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二十八話

「……っ」


 レオノーラはひゅっと息をのむ。

 それからその酸っぱい茶の入ったカップが手から滑り落ちた。木の簡素なカップはからんと乾いた音を立て、石畳の上を転がる。じわじわと広がる茶のしみを見つめていたレオノーラの耳に、小さなため息が聞こえた。


「聞いたよ。婚約破棄に同意する手紙を送ったそうだな」


 落としたカップを拾いながらどうして、と問うジェレミーに、レオノーラは目を伏せたまま膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。


「……い、いけませんか?」

「いけなくはないが、いいの? だって、レオノーラ、君は」


 ジェレミーの言葉を遮るように、レオノーラはぱっと顔を上げる。


「良いのです。だって、それが私の望みだもの」

「望み?」

「そうよ。クリストフ様が幸せになるためですもの。悲しくもないし、つらくもないわ。むしろうれしいぐらいよ」


 ほら、その証拠にわらっているでしょう。

 レオノーラはにっこりとほほ笑む。だが、それを見つめるジェレミーの顔は、なぜかひどく悲し気に見えた。


「……うれしい? 本当に?」

「ええ、本当よ」


 何度も想像した。あの瞬間――ゲームの本編ではかなうことのなかった瞬間を迎える日を、それこそ何度も。

 そのたびに、自分がどうなってしまうのかも想像した。

 最初は簡単なことだと思った。

 だって、今までかなうことのなかったクリストフの思いがようやくかなうのだ。

 喜びこそすれ、悲しくなんて思うはずがないと心の底から思っていた。

 だが、いつからだろう。

 そのことを考えることが苦しくなったのは。

 けど、それでも辞めたいと思うことはなかった。覚悟はしていた。

 だからだろう。

 クリストフの知らせが届けられたときのレオノーラの態度は実に落ち着いたものだった。涙一つこぼすでもない。喚くでもない。むしろ動揺していたのは、この事態を予測していたはずのアンリエッタのほうだった。

 静かな表情を浮かべる彼女を、ジェレミーは注意深く見つめた。


――嬉しいだって? そんなバカな


 ジェレミーは当初、この仕事についてさほど乗り気ではなかった。

 何しろもたらされる知らせの結末など、想像するまでもなかったからだ。

 婚約は、婚姻に次いで拘束力のある契約だ。

 神の名のもとに交わされる契約。おいそれと覆すことはかなわないものであるが、人の心というものは往々にしてままならないものだ。

 ジェレミーは今までその顛末を幾度も見てきた。

 だがどれもこれも最後はひどい有様だった。互いに傷つけられるところまで傷つけあい、誰に幸せになれない。

 これを同僚のクリストフと、その相手であるレオノーラが迎えるかと思うと、正直気が重かった。

 だが、ジェレミーの予想に反してレオノーラの態度は落ち着いていた。

 いや、落ち着いていたというよりもむしろこの事態を予見していたかのようだった。


「……レオノーラ様は、クリストフ様のことをあまり良くはおもってらっしゃらなかったのかしらねぇ」


 屋敷の侍女の一人が、ぽつりとつぶやいていたことがあった。

 別に、半狂乱になれといっているわけではない。

 だが、レオノーラとクリストフの婚約はごく普通の貴族と同じ、幼いころからの者だったと聞いていた。

 当たり前のように将来について語られていたに違いない。

 それが崩されたとき、どのような人であれ動揺はするものだ。だが――


「……婚約が解消されることを君は知っていたの?」


 ジェレミーの問に、レオノーラはわずかに目を見開き、そして視線を落とす。


「アンリエッタ様からうかがっていました」

「ああ……」


 神殿と王家との確執。

 それはこの大陸にある国ならば大なり小なり抱えている問題だった。

 女神は慈愛を万人に向けて施す。だが、国を動かすには慈愛だけでは成り立たない面もある。誰かを助けるためには誰かを切り捨てなくてはならないことも。それを悪だという人もいる。王は時に最大数の幸福のために、冷酷な判断を下さなくてはならないこともある。そういった意味では神と人とは最後まで相容れないものなのかもしれない。

 だからこそ神殿に近いものが王の配偶者になるのはとても危険だった。

 旗印が二つあると、人は迷う。迷う人は混乱し、そしてその混乱はやがて大きな火種となる。

 それを防ぐためにあてがわれたのがクリストフだ。

 といっても、それは聖なる乙女という神殿の人間を遠ざけるためであって、彼女の身を引き受けるためのものではなかった。

 彼には確固たる婚約者がいたし、もしクララに相手を見つけるともなれば、また別の人を探す手筈だった。

 現に、彼女には何人か親しくしている人もいるようだった。

 クリストフやジェレミーの同僚や、王立魔道研究所の研究員とか。

 彼らに比べると、クリストフは一歩どころか二歩三歩、引いているようにみえたのだが。実際は周囲の予想とはまるで違った。


「クリストフとはちゃんと話をした?」

「いえ。あれから一度も」


 ゆるくかぶりを振るレオノーラに、クリストフは眉を顰める。


「どうして聞かない。いいのか?」

「いいんです」


 レオノーラは淡々と答える。薄く張り付けたような笑みからは、何もうかがい知ることはできなかった。


「そっか。……なら、ちょうどいい。オレと結婚しよう。レオノーラ」

「……は?」


 ぽかんとするのはレオノーラの方だ。

 目をしばたかせ、まじまじとジェレミーを見つめる。


「あの……、ジェレミー様、私、今、結婚とか聞こえましたけど」

「ああ、言ったね」


 ジェレミーはにこりと笑う。


「実はさ、オレも長いこと周囲から結婚しろとせっつかれていたんだよね。まあ、こちらに来たのはそういうのが逃げるというのもあったわけ。ああ、もちろん、昔会った、君をもう一度見たかったっていうのも本当だよ」

「……はあ」


 レオノーラはあまりの突飛な話に、ただただうなずくばかりだ。


「……えっと、ジェレミー様ならば結婚してもいいという方は多いのでは?」


 実際、令嬢の間での彼の人気は高い。

 気さくな人柄の上、近衛騎士という職業。さらに容姿もいいとなれば、引く手あまたであろう。特に跡継ぎが令嬢のみという家ならば垂涎の物件だといえる。

 だが、ジェレミーはさして興味がないといったようすで肩をすくめた。


「そういった子はほら、いろいろと面倒だろう? そういった意味でも、君は違う。可愛いいし、それになんというか肝が据わっている」

「……はあ」


 ジェレミーは、それが誉め言葉だとでも思っているのだろうか。

 みるみる顔を険しくするレオノーラに、ジェレミーはくすりと笑う。


「ほめているんだよ、レオノーラ。オレはね、そこらへんにいるような普通の子にはさほど興味はないんだよね。けど、君はどこか違う。前にあった時もいいな、と思ったけど、君はその時、クリストフの婚約者だったからね」

「……ジェレミー様、冗談にしてはあまり面白くありません」

「冗談じゃないんだけどなぁ」

「ならば、なおさらいけません」


 首をふるレオノーラに、ジェレミーは再び笑った。

 それかジェレミーはさして旨くもない茶を一息に飲み干し、それから顔を思い切りしかめた。

 それは茶の酸っぱさが原因か、それとも彼女の対応に対するものかは本人もわからなかった。

 空になったカップを売店に戻し、いざ帰ろうかとしたとの時だ。

 通りの向こうからなにやらざわめきが聞こえてきた。

 一体なにかと視線をあげたレオノーラの目に飛び込んできたのは、すっかり見慣れた辺境伯付きの騎士だった。


「ジェレミー殿、こちらにおいででしたか! 探しましたよ」

「ん? どうかした?」


 立ち上がったジェレミーの前に、騎士たちが膝まづく。


「ジェレミー殿に火急にお知らせしたいことが」


 その姿ははたから見るととてもチグハグだった。何しろ近衛騎士のはずのジェレミーは非番のため恰好はラフだ。それに比べると駆けつけてきた騎士たちの立派なこと。

 何も知らない人が見れば、立場は逆に見えるだろう。

 だが実際は違う。近衛騎士であるジェレミーは彼らよりも数段上の立場となる。

 だが、そのあたりはジェレミーの人柄かそれとも幼く見える容姿のせいか。いかつい騎士と比べると、とてもではないが立場が上には見えなかった。

 ジェレミーもそれは気が付いていたのだろう。

 ちらりと周囲を見回し、小さく息を吐く。


「ここじゃあ目立つな」


 そういってから、ジェレミーはレオノーラへと視線を移した。


「レオノーラ、悪いけど、ちょっとここで待っていてくれないかな」

「……わかったわ」


 小さく頷くのをまって、ジェレミーたちは通りの奥。おそらく人の気配が少ない場所へと向かった。

 その姿が見えなくなるのをまって、レオノーラは大きなため息を落としそれからがっくりとうなだれた。


「……なんなの、いきなり」

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