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二十九話

 今のレオノーラには今の冗談はまったくもって笑えないものだった。

 そもそもジェレミーは近衛騎士だ。彼ほどのほどの人ならば、相手は引く手あまただ。わざわざ、婚約破棄された娘であるレオノーラなどにかまう必要などこれっぽっちもないというのに。

 彼なりの慰め、だったのだろうか。

 だとしても、正直趣味良い話とは思えなかった。


――いいかい、レオノーラ。騎士というものは君が呼んでいる絵物語にあるような、清廉潔白な輩などではない。嘘つきで、粗野などうしようもない輩だと覚えておくといい。


 昔、クリストフからこんなことを言われたことがあった。あの時、レオノーラはまだデビューをして間もないころだった。

 アンリエッタのようにすでに第二王子の婚約者という盾がある娘ならばまだいい。婚約者の威光と、後ろ盾でもある辺境伯の手前、怪しげな輩が話しかけるどころか、近づくことすらできない。だが、レオノーラは違う。

 すでにクリストフと婚約していたとはいえ、彼はまだただの騎士であり、家だってしがない中流貴族。そんな彼女をカモのように見ていたのだろう。

 慣れた風の騎士の男が近づいてきたことがあった。

 今でこそあしらい方も慣れたが、まだデビューしたてのヨチヨチ歩きのような娘が、手慣れた男を相手にできるはずもない。

 いわれるがまま飲み物を渡され、暗がりに引き込まれそうになったことがあったのだ。

 その時、運よくクリストフが通りかかり助け出してくれたからよかったものの、もし万が一何かあったとしたら、今、レオノーラがどうなっていたか。考えるだけで恐ろしかった。

 それはクリストフも同じだったようだ。

 助け出してからしばらくの間、クリストフはひどく機嫌が悪かった。

 いつも穏やかで、怒ることなどめったにない彼のその態度に、レオノーラは動揺した。


「……クリストフ様、ごめんなさい」


 しょんぼりとうなだれながら、レオノーラはクリストフにわびた。

 クリストフはひどく驚いたような顔をして、それから再び顔をしかめた。


「レオノーラ」

「あの、私、何もしらなくて……。こういう時は、うまくかわすものなんですよね? あの、次からはちゃんとします。だから」

「そうじゃない」


 クリストフは小さく息をはき、それからうつむく彼女の顔をのぞき込むように膝をついた。


「……レオノーラ、そうじゃないんだ。僕が怒っているのは君に対してじゃない」

「え?」


 ぎこちないながらも笑みを浮かべたクリストフに、レオノーラはわずかに首をかしげる。


「では……」

「そうだな」


 クリストフはいったん言葉を切る。


「君の良さを知っているのは自分だけだと高をくくっていた自分に、それから君に手を出そうとした奴らに腹を立てているんだ」


 そういって、クリストフは軽く目を伏せる。そして「……いや、くだらないのは自分もだな」と小さく、吐き捨てるようにいった。

 それは自らをあざけるように、レオノーラには聞こえた。


「クリストフ様?」


 レオノーラの声に、クリストフは再び視線を上げる。そして言ったのだ。


「いいかい、レオノーラ。騎士というものは君が呼んでいる絵物語にあるような、清廉潔白なものなどいない。だれもが嘘つきで、粗野で、心のうちに獣をかっているような、君からしたらどうしようもない輩だと覚えておくといい」


 驚いた。クリストフの口から自らの役職を汚すよう名ことを言うとは。

 騎士というのは彼にとってはまさに人生そのもの。

 ゲームの中でも彼は常に騎士であろうとしていた。それなのに――絶句するレオノーラに、クリストフは力なくわらった。


「軽蔑したかい?」

「いいえ」


 レオノーラは間髪入れず首をふった。


「クリストフ様はあの人達とは違います! クリストフ様は立派な騎士様です!」


 勢い込んで言う彼女に、クリストフは一瞬驚いたような顔をする。それからふわりと、本当に優しく笑ったのだ。

 それはただレオノーラを心配してくれただけだったとしても、彼が笑ってくれたことがとてもとてもうれしかったのだ。

 実際、彼の言葉が正しかったことはすぐに証明された。

 騎士といっても所詮、人だ。

 当たり前だがいいひともいるが、もちろん悪い人だっている。騎士という名を盾に女遊びをする輩も実際は多かった。

 ジェレミーはそういった人ではないように思えたが。

 レオノーラは小さく息を吐き出し、人でごった返す通りを見つめていた。と、その時だ。


「なに? ノーラ、あいつと結婚するの?」


 ふいに聞こえた声に、レオノーラは振り返る。と、一体、いつからいたのだろう。背後にたたずんでいたのは、まるで神殿にたたずむ神の彫刻のような怖いほど整った容姿で――ひどく懐かしい顔だった。


「ルウ!」


 最後にあったのは、王都でクララと出会ったときだ。

 あれから何度か王都に神殿に行った。だが、ルウにはあれっきり会えずじまいだった。そのまま辺境に来てしまい気になっていたが、まさかこんなところで会うなんて。

 目をしばたかせるレオノーラに、ルウはにこりと笑いながら先ほどまでジェレミーが座っていた場所に腰を下ろした。


「ほら、ノーラも」


 塗装も剥げ、ささくれ立った古びた木の長椅子をぽんぽんとたたく。

 それに促されるように、レオノーラものろのろと腰を下ろした。


「……相変わらず突然ね。本当に、びっくりしたわ」


 思わずつぶやいたレオノーラに、ルウはふわりと笑みをうかべる。


「そう?」

「そうよ! だって、あなた、あれからどこにもいないんだもの」


 王都の神殿にはあれから何度かいった。だが、彼の姿はどこにもなかった。

 いちどだけ神殿の神官に尋ねたことがあった。だが、王都の神殿ともなると人の出入りは多い。若い神官というだけでは、探すことはできなかったのだ。


「どこにいたの? ここ?」

「いや。ここには用事があってきたんだよ。いつもはここから遠いところ」

「用事?」


 首をかしげるレオノーラにルウはただ笑った。それは答えを避けているようにも見えた。


「そんなことよりも、ノーラ、君、さっきのやつと結婚するの?」

「え?」


 ぽかんとするレオノーラに、ルウはちらりと通りの奥。ジェレミーが立ち去った通りへと視線を向ける。

 ルウの無言の問に、レオノーラは笑いながら首を振る。


「そんな、どうして?」

「だって君のうわさを聞いたから」

「ああ……」


 王都ではさぞ大騒ぎになっていることだろう。

 婚約破棄というのは、それだけ重大な契約違反だ。だが、それが聖なる乙女がかかわっているなれば余計だろう。

 何しろ、聖なる乙女は、どの時代でも神殿がその身を守っていた。

 もちろん最初に顕現した土地の主。この場合だと王になるだろうか。彼らが保護をすることもあるが、最終的な判断は常に神殿が持つ。

 だが一つだけそれを覆すことがある。それが婚姻だ。

 婚姻により乙女はその身を、配偶者の国に移動することができるのだ。

 この場合だと、クリストフだろう。

 国に聖なる乙女を残すことができるうえ、王族にはさしたる影響も出ない地位。国にとってはこれ以上ないほど上出来な結末だろう。レオノーラ以外は。

 ちいさくほほ笑むレオノーラに、ルウは眉を寄せる。


「いいの?」

「……なにが?」

「だって君は、あいつの婚約者だろう? それなのに」


 あいつというのはクリストフのことだろうか。

 首をかしげるレオノーラに、ルウはがりがりと髪を掻く。もうすっかり立派な神官の服がいたについているというのに、そのしぐさは最初に出会ったときと同じ。

 あの卵の箱を抱えた少年のままだ。


「ジェレミーも、ルウも、聖女様がこの国に残られるというのに、うれしくないの?」

「全然」


 そっけなく言い放つルウに、レオノーラはまあ、と小さくつぶやく。


「神官がそんなことをいっていいの?」

「神官だって人間だよ。それにノーラだって言ってたじゃないか」


 ルウはにやりと口端をあげる。


「神様なんていないって」

「い、いないなんていってないわ!」


 ぎょっとしたように言うレオノーラに、ルウは肩をすくめる。


「そうだっけ?」

「そ、そうよ! いったのは、ただ……」

「ああ、そうだそうだ」


 レオノーラの声を遮りるように、ルウはうなずいた。


「神様なんていなくたって大丈夫だったっけ?」

「もう! ルウったら!」


 咄嗟に顔をしかめたものの、レオノーラはすぐに笑いだした。

 くすくすと笑う彼女につられるように笑っていたルウは、しばらくして一つ息を吐いたのち、わずかに目をすがめた。


「君ひとりが犠牲になるっていうの?」

「ルウ……」


 レオノーラはくちびるに笑みをのこしたまま、首を振る。


「そんな大層なものではないわ。私は、ただ私の願いをかなえたいだけ」

「願い?」


 ルウは首をかしげる。


「それがあいつと聖女との婚約? 君の願いってそれなの?」

「そうよ」


 あっさりとうなずいたレオノーラに、ルウはわずかに目を見開く。

 ルウが理解できないのもわかっていた。すべてを知っているはずのアンリエッタでさえも、彼女がクリストフとの別れに対し、何の抵抗しないまま承諾したことにまったく理解できないと言っていたぐらいだ。


「ルウ、私はね、ただ自分の願いをかなえただけ。別に悲しいわけでもやけになっているわけでもないわ」

「じゃあ、さっきのルドリアの男はなに? あいつ、さっき、結婚を申し込んでいただろう?」

「え?」


 ルドリア? レオノーラは眉を顰める。

 ルドリアといえば、この国の隣。つまりこの辺境の地のすぐ向こうにある国だ。

 王太子の婚約者の国であると同時に、この国とは深い因縁関係がある。この辺境にある幾つもの砦と、そしてアンリエッタの家であるあの要塞が物語っているように、ルドリアとこの国は長いこと領地をめぐり戦いを繰り広げてきた。

 戦いはただ両国を疲弊させるだけ疲弊させ、結局互いには何も残らなかった。

 そのことにようやく気が付いたのだろう。

 むなしいだけの関係を終わらせたのはつい百年ほど前のことだ。

 今ではかつての歴史などなかったように、ルドリアとの国交も回復し、この辺りにだってルドリアの商人たちが行き来している。

 ルウがいったルドリア人とは、そのうちの誰かのことだろうか。

 眉をひそめるレオノーラに、ルウは驚いたような顔をした。


「あれ? ノーラと一緒にいたじゃん。あの男。彼、ルドリアの王宮で見かけたことがある。あいつルドリア人だ」

「え? ジェレミーが?」


 彼は近衛騎士だ。王族の護衛でルドリアにでも行ったのだろうか。

 首をかしげるレオノーラに、ルウは薄く笑った。


「違うよ、ノーラ。君はなんていうか……、人を信じすぎる」

「ルウ。あなた、何を言っているのかさっぱりわからないわ。それじゃあ、まるでジェレミーが本当にルドリアの人みたいに聞こえるわよ」

「聞こえるんじゃないよ。ノーラ」


 そういっているんだよ。ルウがにこりと微笑んだその時だ。通りの向こうからレオノーラを呼ぶ声が雑踏に交じり聞こえたような気がした。

 ふっと顔をあげるレオノーラの横で、ルウが小さく息を吐く。


「やれやれ、邪魔が入ったようだな」


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