十一話
「……なんなの」
飛び出してきたのは年若い侍女だった。
どうやら誰かが来たことで慌てて迎えにでたのだろう。彼女は目の前に立っていたレオノーラに一瞬驚いた様子だったが、すぐにおろおろと慌てだした。
「お、お嬢様! 今まで一体どこに……ああ、それどころではないわ! 奥様にご報告しなくては!」
「え? お母さま? お母さまがどうかしたの?」
一体何が起きているのか。
レオノーラがいくら訪ねても、侍女の答えはまるで要領を得ない。
ならばと、一番話が分かるだろう執事を探してみると、どうやら彼は急な来客の対応をしているようだった。
「こんな時間に珍しいわね。お父様のお客様かしら?」
レオノーラの父も一応、ロワリエ領を任されている領主のため来客も多い。
大方そういった人の一人だろうと高をくくったレオノーラは、そのまま部屋へと向かいかけた。と、その時だ。
応接室の扉が勢いよく開いた。
「お待ちください!」
聞こえてくる慌てたような声は、ローランドのものだ。どうやら中にいる客ともめているようだった。
階段の手前で立ち止まったレオノーラはふいに声がするほうへと顔を向けた。すると、転がるように飛び出したローランドの脇から声が聞こえた。
「まもなく戻られるかと!」
「もう待てない! 僕が探しに行く」
「ですが!」
そう言いかけたローランドの視線がふいに、階段に足をかけたまま立ち止まるレオノーラをとらえた。
「お嬢様……!」
ローランドはそういった瞬間、しまったというように顔をしかめた。
いつも表情を崩すことのないローランドにしては珍しいことだ。わずかに首をかしげたレオノーラにローランドは叫ぶ。
「お嬢様! すぐにお部屋へお戻りください!」
「え?」
ぽかんとするレオノーラが動く間もなく、ローランドの脇を誰かがすり抜ける。
クリストフだ。
「クリストフ様!? どうしてここに?」
目を丸くするレオノーラに、険しい顔をしたクリストフが近づく。
「どうして? それは僕のセリフだよ、レオノーラ」
「え?」
ぽかんとするレオノーラが、クリストフの肩越しにローランドを見つめる。
どうやらクリストフにずいぶん手を焼いていたのだろう。ひどくつかれきった様子が見て取れた。
一体何があったのだろうか。
クリストフがやってくるという話は聞いていなかったのだが。
「君が」
クリストフの言葉に、レオノーラは視線を戻す。
と、いつもは優し気な色をたたえている瞳が鋭くとがり、レオノーラに向けられていた。
「君が屋敷にいないといわれた」
「……え?」
きょとんとするレオノーラに、クリストフは唸るように吐きだす。
「こんな時間にいないといわれて、私がどれほど心配するか。君は考えなかったのか?」
レオノーラは目をしばたかせる。
「あの……」
「……屋敷の者に聞いても君がどこに行ったのか知らないという。執事もそうだ」
「……まあ」
レオノーラは声を詰まらせる。
侍女たちはともかくとして、ローランドが口を割らなかったのはひとえにレオノーラを思ってのことだろう。
彼女が思い悩んでいる原因が、婚約にまつわるだろうことはおそらく誰の目にも明らかだったのだろう。つまりはクリストフ絡みということだ。
その当事者である彼に、行き先を告げることはできなかったのだろう。
それに、レオノーラにとって神殿は庭のようなもの。一緒にいたルウだって小さいころからの幼なじみで、クリストフが心配することなどこれっぽっちも思いもしなかったのだ。
背後で申し訳なさそうにするローランドにちらりと視線をやり、それからレオノーラはクリストフを見つめる。
「クリストフ様」
レオノーラの声に、クリストフは小さく息を吐く。
それは何かをこらえているようにも、怒っているようにも見えた。いや、それ以上に彼の表情に疲労の色が強くにじんでいるのがわかった。
「クリストフ様。申し訳ありません」
「……どうして」
こらえるように吐きだされた息の向こう。かすかに聞こえた彼の声に、レオノーラはわずかに笑みを浮かべる。
「あの、神殿にいっておりました」
「神殿?」
予想外の言葉だったのだろう。
先ほどまでに怒りも忘れ、クリストフは驚いたように彼女を見つめる。
「こんな時間にどうしてそんな場所に?」
「静かな場所だからです」
「それだけ?」
ルウと同じような反応に、レオノーラはわずかに笑みを浮かべる。
「ええ」
「……だけど、どうしてわざわざそんなところに」
戸惑うようなクリストフの問に、レオノーラは一瞬視線を揺らした。
本当のことなど、言えるわけがない。
クリストフとの婚約をどうやったら無事に、穏便にそして彼の心に何も残さないように消し去ることができるのかなど。
だが、いくら考えても答えはでない。
どうしたって何らかの傷は残る。
こんな風に、ただいないというだけで心配してくれる彼を、傷つけない方法などないのかもしれない。だけど――レオノーラは目を伏せ、頭を下げる。
「クリストフ様、申し訳」
言葉は最後まで紡がれることはなかった。
クリストフの腕が彼女を引き寄せたからだ。頬にあたるクリストフの胸。布越しにもわかる彼の鼓動やぬくもり。そのことが、彼がただのゲームキャラクターなどではないことを、痛いほど物語っていた。
「……本当に心配したんだよ。レオノーラ。本当に」
強く抱きしめられたレオノーラは、ぎゅっと目をつむる。
彼の言葉が嘘ではないことは、抱きしめた腕の強さ。体を包み込む彼のぬくもり。そしてかすかに震える声から痛いほど伝わってきた。
その瞬間、レオノーラはゲームのことも、いずれ出会うであろうヒロインのことも忘れた。そしてわずかにだが、思ってしまったのだ。
この瞬間が永遠に続けばいい、と。
だが、時間というものは常に無情だ。流れる川の水はせき止められるが、時間をとどめることはできない。
それを嫌というほど思い知らされたのは、それから数年たった日のことだった。
時間というものは良くも悪くもいろんなものを薄めていく。
大量の水が、一滴の毒を消し去るように。
変わらない日常が、いろんな記憶を薄めてしまう。
今日と同じ、変わらない日常が明日も明後日も続くと信じてしまうように。
そんな矢先、すべてを打ち砕くような知らせがレオノーラのもとに飛び込んできた。
「お嬢様、お手紙が来ております
「ありがとう」
執事から差し出された手紙を、にこやかに受け取るレオノーラはすっかり年ごろの娘となり、クリストフとの婚約もすでに周囲も知るところとなっていた。
だから、油断していたのかもしれない。
やっぱりこの世界はゲームの世界とは違う。あれは幼い自分が作り出した妄想だと。
だが――差し出された封筒をひらき、便箋を取り出す。そして開いた瞬間、レオノーラは息をのんだ。
「……っ」
染み一つない便箋がレオノーラの指先から零れ落ちる。
「お嬢さま!」
慌てて駆け寄るローランドが、床に落ちた便箋を拾い上げる。
そしてその中身に目を通し、不思議そうにレオノーラを見つめる。
「お嬢様! 何か悪い知らせでも?」
「……いいえ」
便箋を拾い上げた執事に、レオノーラはぎこちなくほほ笑む。便箋を受け取り、視線を落とす。
それはそうだろう。別段、驚くようなものではない。むしろ喜ぶべきものだろう。
何しろ書かれている内容はクリストフが近衛騎士に任命されたというものだからだ。
近衛騎士とは騎士の中でも特に優秀なものが選ばれる。血統が重んじられるこの国において唯一といってもいい、実力主義の集団だ。
婚約者としては喜ぶべき内容だ。
「……やっぱり」
レオノーラの欠けていたピースが、ぱちりとはめ込まれる音が聞こえた。
それはゲーム開始時の記憶だ。
――僕の名前はクリストフ。近衛騎士をしております。
近衛の衣装をまとい、ヒロインに向かって優しくほほ笑む彼を、レオノーラは知っている。
そう、彼はゲームの開始時の職業が近衛騎士だった。




