二十一話
「レオノーラ……」
すまない。それが言葉になったかどうかはわからない。
クリストフの手がレオノーラの腰から離れる。そのままクララへと向かう彼の後ろ姿を見つめ、レオノーラはそのまま踵を返した。
彼女の術の暴走で騒然とするホールで、一人誰かがいなくなったとしても気が付くことはないだろう。
それに、あれはただの術の暴走ではない。
あれはゲームの中で、主人公にはもっとも重要なイベントの一つ。
もちろん恋愛親密度を測るイベントでもあるが、それ以上にあそこで彼女は聖なる乙女として覚醒するのだ。月の女神の恩恵を受ける聖なる乙女。
彼女がどうしてたぐいまれなる力を持っているのか。そこでようやく解明されるのだ。
その後、彼女はこの国に巣食う病魔を聖なる力によって祓う。
ヴィクトールの場合は、婚約に無理やりこぎつけたといわれる辺境伯の悪事に。
近衛第一隊長の場合は、城近くに現れた魔物に。
宰相補佐の場合は、隣国からの呪いに。
魔術師の場合は、王位を狙う悪しき妃に対し。
聖なる力により、魔は払われ悪しき心は清められるといった具合だ。
といっても、この世界ではお后様は別に悪い人ではないし、辺境伯だってそうだ。
むしろ一刻も早く第二王子との婚約をやめてほしいのにと、以前、辺境伯がぼやいていたとレオノーラの父が言っていたことがある。
城近くに魔物が出る気配もなければ、隣国との関係は特に問題らしいものは見当たらない。となると、この世界は彼らの誰のルートではないのだろう。
考えられるのはレオノーラの知らない、あのクリストフのルートだ。
ストーリーはわからないが続編ならば話の流れは大きく変わらないだろう。
きっと、このイベントで、クリストフとクララはこの聖月祭でお互いを運命の相手だと知るのだ。
それと同時に彼らを邪魔する相手もはっきりと浮き出る。
「……それはきっと私のことね」
今、彼らとの間を邪魔している存在は、自分以外にはいないだろう。
だとしたら自分が彼らの敵になってしまうのだろうか。
レオノーラは人目を避けるように回廊から王宮の庭へと向かう。
ホールでの騒ぎのせいか、庭は人の気配はほとんどない。あるといえば、当たりを転々と照らす魔法の光ぐらい。
淡く、白い光が美しく整えられた生垣を照らす。
その奥にあるのはあずまやだ。
今日は聖月祭でなければ、このあずまやはきっと恋人たちの語らいの場になっていはずだ。
だが、今、その恋人たちはホールにいる。
月の女神の申し子。聖なる乙女の光に包まれて。
その光を浴びない唯一の人が自分というわけだ。
あずまやの冷たいベンチに腰を下ろしながら、レオノーラは小さく息を吐く。
ゲームではこの聖月祭を境に個別ルートに入る。好感度が一番高いキャラのルートになるのだが、そのライバルになるのはきまってクリストフだった。
どのルートでも彼の思いが報われることはない。
発売当時、彼自身、攻略キャラでなかったせいだと言われたらそれまでだが、それにしても彼の場合はそれがあまりに切ない。
――本当に君が思っているのは、僕じゃない
そう言い残し、彼は必ず去っていくのだ。
「やはり敵役は私ってことか……」
魔物や悪の権化のような大貴族に比べたらずいぶん規模が小さいが。
おそらくこの先、何らかの事件が起きて……、例えば魔女の力とか。いや、魔女の知り合いなどどこにもいないけど。
とにかく力がアップするような出来事が起きて、レオノーラは二人の前に立ちはだかるに違いない。
クリストフに手を挙げることなど考えただけでも胸がつぶれそうだが。
はあ、と息を吐いたその時だ。ふわりとレオノーラの目の前を何かが横切った。
ふいに顔をあげるとそこにいたのは小さな鳥だ。
鳥は一般的に夜目が聞かないという。それなのに、この鳥はまるでなんてことのないかのようにレオノーラの周りを飛んでいる。その体には淡い光が膜のようにまとわりついていた。
レオノーラがすっと指を差し出すと、鳥は迷うことなくそこにとまった。
「わあ……」
指にとまった鳥がちりちりとさえずる。
「もしかしたらあなたが魔女さん? 悪い魔女さんには全然見えないわね」
レオノーラの問に答えるように、鳥がちっ、鳴いた。
良くみると鳥の羽は闇夜を優しく照らす月の光のようだった。ほんのりとクリーム色をした優しく淡い光。それを薄くまとった鳥は、ちりちりと小さくさえずる。
これが魔女ならば、なんて美しい魔女なのだろう。
小さく笑みを漏らすと、鳥はじっと彼女を見つめる。その瞳はつややかな銀色をしていた。
こんなに美しい鳥ならば、魔女というよりも妖精だろう。
月の女神の使いだろうか。
ふっと笑みを浮かべたその時だ。軽やかにさえずっていた鳥がびくりと体を揺らし、振り返る。その視線の先は、王宮だった。
「え?」
レオノーラも鳥に促されるように振り返る。と、その時だ。
鳥がはじかれるようにレオノーラの指から飛び去った。
「あ……」
思わず立ち上がったレオノーラの耳に、明らかにこちらに近づいてくる足音が飛び込んできた。
それもずいぶん急いでいるような急いた音だ。
はっとふりかえったレオノーラがみたのは、険しい顔をしたクリストフその人だった。
「クリスト……」
「……君は」
クリストフは大股であずまやにたたずむレオノーラに近づくと、彼女の肩に両手を置く。いや、つかむといっていいだろう。
ぐいとつかんだクリストフの瞳は、闇夜にもはっきりとわかるほどぎらぎらとしていた。
「君は……、どうして一人でこんなところに……っ」
「クリストフ様……?」
どうしてここに。それはレオノーラが言いたいセリフだった。
ゲームならば今頃は、イベント後の甘くとろけるような後日談イベントになるはずだからだ。
それなのに当の本人がこんなところにいるなんて。
「……何か、あったのですか?」
思わず尋ねるレオノーラに、クリストフは怪訝そうに眉を寄せる。
「何か、とは」
「ですから、あの、その……、」
まさかここでイベントがうまくいかなかったのかとか聞けるわけもない。
口ごもるレオノーラに、クリストフは大きなため息を一つ落とす。
「何かあったと聞きたいのは、私の方だよ、レオノーラ」
「クリストフ様?」
首をかしげるレオノーラに、クリストフは彼女の肩に両手をおいたまま顔をのぞき込むようにかがみこむ。
「君がいなくなったと気が付いたと気が付いた時、僕がどれほど心配したか……」
いわれてみればその通りだ。
彼は義理とはいえ婚約者を放っておけるような人ではない。一言言づけていけばよかった。そうすれば彼はクララを放ってこちらを探しに来る必要がなかったはずだ。
「……ごめんなさい」
うなだれるレオノーラに、クリストフはわずかに笑みを浮かべる。
「いや、僕の方こそ怒鳴ってすまない。恐ろしかっただろう」
「いえ」
クリストフのことを怖いなど一度も思ったことがない。首を振るレオノーラに、クリストフはぎこちない笑みを浮かべる。
「君のこととなると、どうも冷静ではいられなくなる」
「……心配ばかりかけてしまってごめんなさい」
クララとは違い、レオノーラはただの娘だ。
稀有な力もなければ、震い付きたくなるような美女でもない。
力ない、ただの小娘相手では心配も尽きないことだろう。
さらにうなだれるレオノーラを前に、クリストフは膝をついて顔をのぞき込む。
「そういうことではないよ、レオノーラ。僕はね、はどうも君を前にすると、冷静ではいられなくなる。まるで十代の子供のようだと自分でもあきれているんだ」
「そんなこと……っ」
レオノーラは慌ててかぶりをふる。
「クリストフ様は素敵ですわ!」
「こんなにみっともなく、取り乱して君のところに来たっていうのに?」
くすりとわらうクリストフに、レオノーラは懸命に言い募る。
「クリストフ様がみっともないところなどどこにもありません。いつも真摯でいらっしゃいますし、優しいですし、それに」
「ああ、レオノーラ、もういいよ」
クリストフの言葉に、レオノーラは慌てて口をつぐむ。
何かとても失礼なことでも言ってしまったのだろうか。不安になりながらもちらりと見つめたレオノーラは、信じられないものを見た。
夜目にもはっきりとわかるほど、クリストフの頬が赤く染まっていたのだ。
視線は落ち着かなさげにうろついている。
「まったく君って人は……」
クリストフは大きく一つ、ため息を落としたのち肩においたった手をするりと滑らせ、先ほどまで小鳥を止まらせていた彼女の手を両手で優しく包み込む。
「……君が言うと、僕はまるで聖人君子のように聞こえるな」
「だって、本当のことだもの」
目を伏せるレオノーラの耳に、かすかな吐息。そしてビロードのような彼の笑い声が聞こえた。
「レオノーラ、僕はね決して、聖人君子でもなんでもないよ。君が今、僕の心の中をのぞいたらきっとおびえてしまうだろうな」
そんなことあるわけがない。
クリストフが優しいのは改めて言うまでもない。レオノーラのような特別美しいわけでも、歌がうまいわけでも、身分が高いわけでもない。
どこにでもいるような平凡な少女に、これほどまでに真摯に向き合ってくれる人がほかにいるだろうか。
それに、とレオノーラは心の中でつぶやく。
レオノーラは知っている。彼がどれほどまでにクララを愛し、尽くしているかを。
狂おしいほど彼は彼女を求める。だがどのルートでも彼は、クララの気持ちを汲み彼女の背中を押すのだ。愛する者へと。
こんなこと、彼以外の誰ができるのだろうか。
だからこそ、彼には幸せになってもらいたい。この運命がレオノーラの知るどの運命でもないとしたら。
きっとこの運命でようやく彼は幸せになるのだ。
だからこそ、レオノーラは決断しなくてはならない。
ならないのに。
ふいにレオノーラの耳に、ちりちりと小さくさえずる鳥の声が聞こえたようなきがした。
だが、今は夜。鳥が飛ぶはずもない。
小さく息をはき、レオノーラは目を伏せる。
あと少し。もう少ししたら。
そう思いながらも、レオノーラはどうしても彼の手を振り払うことはできなかった。




