二十五話
「え? 約束?」
レオノーラは目をしばたかせる。
「……え? 約束ってあの、約束ですか?」
「そうよ」
「……はあ」
確かに、約束が大切なのは子供でもわかることだ。
だが、それが神様がもっとも大切にしているものだなんて。唖然とするレオノーラに、アンリエッタはやれやれと言うようにため息を落とした。
「わかっていないわね。約束といっても子供の交わすようなものではなくてよ、レオノーラ。私が言っているのは、きちんとした約束。そうね、契約といってもよいわね」
「契約、ですか」
「ええ、そうよ」
アンリエッタはうなずく。
「婚約などはその最たるものよ。あなたもクリストフ様との婚約の際に、何か書いたのではなくて?」
「そういえば……」
レオノーラは考え込むように口を閉ざす。
確か、用意された紙に名前を記入したような気がする。しかし、取り立てて特別な内容が書かれているわけではなかったような気がするが。そう答えると、アンリエッタは満足そうに頷いた。
「確かにそうね。あの文面はそれこそこの国が出来た当時ぐらいからかわらないと聞いたことがあるわ」
「では……」
「問題は文面ではないわ。あれが提出される先よ」
「先?」
レオノーラは目をしばたかせる。
「あれ……、お城にあるのではないのですか?」
「違うわよ」
アンリエッタはふふ、と笑う。
「どこだと思う?」
「……どこって」
レオノーラはあ、と小さくつぶやく。
「え、まさか」
「そう、そのまさかよ」
アンリエッタは浮かべた笑みを深くする。
「あれはもともと神殿に出すためのものなの。あの書面の最後に月の女神の名前が書かれているのだけれども、まあ、あれを真っ当に読む人なんていないわよね。何しろあれ、古代語で書かれているものねぇ」
「……はあ」
なるほど、だからあまり記憶がないのか。
うなずくレオノーラに対し、アンリエッタはすっと浮かべた笑みをかき消す。
「だから、神殿は決してその契約を反故にすることはできないのよ。何しろ彼らが最も大切にしている神様に誓った内容ですからね。あれを反故にするということは、自ら守るものをないがしろにするといっているようなものなのよ」
「……そうなんですね」
「だからこそ、大丈夫だと思ったんだけれども」
そういって、アンリエッタは小さくため息を落とす。
彼女の言っていることはある意味正論だろう。だが、その正論も知っているという前提があってのことだ。
当の本人である聖女はというと――レオノーラはふっと息を吐く。
「……クララ様はそういったことを知っているのかしら?」
そう、問題はクララだ。
彼女はそういったことを知っていて城に上がっているのだろうか。
尋ねるレオノーラに、アンリエッタは肩をすくめる。
「おそらく何も知らないでしょうね。そもそも、知っていたらすでに誓約を交わしているクリストフ様やヴィクトールに近づくなんてことはしないのではなくて?」
「……そうですよね」
やはり、クララは何も知らないのだろう。
そしてそれを神殿側にいいように利用されている。だが、それだってうまくいっているかどうかはわからない。何しろ、王都では狙っているだろう王族の一員ではなく、クリストフとクララのうわさで持ち切りだからだ。
「では神殿は目論見が外れたという話になりますね」
「そうでもないわよ」
アンリエッタはわずかに声のトーンを落とす。
「契約云々はさておき、目下一番邪魔な相手が王都を離れてくれさえすれば、あとは好き放題できるって寸法でしょう」
「え?」
あまりに物騒な答えに、レオノーラは目を丸くする。
「離れてくれさえ……って誰のことですか?」
「あら、決まっているでしょう」
そういってアンリエッタは日に焼けたことのないような真っ白い指ですっと自らを指す。
「あちらからしてみたら、一番邪魔なのは婚約者の私じゃないの」
「アンリエッタ様!」
レオノーラはすっと顔色をかえる。
「そんな、まさか。女神様に仕える方々がそのようなひどいことを?」
「あら、そんなに驚くことかしら?」
アンリエッタは肩をすくめる。
「あの人たちは自分の信じるものだけが大切なの。逆を言えばそれ以外は彼らにとってはそこらの石ころと何もかわらない。自分たちの大切なもののためには彼らは手段を選ばないでしょうね」
「……そんなこと」
レオノーラはいまだにここはゲームの中だと思っていたのかもしれない。
いくら頬に風を感じたとしても、揺れる木々の葉擦れが聞こえたとしても、どこかでレオノーラは思っていた。ここはゲームだと。ヒロインを優しくつつみ、結末はすべてハッピーエンドの世界だと。
実際、ゲームでは悪役はいた。だが、それはまごうことなき、純粋な悪であった。
だが、今の話は立場が違えば悪だとは言い切れないものだ。
こんなこと、ゲームにあるはずがない。あれは甘くふわふわとした幸せだけのお話だ。
そのお話とこの現実が違うのだとしたら。
ゆるゆるとかぶりをふるレオノーラに、アンリエッタは小さくため息を落とす。
「……レオノーラ……、あなたって」
アンリエッタが苦笑いを浮かべた。
「クリストフ様は本当にあなたのことを大切になさっていたのね」
「……え? アンリエッタ様」
「なんでもないわ」
アンリエッタは軽く手を振る。
「とにかく、私と殿下と結婚を邪魔するにしても、自分たちの邪魔するクリストフを追い払うにしても、彼らには手駒が必要だわ。まあ、目下のところ手駒は」
「ちょっと待ってください! クリストフ様を追い払う?」
彼の名前が出た瞬間、レオノーラの顔が険しくなった。
「どうしてですか? 彼が何を」
「何もしてない? 一番表立って神殿の邪魔をしているのは、誰だと思っているの?」
「……っ」
ひゅっとレオノーラは息をのんだ。
「……まさか、クリストフ様も狙われていらっしゃるというの?」
「あなた、私の時よりもずいぶん驚いているじゃないの」
顔面蒼白のレオノーラに、アンリエッタは顔をしかめる。
「でもまあ、その通りよ。彼は狙われているわね」
「そんな!」
レオノーラは思わず立ち上がる。
クリストフが狙われているとわかってじっとなどしていられなかったのだ。
しかし、すぐに彼に知らせようにもここは辺境伯領と王都の真ん中。戻ったとしても今来たばかりの道のりと同じ距離を走らなくてはならない。
どうしたらいいのだろうか。
レオノーラは両手を握り締め、ウロウロと部屋を歩き回る。
その姿をしばらくの間黙って見つめていたアンリエッタは、ふいに手をたたいた。決して大きくはないが、彼女が発した音はレオノーラの動きを止めるには十分すぎるほどだった。
びくりと肩をゆらし、立ち止まったレオノーラにアンリエッタは本日何度目かのため息を落とした
「落ち着きなさい。あなた、一体どうするつもり?」
「どうするって、クリストフ様にすぐにでも伝えないと」
「ここから知らせるつもり?」
「ええ」
「あなたね……」
頷くレオノーラに、アンリエッタはまたしてもため息をつく。
「ここから王都までどのぐらいかかると思っているの? 五日よ? その間に、あなたの身に何かあったらどうするのよ」
「危ないのは私じゃありません!」
「いえ、あなたもよ。レオノーラ」
レオノーラの言葉を遮ったアンリエッタはぴしゃりと言い放つ。
ぽかんとするレオノーラに、アンリエッタは立ち上がり彼女の手を取る。そして自分が座っていた長椅子の隣に座らせると、横に自分も腰を下ろした。
「レオノーラ、危険なのはあなたも同じなのよ」
「え? 私? どうして……」
首をかしげるレオノーラに、アンリエッタ心底あきれたような顔をした。
「何を驚いているの? あなたはクリストフ様の婚約者ではないの。彼にとっては最大の弱点だともいえるわ。クリストフ様からは何も聞いてないの?」
「……はい」
「なんてことなの!」
しょんぼりとうなだれるレオノーラに、アンリエッタは驚いたような声を上げる。
「信じられないわ。……では、あなた、どうして私の領地に来ようと思ったの? クリストフ様からは何か聞いていたからではなくて?」
「あの……」
真実を言うべきか。それとも。
「レオノーラ、あなた、何かあったの?」
「……アンリエッタ様」
レオノーラは迷った。
言ったところで誰が信じるだろう。この世界はゲームだと。
自分が以前、やっていた乙女ゲームの世界で、クリストフは実は聖女が好きだなんて。そのために離れようとしただなんて。おそらく誰に言ったとしても信じる者なんていないだろう。
いや、この状態では表向きは信じてくれたとしても、実際はクリストフとのことで悩んだから咄嗟に出まかせを言ったと思われるだろう。
けれども――レオノーラは静かにアンリエッタを見つめる。
レオノーラはアンリエッタのことを知らない。いや、今の今まで知らなかったと言い換えてもいい。
ゲームの中では頭の固い、規則と伝統を重んじるだけの貴族令嬢だと思っていた。いや、この世界で実際に会ってもその印象はぬぐい切れないものがあった。
だが、この旅でわかったことがあった。
アンリエッタは冷静で、知的だ。決して規則や伝統ばかりに目をむける頭の固い令嬢ではない。
レオノーラは少しの沈黙の落ち、深いため息を一つ、落としそして静かに口を開いた。
そしてレオノーラは総てを話すことにした。もちろん、ゲームということは除いてだが。
だが、それ以外の話、例えばクリストフがずっと聖女を愛していたことや、それぞれのルートにいたる内容も包み隠さず話をした。これは両親にだって話したことのない内容だ。
突拍子もないといえばそれまでだ。実際、アンリエッタは当初、当たり前だが信じられない様子だった。
当たり前だ。ゲームということを伏せてしまうと、内容は実に曖昧模糊としたものとなってしまったからだ。
とはいえ、いくら冷静沈着なアンリエッタでさえも、あまりのことに最初はまるで信じようとはしなかった。夢で見たといえば、気のせいだろうと返された。
だが、内容がヴィクトールの話になったとき、アンリエッタの顔から胡乱気な表情が消えた。
ヴィクトールルートでは、王族にまつわるストーリーだったため、彼の内面について語られることが多かった。
中でもおそらく公表されていないこと、おそらくアンリエッタにしか知りえない内容があったのだろう。
特にヴィクトールの幼少期の出来事などがそうだ。
「……それをどこで?」
さっと顔をこわばらせるアンリエッタに、レオノーラは肩をすくめる。
「夢の中でです。アンリエッタ様」
「……夢の中……、そう」
レオノーラの答えに、アンリエッタは深いため息と供に目をつむった。
「……だから、クリストフ様と離れようとしたの? あなた」
「クリストフ様を幸せにできるのは聖なる乙女――クララ様だけですから」
「だからって……」
アンリエッタは言葉を詰まらせる。
「……クリストフ様はそのことをご存知なの? その、夢の話について」
「いえ」
レオノーラはかぶりを振る。
「クリストフ様は優しい方です。きっとあの人は自分が不幸になるとしても、一度婚約を交わした私を捨てるようなことはしないでしょう」
だからこそ、どこか遠くへいってしまいたかった。
そうすれば彼が別の人に笑いかけるところを見なくてもいい。優しく手を差し伸べるところも、ダンスを踊る姿もこの目で見なくても良くなるから。
だから離れたかったのだ。
その思いを見透かしたのだろう。アンリエッタはわずかにその瞳をすがめるように見つめた。
「……本当にそれでいいの?」
「え?」
アンリエッタはレオノーラの手をとり、ぐいっと顔を近づける。
「あなたはクリストフ様のことを好きではないの? あなた自身で幸せにしてあげたいと思わないの? それで本当に後悔しない?」
「後悔は……」
しない、と言い切るつもりだった。
だが、風邪でもないのに言葉が喉に引っかかりうまく話すことはできなかった。
そのまま言葉を閉ざしたレオノーラに、アンリエッタはちらりと笑みを浮かべる。
「……とにかく未来がどうであれ、今のあなたは、私と一緒に領地に行くしかないのよ。結論はもっと後でもいいでしょう」
まるで頑是ない幼子に聞かせるかのようなアンリエッタの言葉に、レオノーラはのろのろとうなずいた。




