二十六話
そこからの道中もこれまでと同じく、おどろくほど快適な日々だった。
護衛も多く、辺境伯の手によって整えられた街道は最新鋭の馬車でなくともおそらく全く問題がなかっただろう。
それに馬車の窓から見る景色も、レオノーラの領地よりも、いや、ほかのどの領地よりもずっと発展していた。
畑も青々と実っていたし、行き交う人の表情も明るく楽し気にみえた。
同じ国でもこうも違うものか。
これが辺境伯の、アンリエッタの家の力というものだろうか。
十日ほどかかってレオノーラはアンリエッタの屋敷にたどり着いた。
「さあ、レオノーラ、ここが我が家よ」
「……我が家」
アンリエッタに促され、馬車を降りたレオノーラは目の前に広がる光景にあんぐりと口をあけた。
確かに、領主の屋敷といえば王都のものよりも大きいのが定番だ。
実際にレオノーラの家だって、王都のものはこぢんまりとしているが、領地に戻れば城とまではいかずともそれに似たようなつくりのものになっている。
だが、アンリエッタのそれは今まで見てきたものの数倍。いや、数十倍はあるだろう。おそらくそれは屋敷というよりも城。いや、要塞といったほうがいいだろう。
小高い丘にあるそれをぐるりと取り囲むようにそびえたつ城壁。途中に見えるのは物見台だろうか。
頑強な石造りのそれは、街道に点在するあの豪奢で華やかで楽し気な宿屋とはまるで正反対のもののようにみえた。
「このあたりはかつて戦場だったの。我が家はその名残。元は要塞だったの」
ふふ、と笑うアンリエッタが、ふいに視線を屋敷へと向ける。
両開きの扉がゆっくりと開き、中からあらわれたのは屈強の大男だった。
彼は大股で馬車に近づくと、にこにこと笑みを浮かべながら、まるで子供の様に駆け下りたアンリエッタをぎゅっと抱きしめた。
「お帰り、アリー」
「お父様、ただいまもどりました」
頬を摺り寄せるようにあいさつを交わした大男は、抱きしめていたアンリエッタを開放し、そして彼女の後ろで縮こまるように立っていたレオノーラへと視線を向ける。
頬には引き連れた傷が見えるが、瞳はアンリエッタそっくりだった。
彼が辺境伯だろう。
彼女に遅れること数歩。あわてて馬車から降り立ったレオノーラは、すぐさま膝を折り、頭を下げた。
「初めてお目にかかります、マルロー閣下。私はロワリエ伯が娘、レオノーラにございます」
「君が……、そうか」
辺境伯は目じりに深い皺を刻み口元にはやわらかな笑みを浮かべる。
「あなたの父上、ロワリエ伯のことはよく存じ上げている。何しろ、私は剣しか能のない人間でな。父上のその見識の広さ、深さにはいつも尊敬の念をいただいている」
「父が聞いたら喜びます」
どんな父でも、やはり褒められれば娘としては嬉しい。
思わず顔を綻ばせると、辺境伯はわずかに目を見開いた。
「あなたはやはりお父上によく似ている。だが、瞳の色は違うようだな」
「母譲りなのです」
「そうか」
辺境伯はやはりというようにうなずく。
「なんにせよ、ここならばどのような輩も近づくことすらできない。安心して休まれるといい」
「ありがとうございます」
再び膝を折るレオノーラの頭を、辺境伯はまるで幼子にでもするかのようにぐしゃぐしゃと撫でた。
「お父様ったら!」
アンリエッタの抗議の声に、辺境伯はガハハと笑いながら立ち去ってしまった。
どすどすと足音荒く遠ざかる後ろ姿を見つめながら、アンリエッタは大きなため息を落とした。
「もう、いつまでも私のことも子供だとおもっているのよ」
そういって笑うアンリエッタもまた、故郷にもどってきたことで少しばかり気が抜けたのだろう。言葉とは裏腹にどこか幼く見えた。
いや、こちらのほうが本当の彼女の姿、なのだろう。
国内屈指の大貴族の娘。いくら巨大な後ろ盾を持っているとはいえ、やはり敵は多い。 特に第一王子の婚約者が隣国の王女ともなれば、他国の王族に面と向かって何かを言うことはできない。そんなことをすれば隣国との関係が悪化することは火を見るよりも明らかだからだ。となれば、矛先はすべてアンリエッタへと向けられる。
さらに、アンリエッタの家である辺境伯は神殿からの心象はすこぶる悪い。
いや、神殿だけではない。王宮でも同じだ。
王都はある意味、針の筵のようなものだろう。
ヴィクトールも彼女の盾となってはいるが、それだって限度がある。
そこにあの少女――聖女の存在だ。一瞬たりとも気の休まることはなかっただろう。
いくら強いアンリエッタといえども、日々すり減るような気持ちでいたことは想像がつく。
実際、ここにいるとアンリエッタはみるみる元気になっていった。
もちろん、ここがアンリエッタにとって故郷ということもあるが、周りにいる人たち誰もがアンリエッタとレオノーラにとても親切だった。
それは彼女が領主の娘だからかとおもった。だが、違うと教えてくれたのは、レオノーラの世話係を務めてくれた母ぐらいの年齢の侍女だった。
「違うの?」
「ああ、今でこそ辺境伯爵様なんてものになっているけどね。元々ここはあらくれものの住処だったのさ。その中で一番、強かったのが辺境伯様のご先祖さ。だから、ここにいる間、あたしらは全員、仲間。まあ、外野が色々うるさいからね。とりあえずお貴族様って顔をしているけどね」
肩をすくめる侍女の言葉に、レオノーラは言葉も出ない。
確かに国境の領地など、いつ戦場になってもおかしくない場所だ。ただ、先祖代々受け継いできただけの貴族が務まるはずがないのだ。
なるほどとうなずいていると、ちょうど通りかかったアンリエッタがからからと笑った。
「そんなのもう百年以上も前の話よ。まあ、でもそれをいまだに覚えている人も多いわね」
「そうなんですね」
だからだろう。
あの外見はいかつい辺境伯を、領民誰もが心から愛しているのが感じられた。そしてアンリエッタにもだ。
領地にきて数日たったある日、アンリエッタに誘われて庭を歩いていた時だ。
「……あの、アンリエッタ様。また王都に行かれるのですか?」
ふいに湧き上がった疑問だった。
実際、領地にいると距離のせいか。それとも彼女に悪意ある言葉を聞かせまいとする領民の思いやりかはわからないが、王都での噂はまるで聞こえてこなかった。
ここにいるとあの王都での騒ぎが嘘のようだった。
だからたずねてみたのだが。レオノーラの唐突の問に、一瞬驚いたような顔をしたアンリエッタだが、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「そうね。ここにずっといられたらきっと天国でしょうね」
「ですよね。だったら」
「でもね」
アンリエッタは中庭にあるあずまやの青銅のベンチに腰を下ろす。
「約束してしまったのよ」
「約束?」
首をかしげるレオノーラに、アンリエッタは笑う。
「ええ。殿下とね」
「……っ!」
アンリエッタの言葉に、レオノーラの脳裏にヴィクトールの個別ルートがよみがえった。
第二王子として大切に育てられたヴィクトールは、王位継承権からも遠く実にのびのびと育った。第一王子のアルベールが帝王学を叩き込まれ、知性や人格共に誰もが認めるようになるのに対し、ヴィクトールはある意味、野獣のようだった。
権力という剣を、むやみやたらと振りかざす獣。
その野獣をたしなめられたことがあったとゲームでも言っていた。
その相手はゲームでは特に誰かとはいわれなかった。だが、考えるまでもなくそのころ婚約をしたばかりのアンリエッタ以外にありえなかった。
「約束……ですか?」
「ええ、今でこそあんなふうに気取っているけれども、昔はそりゃあひどかったのよ」
そういって笑ったアンリエッタは、さほど驚いてる様子のないレオノーラに、小さくああ、とつぶやいた。
「そうね。あなたは知っているのよね」
「え、あ……はい」
気まずげにうなずくレオノーラに、アンリエッタはほほ笑んだまま視線を遠く。
記憶の奥を探るように遠くを見つめる。
「……あの頃から彼はちっともかわっていないわ。だから、私も決めているの。彼が守りたいと思っているものを、一緒に守っていこうって」
「アンリエッタ様ならできます」
二人の間にあるのは単なる偶然などではない。互いへの信頼、そして時間と思いを積み重ねた結果だ。
ゲームではそれが奇跡という名前によって覆されてしまうのだ。
王子は婚約者を捨て、主人公との愛に目覚める。それが悪いとは思わない。だが、今になって思えば残酷すぎる結末だ。
「でも、あなたが知る未来はそうではないこともあるのでしょう?」
アンリエッタの言葉に、レオノーラは一瞬声を詰まらせた。
そして次の瞬間、その反応が間違いだと気が付いた。これではその通りだといっているようなものではないか。
そんな彼女の動揺を見抜いたのだろう。
アンリエッタはくすくすと笑った。
「大丈夫よ。怒ったりしないわ」
「……すみません」
うなだれるレオノーラに、アンリエッタは小さく息を吐いた。
「未来は一つではないこともわかっているわ。だからこそ、私はどのような未来であってもヴィクトールとこの国を支えていくつもりよ」
きっぱりと言い切ったアンリエッタは、そのまま視線をレオノーラに移す。
「きっとレオノーラも同じなのね」
「……アンリエッタ様」
「婚約破棄を申し出ていたそうね。聞いたわ」
「……っ」
レオノーラはひゅっと息をのむ。
この話は父と二人だけの間の話だとおもった。実際、レオノーラはそのつもりだった。だが、こうしてアンリエッタから聞かさた瞬間、心臓が握りつぶされるようだった。
覚悟をしていたつもりだったのに。
きゅっと唇をかみしめ視線を落としたレオノーラに、アンリエッタは慌てたようにかぶりをふった。
「ああ、レオノーラ、勘違いしないでちょうだい。今の話はヴィクトールから聞いたのではないわ」
「え? では……」
「あなたのお父上、ロワリエ伯爵からよ」
「お父様……」
目を見開くレオノーラに、アンリエッタは小さく笑みを浮かべる。
「大変ご心配なさっておいでよ。あなたがなにか無茶なことを仕出かさないかと、それはそれはもう何度も私にまで頭をさげていらっしゃるほどにね」
「お父様が?」
レオノーラは目をしばたかせる。
レオノーラにとって父という存在はさほど強い印象はなかった。どこか距離があるように思えた。
ある意味、とても貴族的な人だ。
レオノーラは幼いころから乳母にそだてられた。そのせいか、母も父も距離があるように思えた。もちろん、親として子であるレオノーラには関心はあるのだろうと思った。
レオノーラは彼らにとってはただ一人の子だ。彼女があの領地を継ぐのだから。
そういう意味では大切にされているとおもっていた。
だから、父が頭をさげたことについてレオノーラは心底驚いていた。
「……そんなことをするとは思わなかったわ」
「あら、ロワリエ伯は子煩悩なことで有名よ。ああ、それはきっとクリストフ様も同じね。あなたのことを本当に大切になさっていらっしゃるわ」
「そう……でしょうか」
「そうよ。でなければ、あなたのことをあれほど心配はしないわ」
にこやかにほほ笑むアンリエッタに、レオノーラは目を伏せた。
クリストフとは距離を置く。そして彼の幸せの邪魔はしない。そう決めたのに、レオノーラの心はすぐに揺れ動く。
アンリエッタの言葉でも簡単にぐらついてしまう。
そして思ってしまうのだ。
もしかしたら、アンリエッタの言う通りクリストフは自分のことを思っているのではないか、と。
そんなことはあり得ない。
彼の思う相手はあの少女だ。
けれども……、レオノーラは静かに目を伏せる。
だが、そんな彼女の心を大きく揺り動かす事態が起きたのはそれから数日後のことだった。王都から一通の手紙が、アンリエッタの元に届けられた。
――クリストフとレオノーラの婚約解消と、それと同時にクリストフとクララの婚約
その知らせをはるばる辺境地まで運んできたのはあの、ジェレミーだった。




