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銀の糸  作者: 本間 海鳴
7/14

7.迷

 起きたのは、午後一時を過ぎた頃だった。スマホの機種変更と番号変更をした帰りに、家の近くのスーパーで求人雑誌を何冊ももらった。この雑誌は、私には縁がない物だと思っていた。適当に見つけた職場で、適当に時間を食い潰し、適当に歳を取るのだと思っていた。


 五年。私が勤めた年数は、そんなもんだった。高校を卒業して、家を出るためにそそくさと見つけた職場は、最悪だったが仕方なかった。辞表も出さずにあの職場を離れるとは思ってもいなかった。きっと私は、仕事中に急に頭がおかしくなって飛び出した変わり者として、あの腐り切った場所で語り継がれることだろう。


 イトは、ソファに寝転んでテレビを見ていた。昨日の深夜にやっていた恋愛ドラマの録画のようだ。


「ただいま」

「腹減った」


 ああそう、と言いながら、手に持っていたスーパーの袋をキッチンに置いた。豚肉を冷凍庫に入れながら、どろりとした昨日の記憶を呼び覚ます。


 生きる、という選択肢を選んだ。死ぬことも、選択できたはずだった。何年も何年も、消しゴムの中の紙を広げる度に思っていた感情を、いとも簡単に手放せた。布団に染みを作りながら、声を殺して叫んだ言葉を、私はいつの間にか発することさえ忘れていた。不思議な男に出会って、不思議な体験をした。月に一度行われる『飛び降り』の練習もこなした。それでも、私は生きることを選んだ。


 微かに潮の香りがした気がした。それが妄想の産物だと分かっていても、鼻の奥がつんと痛くなった。もしも、イトと出会っていなければ。そうすればきっと、私はあの時、綺麗に宙を舞っていただろう。


「なんやこれ」


 イトの声で我に返った。振り向くと、スーパーの袋に無造作に突っ込んだ求人雑誌を引っ張り出すイトがいた。


「次の仕事探さんと」

「まだええやろ。金はあるんやろ」

「一応」


 イトの金遣いの荒さで減ってはいたものの、自分では使い道の無いお金が銀行に貯まっていた。


「けど、何するにも金はいるし」

「まあな。あと、明日一万くれ」

「は? 何するん」

「なんでもええやろ」


 イトは雑誌を持って、ソファに腰を落とした。ぱらぱらと捲り、不機嫌そうな声を出す。


「あんた、そんなに金何に使うねんな。私の金やし、知る権利あるやろ」

「勝手にせえ言うたんはお前やで」

「『私がおらん間は』勝手にせえ、言うたんや。残念ながら、仕事は辞めた」


 買ったものを冷蔵庫にしまい、私もイトの隣に腰を下ろした。机の上の煙草の箱に手を伸ばし、イトの紫色のライターで火をつける。


「あんたも働いたらええやんけ。ほんなら、私にやいやい言われんでも金使い放題やで」


 煙と共にそう吐き出す。イトはしばらく雑誌を捲ったあと、ぱたんと閉じて机の上に放った。ぱすん、というような音が鳴って、その風でティッシュが揺れる。


「……で? 金は何に使っとんのや」


 煙草に手を伸ばすイトを制して、私は問うた。また煙で逃げられては適わない。


 イトは少し私を睨み、眼鏡の位置を中指で直した。頭をかき、ため息をつく。ほんの数分前に吸ったであろう煙草の匂いが、ふわりと鼻を掠める。


「……明日」

「ん?」

「明日出かける。着いてくんのやったら来いや」


 諦めたように言うと、私の咥えた煙草を指で摘んだ。私の吸っていた煙草を今度はイトが咥え、ベランダへ出ていく。


「どこへ」

「来たら分かる。どうせ明日暇になったんやし、来んな言うても来るんやろ」


 生暖かい風が、リビングを通り過ぎる。水色の、色褪せたカーテンの向こうで、細い影が揺れる。


 新しい煙草を出して、また火をつけた。ざわつく心臓を、服の上から押さえ込む。混乱した頭を、煙で絡めて落ち着かせる。吸って吐く、そのことだけに意識を集中させる。


 イトの何かを知ることが、こんなにも怖いとは思わなかった。このまま、いつもと同じ夜が続いて欲しかった。


 煙の向こうに、イトが見える。そのさらに向こうに、また女の人が見える。女の人は手招きをする。やめろ、と言いたいのに、声が出ない。女の人に応じたイトが、一歩前に踏み出す。行くな、と願うのも、聞こえていない。踏み出す足が速くなる。イトの背中が遠くなる。行くな、行くなと何度も叫ぶのに、何も聞こえない。


 窓の閉まる音で、私はリビングに引き戻された。ベランダから戻ってきたイトが、ぺたぺたと歩いている。


「どこ行くんや」

「風呂」


 クローゼットを漁り、タオルを持ったイトが振り向いた。目が合う。


「……何や、一緒に入りたいんか」

「んなわけあるか」


 吐き捨てると、イトはぺたぺたと洗面所に消えていった。残った煙が、螺旋を描いて部屋に溶けて消えた。


 しばらくして聞こえてくる、くぐもったシャワーの音。それが、海の波の音に変わっていく。


 宙に向けて思い切り煙を吐き出した。洗面所の気配に耳を寄せながら、今度は自分に尋ねる。


「本当に、生きるのか?」と。

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