二十三話
聖月祭を境に、クリストフとクララのうわさは本格的に広まっていった。
傍から聞く限りでは二人の関係はさながら昨今流行りの恋愛小説のように聞こえただろう。
何しろクリストフには婚約者がいる。
もちろん政略のため、二人の間には特別な感情はない。
そんなクリストフは出会ってしまったのだ。稀有な力を持つ平民の娘に。
王宮というまるで知らない世界に閉じ込められた彼女を、影に日向に助けていたクリストフとの間に特別な感情が生まれるのは別に不自然でもなんでもない。
そういった突飛な噂ほど、不思議と人々はすんなり受け入れてしまう。
と、同時に周囲のレオノーラに対する態度は固く冷たいものにかわっていった。
それはそうだろう。
今やレオノーラは、クリストフとクララの間を邪魔する障害でしかいないのだから。
それが真実かどうかは別として。人は信じたいものを信じるものだ。
実際、聖月祭を最後にクリストフがレオノーラの家に訪れることはなかった。
それがさらに噂を加速させた。
そんなある日のことだ。
「……レオノーラ様、実は私、近々領地に戻りますの」
「え?」
レオノーラは突然の告白に目をぱちぱちとしばたかせた。
相手は侯爵家の令嬢、アンリエッタ。ヴィクトールの婚約者であり、父親はこの国でも屈指の大貴族だ。
彼女は数少ないレオノーラの理解者であり、クリストフとクララの関係を全く信じることはしなかった人だ。
大半の人がレオノーラに対し手のひらをかえすような態度に変わったのに、彼女だけは違った。いつもと同じように話しかけ、笑いかけてくれた。
そんな彼女がわざわざレオノーラを屋敷に招いてくれたのだ。
王都にある辺境伯家の屋敷は、王宮の次に大きなものだ。
その庭園は指折りの優雅さを誇り、中庭は特に美しいと有名だ。
そのあずまやで茶をいただいていたレオノーラは、アンリエッタの言葉に目をしばたかせる。
「え? シーズンはまだ終わっていないのに、ですか?」
夜会などが行われるのは年に約半年。領地を持つ貴族などはその半年を王都で暮らし、残りの半年は領地で暮らすというのが一般的だ。
今はまだ、シーズンの半分も終わっていない。
そもそも王太子のの婚約者が他国の姫であり、未だこの国に来てさえいないことから、目下第二王子の婚約者である彼女は、王妃に次ぐ立場の人間ともいえる。
その彼女が領地に引っ込むなど、口さがない者たちから何と言われるか。
慌てるレオノーラにアンリエッタはつんと顔をそびやかす。
「いいのよ。言いたいものには言わせるといいわ。わたくし、今の王都の空気にはほとほとうんざりしているのよ」
アンリエッタは眉を顰める。
「一言目には聖女、聖女。彼女が一体何をしたというの?」
「……まあ、聖なる術は選ばれたものにしか使えませんから」
「それが使えるからどうだというの。レオノーラ、あなた、もっと怒らなくては駄目よ」
そういって見つめるアンリエッタの瞳は、頭上に広がる雲一つない澄んだ空よりも青く、そして庭を吹き抜ける風に揺れる髪はまるで陽光をそのまま溶かしたような色だ。
彼女はいわば日差しのような人だ。
ヴィクトールの隣であでやかにほほ笑む姿は、まさにその地位にふさわしいと誰もが認めている。
当初、レオノーラはアンリエッタのことが苦手だった。
何しろ、ゲームの中での彼女は気位が高く、ヴィクトールの幼なじみということもあり、ヒロインに対していちいち口を出してくるような、今時珍しくもない王道ライバルキャラだったからだ。
だが、実際に会ってみると誰に対しても公平で、その地位にふさわしい立ち居振る舞い。そしてそれらを全くひけらかすことなく、ユーモアを忘れない。そんな彼女を、レオノーラが好きにならないわけがなかった。
その彼女が自分のために怒ってくれる。レオノーラは思わず笑みを漏らした。
「まあ、レオノーラってば。笑っている場合ではなくてよ」
「申し訳ありません、アンリエッタ様。でも、アンリエッタ様が私のために怒ってくださるのがうれしくて」
「レオノーラったら……」
アンリエッタは大きくため息をつく。
「あなた、悔しくはないの? 彼女、クリストフ様にべったりじゃないの」
「でもお役目ですから」
「お役目っていっても、そもそもあの役目は殿下がすべきことでしょう? それを家臣であるクリストフ様に押し付けるなんて……。あまりに目に余るので、私、この前言ってやりましたの」
「……え? 言って……、ってどなたにですか?」
まさかクララにだろうか。
そのイベントは確かヴィクトール個別ルートの中盤にある。
個別ルートとは、聖月祭で最も高感度が高いキャラクターのイベントが発生するのが条件で、その後、その攻略対象者にまつわる話がメインになるというものだ。
ちなみにヴィクトールルートのテーマは「身分差の恋」だ。
平民で育ったクララにおって城はあまりに窮屈な場所だった。
しきたりは何一つわからない。彼らが当たり前とすることが、クララにとっては理解しがたいものだったのだ。
それははたから見れば自由奔放にしているように見えたのだろう。
あまりに目に余ると思ったヴィクトールの婚約者であるアンリエッタに、クララが呼び出され注意を受けるというイベントだ。
悪意ある言葉ならばクララだってまだ耐えられただろう。だが、アンリエッタがなげかけた言葉のどれもが正論だった。
ヴィクトールに淡い思いを抱いていたクララにとって、それはひどく痛く突き刺さった。
間違っていない。だからこそ、何ひとつ言い返すことができなかったのだ。
だが、そのイベントをきっかけに彼女は城を飛び出す。その彼女を追ってヴィクトールが追いかけ、そして恋愛シーンへと発展するというものだ。
だが、今回、クララはヴィクトールとはさほど接点がないはず。
まさかと思ってうかがうレオノーラに、アンリエッタはあきれたようにため息を落とした。
「あら、レオノーラ様ったら、私があのご令嬢に何か言ったと思っていらっしゃるの?」
「え? 違うんですか?」
思わず素で答えるレオノーラに、アンリエッタは思い切り顔をしかめた。
「違うわよ」
アンリエッタはすっかり冷めてしまった茶をすする。
そして静かにカップをソーサーに戻しながら、じろりとレオノーラを見つめた。
「まあ、一時は少し忠告などとおせっかいを働きましたけれども、……でも、やめましたわ」
「やめた?」
「だって彼女、私が何をいったところで聞く耳を持つとは思えませんの。そもそも最初にあった時から、私は彼女に警戒されていましたしね」
アンリエッタは肩をすくめる。確かにアンリエッタは愛想がいいほうではない。整いすぎた容姿もその一旦を担っているといっても過言ではなかった。
「では、アンリエッタ様は、誰におっしゃったんですか?」
おそるおそる尋ねるレオノーラに、アンリエッタは軽く眉を上げる。
「決まっているでしょう。殿下よ」
「え……っ!」
まさか、ヴィクトールに言うなんて。思わず絶句するレオノーラに、アンリエッタは表情一つ変えない。
「当然でしょう。そもそも彼女を保護するのは王家がすべきことよ。それが聖なる力という稀有なるものを持っているともなればなおさらのこと。それを良い男が年頃だのなんだの……、全部、クリストフ殿に責任を押し付けているだけではありませんの!」
「……ですが」
「レオノーラ様!」
アンリエッタは、オノーラの両手をさっと握り締める。
「いい機会ですわ。レオノーラ様。わたくしの領地にいらっしゃいませ」
「……え?」
にっこりとほほ笑むアンリエッタに、レオノーラは目をしばたかせる。
こんな展開、ゲームにはなかったことだ。
そもそもこのゲームは共通ルートと個別ルートにわかれる。その切り替えポイントがあの聖月祭というわけだ。
聖月祭で一定以上の好感度があり、その中でもっとも高いキャラクターのイベントが発生することが条件で、各キャラの個別ルートに進める。
それぞれ生い立ちや、彼の抱える問題などがクローズアップされ、共通ルートではわからなかった彼らの内面に触れることができるというものだ。
例えばヴィクトールの場合は、彼には婚約者がいて、さらに主人公のクララとは平民ともあって二人の間には身分というの壁があった。
これに苦しみ、そしてやがて二人で乗り越える話というのがヴィクトールの個別ルートなのだが、特に問題になるのが婚約者、アンリエッタの存在だ。
ヴィクトールの婚約者として非の打ちどころのない彼女に対し、主人公はそもそも王家について何もしらず相手にすらならない。
これでアンリエッタが意地悪だったら、性格面で太刀打ちしようがあるが、彼女は立ち居振る舞いも相手への対応も文句がない。
つまり主人公のレベルが低いとアンリエッタに対抗するどころか個別ルート途中で脱落することになるのだ。
だが、それだってアンリエッタが城にいる限りの話だ。
彼女はこのゲームでは終盤にかけて攻略対象者を除いて、一番登場するキャラクターだ。
その彼女が聖月祭後に領地に引っ込むことなんてあっただろうか。
いや、とすぐさまレオノーラは心の中で打ち消す。
もしかしたらやったことがなかったクリストフのルートでは、アンリエッタはそうそうに領地に引っ込むのかもしれない。
クリストフとアンリエッタはヴィクトールという存在以外に共通するものはない。
だから出てこなくてもさほど問題がないのかもしれない。
むしろ問題なのは、自分の方だろう。
王都にいる限り、クリストフはレオノーラとレオノーラの家に縛られたままだ。
心が離れたといっても、婚約というものが解消されない限りそれはずっと続く。
だが、もしも。もしも自分がいなければ。
クリストフはレオノーラに気を遣うこともないだろう。
そうなれば彼はきっとクララと幸せになれる。
それに――レオノーラは無意識にかみしめていた唇に気が付いた。わずかに血のにじむそれを指ですっと抑える。
じりじりと痛むはずなのに、なぜか痛いのはそこではなかった。
心臓の、そのもっと奥が締め付けられるように痛む。くちびるをおさえてた手を、するりと胸に滑らせる。
もしも自分がここにいなければ、クリストフと離れれば、この痛みだっていつか消えてしまうかもしれない。
あの二人を見て、悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。




