつぶやいたクリストフに、レオノーラは動きを止める。
おかしいと思われても仕方のないシチュエーションだったにもかかわらず、クリストフはふっと頬を緩め、そして優しく手を握り返した。
「僕も君を幸せにしたいと思ってもかまわないかな?」
「よ、喜んで!」」
思わず叫んだレオノーラに、クリストフはふわりと笑みを浮かべた。
その夜、レオノーラは自分の部屋でがっくりと落ち込んでいた。
「……もうだめだわ」
クリストフはあのように優しく答えてくれたものの、何度考えても尋常ではない。
そもそもあんな奇妙なことを口走る女、誰が好き好んで婚約者にするだろうか。
クリストフは条件で言えば好物件。別にレオノーラでなくとも、他に相手はいくらでもいるだろう。
「なにが幸せにするよ。それ以前の問題だわ……」
その晩、レオノーラはどこぞの海峡よりも深く深く沈み込んでいた。
だがその翌日のことだ。
「レオノーラ!」
ひときわどんよりと朝食を食べていたレオノーラの元に、珍しく母が興奮気味にやってきた。
「……なんですか?」
「なんですかじゃありませんよ! レオノーラ、落ち着いて聞くのよ」
「……落ち着くのはお母さまの方では」
言いかけたレオノーラを、母はじろりとにらみつける。
思わず口をつぐんだレオノーラの前に差し出されたのは一通の手紙だ。封蝋が施された明らかに高級そうな封筒。レオノーラはいぶかしげに、母親を見つめる。
「これがなにか?」
「あなた……! 昨日の今日でもう忘れてしまったの? いくらやる気がないからって……」
大仰にため息をついた母が差し出した封筒を、レオノーラはまじまじと見つめる。
皺ひとつない封筒に垂らされた封蝋。そこに刻まれた刻印。美しい文様がきざまれたそれは、家から家へと出された正式な書類であることを告げている。
そしてその刻印こそクリストフの家。レヴィナス伯爵のものだった。
レオノーラは思わず顔を上げる。
「え? 嘘でしょ……」
目を丸くする娘に、母は満足げな表情を浮かべた。
それはクリストフの家からの手紙――婚約の申し込みの手紙だったのだ。
レオノーラが前世の推しだったクリストフというキャラには、奇妙なことに不名誉な二つ名があった。それは「当代きっての当て馬」というものだ。
もちろんこんな下世話なあだ名が公式のものであるはずがない。
発生はネット界隈の一部からだったが、瞬く間にファンの間にひろがったのだ。
もちろん、まったく的外れなものだったり、キャラを貶めるようなものであったならそのようなものはすぐに消えてしまう。
だが、クリストフの場合は、そんなことにはならなかった。
それどころか、まるで公式のような扱いにまでなってしまったのだ。
しかし、どうして当代きっての当て馬など下世話な名前がぴったりだったのか。
それは、彼の立ち位置のせいだ。
例えば、メインキャラクターの一人である第二王子。
ゲームのパッケージではヒロインと並び描かれる存在で、所謂メインキャラクターというやつだ。王族らしく尊大だが、正義感が強い。そんな不遜な王子には幼なじみがいた。それがクリストフだ。
年が近く、家柄も悪くない。もちろん、王子の側近として期待されて、のことだろう。
実際、クリストフはその期待に十二分に答えた。
そして彼は側近という枠をこえ王子の側近以上、友人のような存在となり、さらに王子を思うヒロインの最大の味方ともなるのだ。
また、別の攻略キャラの場合。
例えば、騎士の時などは同じ騎士として時にライバルとなり、時として厳しすぎる彼からの盾となり、ヒロインを守る存在ともなる。
宰相のときは、気難しい彼のことで悩む主人公の良き相談相手として。
年下の魔導士のときには、複雑な生い立ちの彼とヒロインとの橋渡し役として深く物語にかかわってくる。
どんな立場のときでもクリストフはヒロインにとって最も信頼すべき存在であり、たとえヒロインの能力が低く、攻略相手の好感度が全くない場合でもクリストフの彼女に対する態度は何一つ変わることはなかった。
ヒロインを思う気持ちはどこまでも強く、美しいと評判の令嬢が声をかけてたとしても、相手にすらしないという徹底ぶりだ。
そんな彼だからこそ、家と家とのつながりだけを求めるような今回の婚約など、歯牙にもかけないと思っていたのに、昨日の彼の態度はどうだ。
優しいのは想定内。
だが、まさか婚約を申し込んでくるなんて、まるで彼の中にはあのヒロインが存在していないかのようだ。
そこまで考え、レオノーラははっとする。
――もしかして、まだ出会ってない……とか?
もし、そうだとしたら、クリストフのあの態度もうなずける。
そもそも運命の相手と出会っていないのだから、断るわけがない。もし、出会っていたならば、彼の性格からしてレオノーラを受け入れるようなことはしないはずだ。
レオノーラは思い出した記憶をまとめるため、書きつけていたノートを閉じ、小さく息を吐く。
この三日間、レオノーラはこんな風に自分の記憶を思い出すことに必死になっていた。
何しろ今の今まで、前世の記憶があるなんて思いもしなかったのだから。
だが、思い出せたのはほんのわずか。
ゲームが好きだったこと。そして前世、違う世界にいたことだけ。
逆に、前世の自分がどんな生活をしていたかとか、両親や兄弟がどんな人だったかなどということは何も思い出すことはできなかった。
「……本当なら、ゲームのことよりもそっちのほうが重要な気がするけれども」
レオノーラは小さく息を吐く。
そもそも好きなものしか思い出せないというのもよくわらない。
もしかしたら家族との縁が薄い人生だったのかもしれない。そして唯一の心のよりどころだったゲームが強く記憶にのこったとか。
「考えられるわね」
レオノーラは軽く目をつむる。
思い出せないことをくよくよ悩んだところではじまらない。
唯一思い出せる記憶――ゲームのことを、レオノーラは改めて考えた。
記憶の中でのゲームの始まりは、ヒロインがお使いで王都に出てくるところからだ。
その日はちょうど祭りの日ともあって、都はどこもにぎやかだった。
そこでヒロインは酔客に絡まれる町娘を見かける。正義感が強く優しい彼女は当然、酔っ払いに立ち向かった。だが、いくら酔っているとはいえ相手は男。それも体格も上だ。
腕などは丸太ほどもありそうなほど太い。その相手に向かってきたその時だ。
男の腕をひねり上げ、クララを救ったものがいる。
それが運命の相手――攻略対象者だ。
ここまで思い出せたのはいいものの、そこから先。肝心な攻略対象者の名前はおろか、顔立ちすら思い出すことはできなかった。
「しかし、ほんと、使えない記憶ね……」
レオノーラはつむっていた目を開き、軽く首を振る。
ゲームが一番大切だったのではないのか。
それがなんとも中途半端な記憶しか残せないなんて。
がっくりとうなだれたレオノーラだが、すぐに思い直す。
「まあ、しょうがない」
所詮は前世のこと。今の自分とは何も関係のないことだ。
ならば、この先は自分がどうにかするしかない。
そもそもこれほどまでにレオノーラが前世のこと、そしてゲームの内容を思い出そうとしているのは、誰のためでもない。クリストフのためだった。
クリストフはヒロインをひたすら愛する。それこそ一途といってもいい。
それほどまでに思いをささげたとしても、その見返りはあまりに小さい。
彼の思いは決して報われることがなく、行く末も暗澹たるものだ。
その最たるものが愛していない婚約者との結婚。つまり、自分とのことだ。
この世界では家同士のつながりをえるために結婚することはさして珍しくもない。
そこに個人の感情は爪の先ほども加味されないことだって、わかっている。
レオノーラの両親だってそうだ。だが、それがまったくの不幸かといわれたらそうではない。それなりに幸せで、平穏なものだ。
だが、レオノーラは知ってしまった。彼が心の底から求めているものを。
それがわかっているのに、知らんふりして結婚なんてレオノーラにはとてもではないができなかった。




