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二十話

「……は?」


 あまりに予想外の問いかけに、クリストフはいつもの礼儀もすっ飛ばし、真顔で同僚を見つめる。

 同僚のジェレミーは、表向きは騎士でクリストフの同僚だが、実際のところ出身は隣国だ。留学していたヴィクトールが帰国する際、気が向いたからといって一緒についてきたという奇特な人物だった。

 国王の古い友人の息子という話だったが、何がどうしてか。気が付いたらクリストフの同僚などという立場にいる。気さくな人柄ゆえに、クリストフも友人のような付き合いをしていた。

 その彼が妙な顔をして尋ねてきたのだ。

 クリストフは目をしばたかせ、まじまじとジェレミーを見つめた。


「婚約破棄……、って誰のことだ?」

「誰って、お前のことだよ。クリストフ」


 ジェレミーはすでにその噂が偽りであることを察したのだろう。

 くすくすと笑う同僚に、クリストフは一気に顔を険しくする。


「それは聞き捨てならない噂だな。誰から聞いたんだ?」

「誰からって……、そうだな。侍女のアニーとか、あと従僕のケインあたりか」

「……っ」


 クリストフは絶句し、それから頭をかかえた。

 噂の出どころである二人は、クララについている者たちだった。中でも侍女のアニーは下町育ちともあって、クララとはとても話が合うようだった。

 そのアニーが噂の出どころともなると、誰が言い出したかは考えるまでもなかった。


「けど、まあ、今回ばかりは言われても仕方がないだろうな」

「どうしてだ」


 にらむクリストフに、ジェレミーは肩をすくめる。


「お前がレオノーラ嬢を放っておいて、クララ嬢ばかりにかまけているからさ。それを周りのやつらが見たらどう思う? いや、周りだけじゃない。当の本人がどう思うかなど、頭のいいお前ならわかるだろう」

「……しかし」


 何も知らない彼女を誰かれかまわず預けられるわけがない。

 そういうとジェレミーは興味なさそうに鼻先を指で掻いた。


「そう思っているのはお前だけかもな。実際、当のご本人はお前だけじゃなくて、いろんな人を頼っているようだがな」

「いろんな人?」

「お前、知らないのか」


 ジェレミーは笑う。


「なあ、クリストフ。女は怖いな。彼女はお前が思っているほどへこんでもいないし、おびえてもいない。むしろそんなことなどおそらく、これっぽっちも感じてないかもな。あの女は見た目ほどヤワじゃない。この前なんか、ヴィクトールに声をかけていたしな」

「ヴィクトール」


 クリストフの顔がこわばる。しかしジェレミーはさらに続ける。


「ああ、他にもいたな。近衛第一隊の副隊長殿に、それに宰相補佐殿。あと」

「まだいるのか!」

「魔道研究所の研究員あたりだったかな」

「……何をやっているんだ」


 クリストフは頭を抱えたくなった。

 これでは何のためにクリストフがいるのだかわかったものではない。

 そもそも今、上がった名前の者はそろいもそろって婚約者がいる。特にまずいのはヴィクトールだ。


「……国王陛下の耳には」

「しっかり入っているに決まってるだろう。思った以上にあのお嬢さんは破天荒な人柄のようだな」


 くくっと笑うジェレミーをクリストフはにらみつける。


「知っていてなぜ、止めない」

「なぜ? どうして、俺が?」


 しれっと返すジェレミーに、クリストフは目を丸くする。


「どうしてって決まっているだろう」

「それはお前と、王子様たちの理屈だろう? オレのしったことではないな。それに」


 ジェレミーはにやりと唇をゆがめる。


「レオノーラ嬢がお前と婚約破棄でもしてくれたら、オレは喜んで申し込みに行く予定だからな」

「……っ」


 ジェレミーの言葉は、挑発だということは彼の性格をよく知るクリストフには痛いほどわかっていた。

 だが、わかっているからといって心が動かないかといったらそうではない。

 思わず胸倉をつかみ上げたクリストフに、ジェレミーはなんとも愉快そうに笑みを漏らしたのだった。

 それを知るからこそ、先ほどの光景はクリストフには到底耐えられないものだった。

 レオノーラの手をとり、寄り添い、ステップを踏むのは自分以外ありえなかった。

 それなのにどうして。

 クリストフはかろうじて笑みをうかべつつ、複雑なステップをこなす。

 クララはもともと運動が得意なのか。あれほど礼儀作法は苦手だといいながらも、ダンスだけはうまかった。

 やすやすとステップをこなす彼女に比べ、レオノーラはというと先ほどからステップはおぼつかない。時折ステップを踏み間違えては、パートナーであるジェレミーに申し訳なさそうに笑みを向けている。

 そのたびにクリストフは胸がかきむしられそうな思いがした。

 なんとかダンスをそつなく終わらせ、レオノーラのそばにむかったものの彼女は視線すらあげようとはしない。

 それどころかここから今にも逃げ出しそうな勢いだ。

 ここで逃げられたら、それこそ周囲の、いや、ジェレミーの思うツボだ。

 故に、今までがんじがらめに縛られていたクララという存在が頭からすっぽぬけ、あろうことかジェレミーに押し付けてしまったのだ。

 だが、それについてもいまのクリストフに気が付く余裕などあるわけがない。

 緩やかだが、甘く密着率の高いダンスを踊りながらもレオノーラは、心ここにあらずだ。言い換えれば今にも腕からすり抜けていきそうな、不安定さを醸し出していた。

 噂のせいか。

 クリストフは心の中で舌打ちをする。

 いや、噂だけではない。彼の中でどこかにおごりがあったのかもしれない。

 彼女との未来は安定しているのだと。だが、それだってクララというたった一人の存在でこうもあっけなく揺らいでいる。


「……レオノーラ」


 甘い、波のように揺れる曲に会わせ、ステップを踏んでいたレオノーラはふいに耳元でささやかれた声に、視線を上げる。

 クリストフとのダンスはどのようなステップを踏むか手に取るようにわかる。だが、わかったからと一定、心穏やかでいられるかといったら話は別だ。

 現に彼のたった一言に、レオノーラの心臓はやすやすと飛び跳ねる。

 どくどくと音を立てて、まるでドラムロールのようだ。

 息を吸い込み、懸命に落ち着こうとする彼女に、クリストフは視線を落とす。

 その瞳は黒曜石のように深く、そしてきらきらと輝ているようにレオノーラには見えた。

 だが、その瞳が映すのはレオノーラではない。

 ふっと視線を伏せ、レオノーラは彼の声が聞こえなかったふりをした。

 やがて曲が終わりレオノーラは彼から離れようとする。だが、クリストフはその手を離そうとはしない。


「……あの、クリストフ様?」


 レオノーラの声に、クリストフははっとしたような顔をする。


「あの手を」

「ああ、そうだな」


 クリストフは名残惜し気に彼女の手を離す。だが、すぐに腕を彼女の腰に回す。

 それはまるで周囲に見せつけるような態度だった。

 クリストフがそのようなことをすることは、初めてだった。


「あ、あの、クリストフ様? どうしたんですか?」


 戸惑うように周囲を見回す。レオノーラに、クリストフはわずかに眉を上げる。


「どう、とは?」

「あの……、皆様、見てますし……」

「かまわないだろう。私たちは婚約者なのだから」


 クリストフの言葉に、レオノーラは絶句する。

 真っ先に思ったのは嬉しいという感情だった。それは自然にあふれ、レオノーラを満たす。だが、その次に思ったのは激しい罪悪感だった。

 クリストフを引き留めておきたいというのは、自分のわがままだ。

 この先、彼が決して幸せになれないと分かっているのに、自分のちっぽけな矜持とわがままのせいで彼はこの先不幸になってしまう。

 それをわかっているのに、レオノーラはきゅっと唇をかみしめる。

 と、その時だ。カランと、涼やかな鐘の音色がホールに響き渡る。

 聖月祭が始まったのだ。

 王宮の聖月祭は、市井のものとは規模が違う。

 いつもは稀有な力とされる術を使い、ホールの天井に美しい月を模した光を作り出すのだ。その光からはまるで月のかけらのようなきらきらとした光が降り注ぐ。

 その光をうけながら、恋人たちはホールのいたる所に飾られている月光花を、意中の相手に渡すのだ。

 鈴の音は徐々に大きくなり、その音に呼応するように周囲に散らばっていた光がホールの天井の中央に集まる。

 やがて丸くかたどられた光の中央には女神の紋章が現れた。

 そして例年通り魔法で作られた月から光が零れ落ちる。その時だ。


「……っ!」


 小さなか細い悲鳴が上がる。その声がするほうへと視線を向けたレオノーラは絶句する。

 ジェレミーの隣にたたずんでいた少女の体が、白く淡い光を放ち始めたのだ。


「クララ……ッ」


 叫んだのはクリストフだった。

 その声が聞こえたのだろう。じりじりと周囲から人が遠ざかる中、不安げな表情を浮かべていたクララが振り返る。そしてクリストフの方に手を延ばしたのだ。


「クリストフ!」


 助けて。その声にクリストフが一瞬駆け出そうとする。だが、すぐに傍らにレオノーラがいることに気が付いたのだろう。

 その足をぴたりと止めてしまった。


「……ジェレミー!」


 クリストフが叫ぶ。その声に呼応するようにクララの体を光がさらに強く包み込んだ。と、その時だ。クリストフの手に、何かが触れた。

 レオノーラの手だ。


「クリストフ様、私は大丈夫です。ですから」

「だが……」


 クリストフは逡巡する。

 あれは術の暴走だ。おそらく聖月祭で行使された術の中に、彼女の中にある力を増幅させるものがあったのだろう。

 偶然か、故意かはわからない。

 だが、このままでは術が暴走を始める。弱いものならまだしも、彼女の中にはどのぐらいの魔力が秘めているかはクリストフさえもわからなかった。

 それにレオノーラに被害が出ないとも限らない。

 迷うクリストフに、レオノーラは静かに首を振る。


「クリストフ様。クララ様を助けられるのはあなた様の他にはいません」


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