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銀の糸  作者: 本間 海鳴
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6.戻

 仕事を、初めて休んだ。無断欠勤というのは、意外と簡単なものだった。スマホの電源さえ切ってしまえば、怖いものは何も無かった。あんな社員達が、わざわざ残飯処理の家を訪ねてくるはずもなかった。


 イトはソファの上に寝そべっていた。足には包帯がぐるぐるに巻かれている。昨日私が巻いた物だ。そんなに大袈裟にすんなや、と言うイトを押さえ込み、石で切れた足の裏に絆創膏を貼りまくった。剥がれてくんねん、と眉を顰めたので、包帯でぐるぐるにしてやった。私が起きる頃にはゴミ箱の中だろう、と踏んでいたのに、包帯は昨日の夜のままイトの足に絡まっていた。


 冷蔵庫を開けると、イトが起き上がった。


「腹減った」


 ぺたぺたと音を立てて、キッチンに入ってくる。


「私は飯炊きロボットちゃうで」

「知っとるわ」


 イトはシンクで手と顔を無造作に洗った。前髪に付いた水が、イトの鼻筋を伝ってスウェットに落ちた。


「顔を洗ったんやったらどいといてや、邪魔」

「手伝う」


 イトの言葉に私は、は、と間抜けな声を上げた。開いた口が塞がらない、とはこの事だ。


「何がおかしいねん」


 ポケットを探り、イトは煙草を咥えた。火をつけるまでの流れるような動作を見届けて、私は答える。


「昨日頭でも打ったんか」

「阿呆。まだ飛び降りてへんわ」


 どういう風の吹き回しや、と言うと、イトは答えた。


「包帯のお礼や」


 卵を思わず落としそうになる。訳もわからずイトの動きを目で追う。煙草を咥えたイトは、頭をかきながら冷蔵庫を開け、ペットボトルを出して、中身をコップに注いだ。


「……それ、二倍の麺つゆやで」


 左手に煙草、右手でコップの中身を口に流し込むイトに、私はそう声をかける。ぶっ、とイトがシンクに吐き出す麺つゆ。


「はよ言えや!」

「飲むまでの動作が早いねん」

「最悪や」


 腹立たしそうにシンクに流される麺つゆ。勿体ないなあ、と思いながらそれを見送る。


「……卵割って、混ぜて。四つ」


 私が言うと、イトはボウルを素直に受け取り、卵を割り始めた。一つ目の卵の黄身が、潰れた。


 言いたいことは山ほどあった。イトが何を考えているのか知りたかった。イトの過去だって、将来どうなりたいかだって、全部全部知っていたかった。でもそれはきっと、『飼い主』の権利ではない。彼は身勝手なペットで、それ以上では無い。彼の全てを知って、それでもなお添い遂げるのは、『飼い主』では無い。


「イト」

「なんや。黄身が割れんのはしゃあないやろ。俺に上手さを求めんな」


 黄身は四つとも割れていた。入った殻を四苦八苦しながら取り除く細い指を見ながら、私は言う。


「私はな、一人やったんや」


 冷蔵庫からケチャップを取り出す。なんや急に、とイトが答える。


 私は、イトの全てを知ることが出来ない。それは許されたことではない。でも、私に出来ることはある。


「寂しかった。だから死のうと思った」


 イトの指が、小さな殻を捕らえる。


「でももう私は、寂しくない」

「何が言いたいんや」

「お前がおるから」


 ケチャップのひんやりとした感触が、手を伝わってくる。壁にかけた、二分早い時計の秒針が、音を立てている。一秒一秒、確実に刻まれるその音は、止まることがない。


「お前がおるから、もう寂しくない」


 イトが舌打ちをして、煙草を咥えた。煙で目が見えなくなる。


「だからもう」


 深呼吸をした。喉の奥で絡まった言葉を解すように、ゆっくり酸素を吸い込んだ。


「死ぬ必要が無い」


 秒針の音が大きくなった。目の前の宇宙人は、シンクに両手をついて頭を下げた。そのまま煙を長く吐き出す。私はケチャップを握りしめたまま、動けなかった。


 言ってしまった。私は、彼を繋ぐ糸を切る言葉を、言ってしまった。でももう、仕方の無いことだった。本当の事が一番心に響く、とかいうどこかで見た反吐の出るような台詞を、信じるしかなかった。


「私らが死ねんかったのは、弱虫やからじゃない。水が怖かったからでもない。分かってるんやろ?」


 何も言わない宇宙人に、私は問う。都合が悪くなると、煙草に逃げる。自分の吐いた煙で、目を合わせられないようにする。イトを飼い始めて、八ヶ月が経とうとしていた。腹立たしい癖くらい、分かっている。


 イトの咥えた煙草をひったくった。シンクの卵の殻に向かって、投げ捨てる。煙草は、残っていた麺つゆに着地し、消えた。


 イトは何も見ていなかった。薄い眼鏡の奥の瞳。映っているはずのシンクはそこには無い。


「逃げんな」


 私は言う。イトの肩を掴んで、強引にこちらへ向ける。ブラックホールがこちらを向いた。私は、目を逸らさなかった。


 しばらく睨み合いが続いた。こんなにも長い間、目を合わせたのは初めてだった。


 先に目を逸らしたのは、イトだった。床に目を落とし、ポケットの中の煙草を探った。


「……分かっとるわ、逃げとることくらい」


 忌々しげに、イトはそう言った。煙草に火をつけ、乱暴に口に咥える。


「俺のこと知ったように言うなや。腹立つねん」


 やめややめ、と言って、イトはソファへどさりと腰を下ろす。放置された卵が微かに揺れた。


「確かに知らんよ。私はなんも知らん」

「じゃあ何やねん。知らんのやったら言うな」

「知らんから言うとんのやろが。飼い主がペットの心配して何がおかしいねん」


 イトは押し黙った。


「……私は、お前のお願い聞いたったやんか」


 俺のこと飼えへん? 初めて会った時の声が、脳に響く。頭が痛い。昨日ヤケになって飲んだワインのせいだろうか。


「今度は私のお願いも聞いてや」


 ちらりと、暗い目がこちらを見る。先を促すように、煙が揺らめいた。


「私と一緒に、生きてくれへんか」


 一人では、と私は続ける。


「一人では、よぉ生きん」


 落ちて、砕けて、バラバラになるワイングラスのように、情けない言葉も落ちていった。でもそれは、私がこれまで発した言葉の中で、一番強い言葉だった。


 イトはソファに背中を預け、天井に向かって白い濁りを吐き出した。左手で灰皿を引き寄せ、長い人差し指で灰を落とした。私の手の中のケチャップは、もう室温ほどになっていた。


「……何を目指して生きればええ?」


 ぽつりと、イトがそう言った。


「え?」

「なんのために、何をするために生きればええ?」


 私は何度も瞬きをした。その瞬間、宇宙人だったイトが、雨に濡れた子供に見えた。人間味の無かった未確認生物が、同じ人間に見えた。


 私のために、なんて言えなかった。雨に濡れて歩く子供の目には、私は映っていなかった。代わりに映っているのは、見知らぬ女の人。顔はぼやけているが、確かに、綺麗な女の人。ああ、そういえばそうだった。もういない、もう二度と会うことの無い誰かを、こいつはずっと探しているのか。ぐっと唾を飲み込んで、迷うままに声に出す。


「……それを一緒に、探そう」


 無責任な言葉だな、と思った。イトの返事は無かった。私はそっと目を逸らして、泡立て器を取り出した。かちゃかちゃと卵をかき混ぜながら、直前に見た子供の目を思い出す。


 薄い色の眼鏡の奥。そこがほんの少しだけ、水で濡れている気がした。

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