十八話
「え?」
「ここに来る前に鏡、見た? 入ってきたときから顔色が真っ青だよ。……クリストフは何も言わなかったの?」
「あ、え……、し、心配してたけど、私が大丈夫だといったの」
ジェレミーは軽く眉をあげる。それは彼がレオノーラの言い訳をまるで信用してないように見えた。
「だって、ほら! 今日は聖月祭でしょう? 王宮での聖月祭は初めてだから、昨日、あまり眠れなかったの」
言い訳としては十分説得力があるとレオノーラは思った。
何しろ王宮の聖月祭にあこがれない娘はいない。立派な騎士たちに、美しい令嬢。そしてクリストフ。物語だってこれほど素敵な状況はないだろう。
……たぶん。
実際は、レオノーラはこれっぽっちも楽しみではなかった。
だって、ここで彼はきっとクララと結ばれる。ここでイベントが起きれば、あとは個別ルートに突入してしまう。
あれから一つ思い出したことがある。
続編で待望のクリストフルートが作られることになったというものだ。
人気が高かったために、という説明だったが、それをやった記憶は残念ながらない。
おそらくその前に自分は、亡くなってしまったのだろう。
だが、数枚だけ公表されたスチルというイラストの中にはっきりと聖月祭のものだとわかるものの記憶はあった。
その中の一枚が、この聖月祭イベントのものだ。
薄暗い中、背後に輝く白く清廉な月。それをバックに甘くほほ笑むクリストフの姿。
だが、その視線の先にいるのはレオノーラではないことははっきりしている。
あれを見るぐらいならば、本当ならば家でベッドにもぐりこんでいたかった。
思わずため息をこぼしたレオノーラに、ジェレミーはちらりと視線をやる。
――楽しみだった? あんな青ざめた顔色をしているのに?
ジェレミーは先ほど彼女が口にした言葉を脳裏で繰り返す。
楽しみといっていたが、彼女の横顔を見ればそれが偽りだということは明らかにわかる。
おそらく原因はあのクララだろう。
彼女は下町育ちともあってか、身分やしきたりにはずいぶん疎い。そのせいでいろいろ言われているが、天真爛漫で明るいところが人を引き付けるのもまた事実だ。
しかし、とジェレミーはちらりと傍らのレオノーラを見つめる。
強い光は同時に濃い影を作るものだ。彼女の天真爛漫なふるまいによって、傷つけられる人もいるのだ。
そのことについてクリストフもずいぶん苦労しているようだが。
どうしたものかと考えあぐねていたその時だ。ホールから華やかな音楽が流れてきた。
「踊らないんですか?」
踊る? 誰と?
ジェレミーの問に、レオノーラは目をしばたかせる。
前世で踊るといえば、運動会のお遊戯ぐらい。だが、ここで踊るのがそれと同じではないことぐらいわかってる。だからこそ、レオノーラはつぶやいてしまったのだ。
「……え? 一人で?」
と。その瞬間、ジェレミーは何とも言えない顔をした。
笑いをこらえているというか、それとも困っているというか。おそらくその両方だろう。
顔をぐっとしかめ、何かをこらえたのち深い深いため息を一つ吐き出した。
「どうしてそうなるのかな」
「え? だって……」
レオノーラはさらに首をかしげる。
そもそもダンスといっても一人ではできない。たいていが誰か、パートナーがいないとできないものだ。
婚約者はあの通りだし、それ以外の人となるとレオノーラには想像すらできない。
ジェレミーのような見た目もよく、周りからも愛されている人には想像すらできないだろうが。そう切々と説いていたレオノーラは、ふと彼ががっくりとうなだれていることに気が付いた。
「あの……ジェレミーさん?」
「……なーに?」
「どうかしましたか? 私、何か、おかしなことでも」
確かにこの世界の妙齢の女性が、わざわざパートナーがいない正当性を切々と説いたりはしない。
そのあたりがおかしいのかと思いきや、ジェレミーはかっと顔を上げるや否や、眉を吊り上げた。
「レオノーラさん、オレはね、そういう嫌味たらしいことを言うつもりでいったんじゃないんですよ。そもそもこういうセリフはね、ダンスに誘っているときに言う常套句ナンデスヨ。何をまともに答えているわけ……」
「え? そうなんですか?」
「そうデスヨ」
「まあ……、では、ジェレミーさん、私を誘ってくださってるんですか?」
「当り前だよ」
眉を吊り上げきっぱりと言い切るジェレミーに、レオノーラはわあ、と声をあげた。
「誘ってくださる方なんて、初めてです」
「初めて? 嘘だろ」
おどろいた顔をするジェレミーに、レオノーラは小さく笑う。
彼が驚くのも無理はない。
婚約者以外とは踊らないといえば聞こえがいいが、用は他に相手にされないだけだ。
家柄の良い令嬢ならば、ほかにも引く手あまたであって当然だ。たとえその令嬢に婚約者がいたとしても。
そういうと、ジェレミーは顔をこれでもかとしかめ、そして首を振った。
「……クリストフは何も言ってないんですか? 君のことを、何も」
「クリストフ様が? いえ」
何を言うのだといわんばかりの顔でかぶりをふる彼女に、ジェレミーはまたもやため息を落とす。
「……あいつは、本当に……」
零れ落ちた言葉を、彼は両手で握りしめる。
そして彼は再びレオノーラを見つめ、そして手を差し出す。
「ならば、なおさらオレと踊っていただけませんか?」
その言葉をレオノーラは驚いたように見つめる。
初めてだった。クリストフ以外から誘われたのは。それがさほどうれしいことでもなかったし、むしろクリストフに悪いとまで思ったことにレオノーラは驚いた。
だが、すぐにそれではいけないと気が付く。
クリストフにとってここのでのイベントは彼が幸せになるためには、どうしても必要なものだ。そしてその相手は自分ではない。
いや、むしろ自分は彼にとって足かせでしかないことは十分わかっている。
ならば、むしろ――レオノーラは静かにうなずき、差し伸べられた手に自分のそれを重ねる。その瞬間、レオノーラはわずかな違和感を覚えた。
考えてみれば、父や彼以外と踊ったことがなかったのだ。
手のひらの感覚だって違って当たり前だ。
ふいに動きをとめたレオノーラに、ジェレミーは不思議そうにのぞき込む。
「どうかした?」
「……あ、いいえ」
首をふり、それから歩き出す。
ホールに戻ると、すでに音楽が始まり中央では華やかなドレスを身にまとった女性と、そしてそれを優雅にリードする男性の組が楽しげに踊っているのがみえた。
その中に、クリストフとあの少女がいるのがみえ、レオノーラの心がわずかに軋みをあげる。逃げ出してしまいたい。そんな風におもった彼女を、ジェレミーは容赦なくホールの真ん中に引っ張り出す。
曲は明るく弾むようなもので、ステップはレオノーラが知るなかでもなかなかに難易度の高いものだ。
踊りがさほど得意ではないレオノーラは、何度かステップを間違えた。
そのたびにジェレミーが妙な顔をするものだから、とうとうこらえきれなくなったレオノーラは吹き出してしまった。
「ああ、よかった」
複雑なステップをやすやすとこなしながら安堵したようにつぶやいたジェレミーを、レオノーラは不思議そうに見つめる。
「よかった?」
「ああ」
ジェレミーはくるりとレオノーラを回転させる。
銀糸をふんだんにつかったドレスのすそが、会場を照らすランタンの明かりでキラキラと輝く。それはまさに月のやわらかな光そのものだった。
ふわり波打つそれをなんとかさばく彼女に、ジェレミーは目じりを緩める。
「ようやく笑ったな、と思ってさ」
「え? 私、笑っていませんでしたか?」
「いや、笑ってたよ。でも、君らしくない笑い方だった」
「私らしい?」
レオノーラは虚を突かれたように目を丸くする。
「ジェレミー様は、私を前から知っていらしたの?」
「……え、あ、あー」
ジェレミーは一瞬、しまったというような顔をした。
どうやらそれはしゃべるつもりのなかったものだったらしい。それ以上言うかどうか、逡巡した挙句、彼は降参したように話し始めた。
「悪い。なんとなく言いそびれて……」
ジェレミーはほんの少しばかり苦笑いを浮かべる。
「君を見かけたのはずいぶん前だ。君はまだ小さくて……、母君のすそにしがみついていた」
ジェレミーが見たというのは、まだ幼いころの自分だった。
どこかの家に呼ばれて遊びに行ったときに、偶然見かけたそうだ。
そこで一緒に遊んだりしたらしい。
「え! そうだったんですか? だったらもっと早くに言ってくれればよかったのに……」
「君にはクリストフがいたからね。さすがに婚約者殿を差し置いて話しかけるのはさすがに気が引けるよ」
「ジェレミー様でもそのように思われるのですね」
クリストフも顔立ちは整っているが、ジェレミーだって負けてはいない。
明るい髪色に、大きな瞳。はつらつとしたその姿に惹かれる女性は少なくないだろう。
実際、ジェレミーのうわさは何度か耳にしたことがある。人好きのする彼の、その予想外の反応に、レオノーラはまたしてもくすくすと笑う。
その様子をみたジェレミーは、大げさに顔をしかめてみせた。
「君も噂を信じるのか! これほど誠実な男はいないというのに」
「あら、では私が聞いた話はすべて嘘ということなのかしら」
「嘘というか……、ああ、君は予想以上に意地悪だな」
ジェレミーが笑ったその時だ。音楽はひときわ高い音で締めくくられた。周囲からは惜しみない拍手が送られ、レオノーラは安堵したように息を吐いた。
それをみてジェレミーが笑う。
「君とのダンスはやっぱり予想通り楽しかったよ」
「まあ」
レオノーラは軽く眉を上げる。
はたから見ればレオノーラのダンスはとてもではないが、楽しいものではないはずだ。
ステップの間違いは数えきれないこと。足を踏んだのだって一度や二度ではない。
相手がダンスに慣れたジェレミーだったからこそ見れたものになったが、そうでなかったらさんざんな結果だったことだろう。
「だったらもう一曲いかがかしら?」
「え? 本当に? うれしいな」
どうせ世辞だろうと答えたレオノーラに、ジェレミーは予想外の答えを返した。
まさかそう返されるとは思っていなかったレオノーラは、え、とつぶやき、視線をうろつかせる。
同じパートナーで何度も踊るということがどういうことか。
わからないジェレミーではないだろう。
「……じょ、冗談です」
「オレは本気ですよ」
ジェレミーの声がわずかに低くなる。
聞こえないはずのその声は、すでに人の去ったホールではやけに大きく聞こえたようにレオノーラは思った。
思わず顔をあげると、薄暗い中先ほどまでの明るい表情をかき消したジェレミーがまっすぐにレオノーラを見つめている。
「……君が幸せならばと思っていた。けれども、そうでないならオレにも考えが」
「失礼」
ふいに割り込んできた声に、二人ははっとしたように振り返る。
と、そこにいたのはにこやかな笑みを浮かべるクリストフと、その腕にしがみつくクララだった。




