十九話
「楽しそうだね。次は私と一曲、お願いしてもいいかな」
「え、ですが……」
レオノーラは戸惑うようにクリストフと、そしてクララを見つめる。
腕にしがみついて、離れまいとするクララは、レオノーラの視線に一瞬びくりと体をすくめるとさらにぎゅうと彼の腕にしがみついた。
これではとてもではないが踊れないだろう。いや、もしかしたらクリストフは婚約者の自分に対して義理で誘っているのではないだろうか。
ああ、そうだ。きっとそうだ。
レオノーラはにっこりとほほ笑むと、再びクリストフへと視線を移す。
「お気になさらずに、クリストフ様」
「レオノーラ?」
怪訝そうに眉を寄せるクリストフに、レオノーラはにこりとほほ笑み返す。
「気を使っていただく必要はございません。私は、そのあたりを見てまいりますので」
そういってから、レオノーラはジェレミーへと視線を移す。
「ジェレミー様もありがとうございます」
「あ、いや……」
それでは、と優雅に頭をさげ、立ち去ろうとしたレオノーラの耳に、小さな舌打ちが聞こえた。え? 誰のだ。そう思って振り返りかけたその時だ。
信じられないような光景が目に飛び込んできた。
あのクリストフが、腕にしがみついているクララをまるで物のようにぺりっと引きはがしたのだ。
「ク、クリストフさま!?」
仰天したのはレオノーラだけではない。クララもそのような仕打ちをまさか受けるとはおもっていなかったのだろう。
何しろ、あの、ゲーム内ではクララの保護者といわれているクリストフが、だ。
彼は引きはがしたクララを、一番近くにいたジェレミーに突き出す。
「コレを頼む」
「え? クリストフ様!?」
戸惑うジェレミーに押し付けられたクララが、慌てたように振り返る。
しかし、彼女の視界に飛び込んできたのはいつものあの、端然としたクリストフではなかった。
紳士然とした表情はどこにもない。
焦燥をあらわにしたその表情は、いつものあの彼ではなかった。
「レオノーラ」
吐き出された言葉は、どこか苦し気だ。
だが、それも今のレオノーラには届かない。彼女はすがるようにジェレミーを見つめる。だが、彼は彼で押し付けられたクララを支えるのに手いっぱいだ。
だとしたら――他に逃げ場を探すように視線を動かしたその時だ。
彼女の腕を何かがとらえた。それが誰かなど確認するまでもない。
その手の感触は目をつむっても分かるほどだ。
「レオノーラ、行こうか」
「……はい」
レオノーラは目を伏せ、小さくため息を落とす。
逃げることはかなわなかった。
しょんぼりとうなだれる彼女の手を取り、クリストフがホールの中央へと向かう。
うなだれた彼女は、いつもと違って髪を器用に結い上げていた。うなだれているせいだろう。わずかに見える首筋は、明かりを落としているからこそやけに白く目につく。
それをごまかすように咳ばらいをすると、彼女はわずかに肩を揺らしおずおずと顔をあげた。
――私が絶対に幸せにしてあげるから
彼女と最初に出会ったときに言われたセリフだ。
その時の彼女は琥珀色の瞳いっぱいに涙をためていた。今にも零れ落ちそうなその涙が、彼女の瞳の色をにじませる。それはまるでクリストフが知っている一番きれいなもの。祖母が大事にしている先々代の王妃から賜ったという大粒の琥珀のペンダントを思い起こさせた。
自分こそ、彼女を幸せにするんだ。
そう思い、彼女との日々を重ねてきた。
不器用な彼女が作ってくれた守り袋。さして得意なわけでもないというのに、クリストフのためにと作ってくれたそれは、どんな高価なものにも代えがたいものだった。
苦労をしたのだろう。不器用な手でつくってくれたものが何よりも愛しくクリストフは感じていた。そしてその日々はこれから先もずっと続くのだと信じて疑わなかった。だが、これはどういうことなのだろうか。
ホールに音楽が流れ、クリストフはレオノーラの手を取る。
曲は緩やかなもので、それに呼応するように明かりがさらに絞られた。
月の淡い光が、彼女のまとうドレスをきらきらと輝かせる。それはまるで今にも月の光に溶けてしまいそうな雰囲気だった。
目を伏せたまま、ステップを踏む彼女を見下ろしながら、クリストフはここ最近感じていた違和感について思い出していた。
彼女の心は疑うまでもなく、家同士の関係も良好。
問題なくこの婚約は成立するものとばかり思っていたクリストフが違和感を覚えたのはあの日。奇跡の術を使うという少女と出会った、あの王都の祭りの日のことだった。
その日は朝から彼女は妙だった。
何かをずっと気にしているようで、街に出ても出店に興味を示さなかった。
具合でも悪いのかとおもった矢先、あの少女が現れた。
その日からクリストフは奇跡の術を使うという少女のことで仕事に忙殺された。
彼女の存在は一つ間違えれば、国家を揺るがしかねない非常に危険な存在だからだ。
そのため彼女――クララは王家が預かることになった。
だが、それもまた別の問題を引き起こした。
妙齢の王子がちょうど二人いて、そのどちらもがすでに婚約者が決まっていたからだ。
結婚でもしていたならばさほど大きな問題にはならなかっただろう。
しかし王太子はすでに半年後に結婚が決まっており、相手は隣国の王女だ。
この婚姻が万が一にも躓くことがあれば国同士の諍いにまで発展しないとも限らない。何しろ隣国の王は、それこそかの王女を目に入れてもいたくないほどかわいがっているのだ。この婚姻にわずかでも、疑惑を感じるようなことがあってはならない。
だからこそ、クララの身元引受人がヴィクトールになったのだが、これもいささか問題があった。
ヴィクトールにも婚約者がいたのだ。相手は国内でも屈指の大貴族、辺境伯の令嬢だった。その辺境伯がまた一癖もある人物だった。
国内でも王に次ぐ権力を誇っている当人はたいそう偏屈な性格らしく、権力にはさほど頓着しない人だといわれている。
さらに辺境伯といわれるだけあり、国境付近に広大な領地を持ち、そこを守るためにただ一人、独自の軍隊を持つことを許されている。
その気になれば国を揺るがすほどの力を持っていならが、辺境伯は代々国の中心とは距離を置いてきた。
一歩間違えれば、己の存在が戦火の火種になると分かっているからだ。
そんな人がどうしてか第二王子という国の中枢に近い男に、最愛なる娘を嫁がせることになったか。
もちろん、娘が王子に恋をしたわけでも、王子が娘に恋をしたわけでもない。
そんな話だったら周囲も納得しただろうし、国民だってそういうロマンスを求めていただろう。
だが、事実というものは実に平凡なものだ。
ただ単に、候補が多すぎたという理由に他ならない。
もちろん、対外的には国内情勢の安定ということになっている。
これはある意味間違っている話ではない。
前提として第一王子が血統的にも、健康的にも能力的にも王位につくことにまったくもって問題のない人物だということ。
もし、そのいずれか一つでも何かが欠けていたら、おそらく問題はもっと複雑だっただろう。もしくはもっと簡単だったかもしれない。
だが、第一王子はじつに素晴らしい人物だった。
故に、よほどのことがない限り第二王子が繰り上がりで王位につくことはあり得ないことだった。
そんなこともあり、第二王子の相手を選ぶことになった際、国内の貴族は一様に色めきたった。
王位につかないのであれば、言い方は悪いが配偶者など誰でもいい。
王太子には国を守り、そして王家を継ぐという責務と義務が生じるが、第二王子となればその義務と責務は格段に減る。
その上、現状国内外が安定しているというもの理由の一つだ。
戦時下であれば、家に箔をつけるには敵将の首一つで事足りる。
だが、平時となるとそれも難しい。他家との差別化を図るには財力か、はたまた血統でしなくなる。
そうなってくると王家の血なんてものはおそらく喉から手が出るほど欲しいはずだ。
もちろんその裏では苛烈な争いがおこったのは言うまでもない。
多くの娘が涙を流し、その裏で思いを通じ合ったはずの若い男が唇を噛む。
宮廷内の乱れはやがて国内全体にひろがる。その事態を治めるために動いたのが辺境伯だったわけだ。
伯にしてみたら、彼らの特権意識などしったことではない。
そもそも彼には王族の血など必要ではなかったのだから。だが、放置していたら国内が乱れることは目に見えていた。故に、彼は娘を差し出したのだ。
そういう意味では、クララの存在も同じようなものだった。
彼女は女神の力といわれるものを持っている。
その女神こそ、どの国にも属さぬ神殿が祭るものだった。
神殿が一国に介入する。それはある意味、国内の一貴族が騒ぐよりももっとずっと恐ろしいことだった。
これを放置することがどれほど危険なことか。
もちろん、当の本人にその自覚があれば幾分マシだったかもしれない。
だが、彼女はというと権力や駆け引きといったものをまるで理解していない。だが、無知な少女の存在はあまりに危険だった。
そのために白羽の矢がたったのがクリストフだったというわけだ。
もちろん、彼はすでに婚約者がいた。
その相手は中堅貴族であり今回のヴィクトールとの婚約にも全く興味を示さなかった家。
地味で目立たない家だが、己の分をよくわきまえた古き良き家の娘。
クララにしても聖なる力をのぞけば、ただの娘だ。
後ろ盾のない、平民の娘が相手ともなれば、問題はさほど難しいものではない。
そう誰もが思っていた。
だが、ふたを開けてみると問題は山積みだった。
礼儀も何も知らない少女は、真っ先に宮廷のしきたりという壁にぶち当たり、コテンパンにやられてしまった。
そのことですっかりおびえてしまった少女は、何もかもをクリストフに頼りきった。
クリストフとて少女のお守りばかりはしてられない。他にも仕事が山のようにあるのだ。
かといって、かの少女を誰かれかまわず預けるわけにもいかない。
結局、クリストフはここ一か月碌に家にも戻れないでいた。
そんな矢先、同僚であるジェレミーが妙なことを口にした。
「お前、婚約破棄するって本当か?」




