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銀の糸  作者: 本間 海鳴
3/14

3.失

「好きな人が、死んだから」


 たった一言、その言葉が、いつも私を追いかけてきた。晩御飯を食べていても、風呂に入っても、仕事でミスをして怒られている最中も、常に私の頭には、あの不思議な目をした宇宙人とその言葉がぐるぐる回っていた。


「あのねえ、金白さん」


 上司の薄くなった頭頂部が微かに揺れて、私は現実世界に引き戻された。


「はい」

「はいやないでしょ。これもっかい、やり直して。はよ」


 眉間に皺を寄せた禿頭は、先程私が完成させたばかりの書類を突き返した。私は、返事もせずにそれを素直に受け取って、デスクに戻った。お疲れー、と声を上げて、誰かが出ていった。私のことを『押し付け係』と呼んだ彼だろうか。それとも、自分のミスを私のミスに変換して、自分のことはデリートした彼女だろうか。どっちだってよかった。夕方五時のチャイムより長く会社にいることが当たり前だったし、合コンに行きたいと思ったこともなかった。


 時計をちらりと見る。これまでは、チャイムが鳴ろうが陽が落ちようが関係なくパソコンに向かっていた。なのに最近は、やたらと時計の針の進みが遅い。足が揺れる。煙草の煙が欲しい。頭の中で、あの不思議な男が煙草を燻らせている。勢いよく吐き出した煙が、何も無い空間で回っている。視界が真っ白になっていく。ぶんぶんと頭を振ると、白い靄は左右に広がった。でもまた、元の位置に戻り始める。


 パソコンを睨みつける、午後七時。やっと訂正が終わった頃には、それを提出すべき禿頭の姿も見当たらなかった。これも、いつものことだ。禿頭の机に、書類を叩きつけた。ぺしっと気持ちのいい音がした。それと同時に、虚しくなった。きっと家に帰ったら、また甘ったるい匂いがして、煙草をくわえたイトがいて、私はご飯を作って、イトはそれを食べて、私も煙草を吸って、そして寝るんだ。そうしてまた朝が来て、私は仕事に行って、イトはその間、多分、駅前で可愛い女の子にでも声をかけて、並んで歩いて、私の家に入れて。


 がくん、と膝が折れた。意味も分からず、涙が零れた。分からなかった。何のために、生きているんだろう。何のために、私は存在しているんだろう。


 イトの一番になりたかった。心のどこかで、そう思っていた。イトがどんな生活を送ろうと、その生活の中心には必ず私がいて、イトのことを私はたくさん知っていると、そう思っていた。でもそうじゃなかった。イトの世界の中心には、いつも別の誰かがいた。別の誰かがずっといたから、彼は死ぬことを望んだ。私は何も知らなかった。何も知らずに、馬鹿なことを言おうとしていた。あの不思議な、宇宙人のような男を、どうしても自分の物にしたかった。願ってはいけないことを、願ってしまっていた。


 なんとか家にたどり着き、玄関のドアを開ける。ふわりと漂う甘い香りと、スプレー片手にこちらを見るイト。


「おう、おかえり」

「何してんねん」

「見て分かるやろ。あんたがうるさいから匂い消すスプレー買ってきてんで」


 リビングからこちらに向かって、無表情な男がスプレーを放つ。ばん。心臓が撃ち抜かれる。ああ、なんて忠実で、なんて身勝手なペットなんだろう。ヒールを玄関に脱ぎ捨てた。ころん、とドアの前まで転がったけど、気にしない。ストッキングのまま廊下を進んだら、つるんと滑った。尻を打つ直前に、さっき放たれたスプレーが脳裏によぎった。


「なんしてんねん」


 スプレーを床に向けたイトは言った。


「あんたの……」


 あんたのスプレーが、あんたのシュッとしたやつが、よぉ滑るんやんか。そう言いたかったのに、言えなかった。尻を打った衝撃で、涙が出た。


「何や、そんなにケツ痛いんか」


 アホ、と私は言った。痛くなんかないわ。体のどこも、痛くなんかないわ。


「じゃあなんでお前泣いてんねん。仕事で嫌なことでもあったんか」


 変なところだけ鋭くて、変なところだけ優しいペットは言う。私は左右に頭を振る。違う、違わないけど、そうじゃない。


「言いたいことあるんやったら言えや。言わな分からへん」

「その台詞、そっくりそのままあんたに返したるわ!」


 思った以上に大きい声が出て、はっと我に返った。目の奥がすっと乾くのを感じる。正面に座りかけていたイトが身じろいで、中腰のまま止まった。


「……お前、そんなデカい声出せたんか」


 イトはそう言って、座りかけていた足をすっと伸ばした。行ってしまう。直感でそう思った。どこにも行かないで欲しかった。自分だけの物にしたかった。思わず伸ばした手が、イトの履いただらしないスウェットの裾に触れた。イトはリビングのソファに腰を下ろした。私は廊下に座ったまま、イトを見ていた。どこに行っても情けない自分に腹が立った。


「分からんねん」


 イトがぽつりとそう言った。


「分からんねん。お前が何考えてるか」


 イトはテーブルの上の眼鏡をかけて、床に目を落とした。ごうんごうん、と洗濯機の音が鳴っている。珍しいな、と思った。イトが、回してくれたのか。


「言いたいことあるんやったら、言えや。何も分からへん」


 言いたいことは、なんだろう。私は、床に座り込んだまま、髪の毛もボサボサのまま、見るに堪えない格好のまま考えた。言いたいことってなんだろう。私はイトに何をしてほしいんだろう。


「……もし、許されるなら」


 涙と一緒に、言葉が落ちていった。


「もっと違う形で、あんたに会いたかったな」


 次の日、起きるとイトはいなかった。私は泣き腫らした目を、和菓子屋の保冷剤で冷やしながら、二人分の朝御飯を作った。一人分食べて、仕事に行った。家に帰っても、朝御飯は残ったままだった。ソファに膝を抱えて座って、夜中の四時まで起きていた。イトは帰ってこなかった。甘ったるい匂いもしなかったし、イトの脱ぎ散らかしたスウェットも落ちていないのに、私は泣いた。


 糸で繋がれていたのは、私だった。ずっと繋いでいたいと思ったのに、ぷつんと切れてしまった。繋いでおきたかったのに、繋いでおけなかった。それほど私たちの関係は、細くて、弱くて、不安定だったのだ。

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