二十二話
やがて舞踏会は終わりとなり、クリストフは当然のようにレオノーラを自分の馬車に乗せた。
道中、クララのことが気になったが、当のクリストフはまったく気にしていないようだった。
もしかしたら、クリストフのルートはまるで違う流れなのだろうか。
落ち着かなさげに馬車に揺られていたレオノーラが、屋敷に戻るとクリストフは彼女の手を取り指先に口づける。
恋人同士ではよくあるというしぐさ。だが、クリストフがレオノーラにそのようにあからさまに態度に表すのは初めてだった。
思わず目をむくレオノーラの背後で、侍女たちが小さくため息を漏らすのが聞こえる。
「ク、クリストフ様」
「それでは、またね。レオノーラ」
にこやかにほほ笑み、クリストフは馬車に乗り込む。
遠ざかる馬車をじっと見つめていたレオノーラに侍女の一人がにこにことほほ笑みを浮かべ近づいてきた。
「お嬢様。良かったですね」
「よかった……?」
そうだろうか。
クリストフの態度は前と変わらない。
だが、これではダメなのだ。
本来ならば聖月祭でクリストフといるのは、自分ではなくクララでなくてはいけなかった。
そのことに気が付いたレオノーラはさあと顔を青ざめさせる。
これではレオノーラが知る運命と何も変わらない。
クララは別の人の手を取り、クリストフは一人孤独の中に追いやられる。
その傷をいやすことは誰にもできない。もちろんレオノーラにも。
ぎゅっと唇をかみしめ、微動だにしない彼女に侍女たちが戸惑うように視線を交わす。
「あの、お嬢様……?」
「お父様はいらっしゃるかしら?」
「旦那様ですか? ええ、書斎にいらっしゃるかと……」
侍女の言葉を最後まで聞くこともなく、レオノーラはくるりと踵を還す。
そして足早に屋敷の奥。父の書斎へと向かった。
レオノーラの父親という人は、この国ではさして珍しくもないごくごく普通の地方領主だ。土地は大きすぎることもなければ小さいわけでもない。伯爵という名前はあるが、羽振りがいいわけでもない。あるのは長く続く家名と、質実剛健を絵にかいたようなその領地経営ぐらいなものだ。
堅実な領地経営だけが評判という父の唯一の趣味といえば、読書だ。
彼の書斎はよくあるような見栄えのする書物が、置物の用に置かれているものとは違う。
明らかに読み込まれて、くたびれた本が所せましと置かれている。
そのジャンルは幅広い。経済から生物、さらには冒険譚やおとぎ話にいたるまで様々な本が壁一面に置かれているのだ。
今日もその中の一冊を手に取り、ゆったりと趣味の時間を楽しんでいた。その時だ。
突然書斎の扉が開いたかと思うと、険しい顔をした娘が飛び込んできたのだ。
「……レオノーラ?」
彼女は確か、王宮の舞踏会に出ていたのではなかったか。
慌てて立ち上がりかけた父親に、レオノーラはずかずかと近づく。そして開口一番
「お父様、お願いがあります」
と告げたのだった。
レオノーラは小さい時から少しばかり変わった子ではあった。
妙に冷めている時があるかと思いきや、さして珍しいものでもないものに妙に執着する変わった子だった。
だが、彼女が願いごとをすることはほとんどなかった。
「……珍しいな。願いとはなんだ?」
読みかけの本を閉じ、首をかしげる父をレオノーラはまっすぐに見つめる。
「クリストフ様との婚約のことです」
「……っ」
父親の顔がわずかにこわばる。
父も貴族の一員だ。宮廷に出ることも多く、おそらく彼とクララとのうわさだって耳にしたことぐらいはあるだろう。
おそらくそれを言われると思っているのだろう。
だが、レオノーラの願いは違う。
「婚約を破棄していただきたいのです」
「レオノーラ!」
父親の手から本がばさりと落ちる。
高価な装丁の本だ。父はその本を非常に大事にしている。それを無造作の放り投げるように落としたまま、父は慌てたようにレオノーラに駆け寄る。
「お前、自分が今、何を言っているのかわかっているのか? 婚約破棄などと」
「……申し訳ありません。どうしてもしていただきたいのです」
うなだれるレオノーラに、父は言葉を詰まらせる。
「……クリストフ殿がお前に何か言ったのか」
「いいえ」
「では、何か妙な噂でも吹き込まれたか」
「いいえ……、いいえ」
レオノーラは何度も首を振る。
「……クリストフ様のせいではありません」
「では、お前のせいか?」
父親の声がわずかに硬くなる。
その問いに、娘はうなだれるだけ。きゅっとかみしめた唇は固く閉ざしたままだ。
その姿に父親は小さくため息を落とす。
無理やり答えを引き出すこともできるだろう。だが、それが真実とは限らないことを、彼はよく知っていた。
父親は娘を見つめる。
彼女は良くも悪くも一本気なところがある。
一途といえば聞こえがいいが、思い込むと周りが見えなくなる時がある。
そういったときに外野があれこれいって良くなった例は古今東西聞いたことがない。だからといって娘の話をそのまま鵜呑みにすることはできない。
そもそも婚約とは家と家との契約だ。
嫌だからといってすぐさまなかったことになど、できるわけがない。
よほどの理由。
例えば、犯罪行為や相手がレオノーラの家よりも上位の有力貴族との婚約に切り替えるなど。周囲が納得するような理由がなければ、できないものなのだ。
「レオノーラ、婚約という者はある意味契約だ。嫌だからといってなかったことになどできないことはお前も知っているね」
父親の諭すような言葉に、レオノーラはこくりと頷く。
「それに、お前とクリストフ殿の婚約は国王陛下も認められた正式なものだ。それを突然、お前の我がままでなかったことにできるわけがないことは、わかっているね」
「……はい」
レオノーラはこくりと頷く。
父親のいっていることは至極もっともだった。だけど――レオノーラは今にも涙にぬれそうな瞳を父親に向ける。
「……でも、お父様、これもすべて、クリストフ様のためなのです」
「彼のため? なぜだ」
「それは……言えません」
まさか、自分ではなくクララと一緒にさせるためとはいえなかった。
くちびるをかみしめうつむく娘を、父はじっと見つめる。
クリストフは父親の目から見てもよい男だった。彼といる間、娘は幸せそうに見えた。だが、その娘が婚約を破棄したいと言い出すのはよっぽどのことだろう。
父親は小さく息を吐いた。
「……すぐにはできないことはわかるだろう。お前にとっても、彼にとっても少し考える時間が必要だと思うが」
「……はい」
父親の言葉に、レオノーラはこくりとうなずく。
そして静かに部屋を出ていった。静かに閉まる両開きの扉。その奥から聞こえる足音が少しずつ遠くなっていく。その音が完全に消えるのをまって、父親はひときわ大きく、そして重いため息を一つ落としたのだった。




