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銀の糸  作者: 本間 海鳴
8/14

8.落

 イトのスウェット以外の服装を見るのは、初めてだった。午前十時に起きた時には、イトはもう着替えを済ませていた。


「おっそ」

「……そんな服持ってたっけ」

「買うた」


 黒いスキニーと、紺色の無地のシャツ。先日知らない間に抜き取られていた一万円を思い出した。


「はよせえや」

「どこ行くん」

「ええから」


 言われるがままに洗面所で顔を洗った。クローゼットを開けて、半袖か長袖かを少し迷って、長袖を選んだ。まだそこまで暑くはない。


「バターかジャム」


 イトの声がする。聞きなれたトースターの音。そういえば、朝食は一緒に取ったことがなかった。休みの日も、起きる時間は別だった。


「バター」


 答えながら、白いシャツに腕を通した。チェック柄のタイトスカートに手を伸ばす。


 長い時間、同じ家に住んでいたはずだった。それでも、自分はイトのことを何も知らなかった。イトも、私のことを知らなかった。毎朝食パンに何を塗っているかさえ、知らなかった。


 イトの向かいに座ると、イトの前にはイチゴジャムが置かれていた。


「可愛い味覚やな」


 私は言う。


「可愛げのない味覚やな」


 ちらりともこちらを見ず、イトが答えた。


 イトは、珈琲の色が無くなるくらい牛乳を追加した。私は、ブラックのまま飲み干した。


 二人並んで歯を磨き、私はベランダに出て煙草を吸った。イトは煙草を咥えたまま、洗濯物を干していた。


「……手伝えや」

「あんたの仕事やろ。私は仕事休み」


 ぱんっ、と気持ちのいい音が鳴る、午後十一時。イトが家に来た頃よりも、洗濯物の皺は減っていた。


「で、どこ行くん」


 煙草を灰皿に捩じ込んで、私は尋ねた。暖かい風が、うっとおしく伸びた髪で視界を邪魔する。


「花屋」


 イトも灰皿に煙草を押し付けた。


「花屋?」

「ええから黙って着いて来いや。説明めんどくさいねん」


 イトに続いて私もベランダを後にし、五分後にはアパートのドアを開けていた。


 無言のままイトの後ろを着いて歩いた。イトはまるでそうプログラムされたロボットのように淡々と駅に向かい、切符売り場の前で立ち止まった。


「どこ行くん」


 私はもう一度そう尋ねた。イトは、駅の名前を呟く。


「は? 片道二千円もいるやんけ」

「だから昨日一万円くれって言うたんや」


 五千円札を入れたら、機械は二枚の切符を吐き出した。改札を抜け、電車に乗り込み、一時間三十分も揺られた。


 三度目の、どこ行くん、は言えなかった。イトはずっと窓の外を眺めていた。何も話しかけてはいけないような、そんな気がした。同じ家で生活している人には見えなかった。たまたま乗り込んだ電車で、たまたま隣に座った赤の他人のように、私達は一言も言葉を交わさなかった。


 電車を降り、しばらく歩いた先に花屋があった。花屋に入るイトを追いかける。ふわりと香る花の匂い。何年も嗅いだことのなかった、優しい匂いだった。


「あの」


 レジ横で花の整理をしていた店員に、イトが話しかけていた。


「薔薇の花、七本で花束にしてもらえますか」


 初めて聞く、イトの敬語。もう少し言いにくそうにしてくれたら、救われただろうに。かしこまりました、と続ける店員の声は、遥か遠くに聞こえた。


 薔薇の花は高かった。時期によっては安いんですけど、と言いながら、店員は花束をイトに渡した。千円と少しが、薔薇の花七本になった。


 薔薇の花を抱えて、イトは無言で駅に向かった。私もそれを追いかけた。


 切符売り場の前で立ち止まっているイトに声をかける。


「で? どこ行くん」


 イトがぼそぼそと口にした駅名は、家の最寄り駅のさらに向こうだった。


「正反対やないか」

「ええから、はよ」


 くそったれ、と言いながら、私は六千円を入れた。そろそろ二人とも、煙草が必要なのかもしれない。


 電車に乗り、家の最寄り駅を過ぎた。並んで座る男が、大事そうに抱えている薔薇の花束。それは、隣に座る私宛の物ではない。私とイトの姿が、向かいの窓にうっすらと写っていた。誰かがこの光景を見たら、どう思うのだろう。私とイトを、どういう関係だと見るのだろう。一体何人の人が、『飼い主とペット』という正しい答えを導き出すのだろう。隣の男の眼鏡の奥が、見えない。まず、本当に私達は、『飼い主とペット』なのだろうか。


 結局二時間揺られた。時間は午後三時半を過ぎていた。


 イトは、駅を出てすぐの住宅街に入っていった。先程よりも足取りが速かった。イトが一歩足を進める度に、私は二歩足を動かさなければならなくなった。タイトスカートを履いてきた自分を責める。


 入り組んだ住宅街を、どう進んだかもう覚えていない。ある一軒の前で、イトは立ち止まった。


「ここ」


 小さく呟いたイトは、その家の門を開け、つかつかと中に入っていった。どうしたものかと悩んだ挙句、私は門の外の表札を見た。表札には、『三好』と書かれていた。


 玄関のドアの前に立ったイトの背中を見つめる。イトは、インターホンを鳴らさず、持っていた花束をドアの前に置き、そのまま踵を返した。


「え」

「これでええねん」


 古いドアの前に置かれた、赤い七本の薔薇の花。ごく普通の住宅街と、ごく普通の家の中で、その花束は違和感を発していた。


「これでええってどういうことやねん」

「これでええんや。帰る」

「は?」

「用は済んだ」


 ちょっと待てや、と、私は歩き始めたイトを追いかける。タイトスカートが足に絡まって、転びそうになった。危うく体制を整えた時、ふとある物が目に留まった。


 一つ目の角を曲がったところに、小さな花屋があった。来る時はイトに着いて行くのに必死で気づかなかったのだろう。


「ちょ、イト」

「なんやねん。はよ帰るぞ」


 面倒くさそうに振り向くイトの手を、ようやく掴む。


「ここに、花屋あるやんけ」

「だから何や」

「いや、だから、なんであんな遠い花屋まで行く意味あったんや。薔薇の花なんかここで買うたらよかったやんか」


 私が言うと、イトはため息をついた。


「アホか。毎日毎日薔薇の花束ばっかり買うとったら、顔覚えられてまうやろが」


 この辺花屋少ないねん、と、イトは続けた。


「……毎日、薔薇の花束買うて、ここまで来とんのか」

「そうや」


 ぱちぱちと、頭の中で火花が散る。イトが隣を通り過ぎる度に香るローズの香り。飛び散った火花が薔薇に飛び移り、黒く燃やしていく。


「……そのための、お金?」

「そうや」


 毎日無くなる一万円前後のお金。いっそ、ギャンブルに溶かしてくれていた方がよっぽど良かった。


「もう分かったやろ。はよ帰るで」


 イトが私の手を振り払い、歩き始める。ポケットに手を突っ込み、取り出すメビウス。


 いっそ、見知らぬ女でも連れ込んでいてくれた方が嬉しかった。毎日、ただ薔薇の花束を家の前に置くためだけに、イトは私から金を抜き取り、甘い匂いのする花屋に行っていたなんて、知りたくなかった。私が毎日イトの機嫌を伺い、夕飯のメニューを考え、『飛び降り』の練習の日を指で数えていたその間も、イトの頭には私のことなど無かった。片隅にさえ、無かったのだ。


「……なんで」


 静かにそう呟く。


「なんで、わざわざ」


 掠れた声に、イトが迷惑そうに振り向く。


「はよ来い言うてるやろが」

「なんでわざわざ、こんな事」

「どうでもええやろ」

「良くないわ!」


 良くなかった。全然良くなかった。


「……私の金やんけ」


 考えて言った言葉に、可愛げなんて無かった。別に金なんていくらでもくれてやると思っていた。イトが手を差し出す限りは、何十万でも稼いでやるとまで思っていた。それでも、全然良くなかったのだ。


「なんで、こんなとこまで、それだけのために、毎日、毎日」


 壊れたロボットのように、そう繰り返した。納得いく説明など、無いと分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。


「……俺が」


 イトがぽつりと言う。私は顔を上げた。


「俺が、殺した」


 静まり返った、夕陽の綺麗な住宅街に、イトの声がこだました。


「俺が、殺した」


 自分自身が確認するかのように、私に言い聞かせるかのように、イトはもう一度そう言った。清々しい程に優しい風が、頬を撫でた。


 今なら、と私は思った。今なら、怖くない。飛び込む先が水であろうと、岩であろうと、轟々と燃える火の中であろうと、飛び込める気がした。自分の指が、どこに付いているのか分からなくなる。イトの咥えた煙草の煙が、風に吹かれて踊る。


 走り出したいのに、走れなかった。ただ、息を殺して、空気が動き始めるのを待っていた。俯いて煙を吐き出すイトの目から、ぱたぱたと涙が落ちているのに気付くのに時間がかかるほど、私の脳は、考えることを放棄していた。

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