14.結
季節は秋を過ぎ、冬になり、それも終わりを告げようとしていた。イトが出て行ってからもう既に半年が経ち、イトと出会ってからは丸二年が経った。
私はコンビニの深夜バイトを週に六日こなしながら、昼間は勉強するという生活を送っていた。高校時代ほぼ勉強らしい勉強をしなかったこともあり、かなり苦戦していた。ただでさえ難しい法律用語を、誰にも教わらず独学で学ぼうとしているのだから当然である。正直、あまり捗ってはいない。
時計は、午後五時になっていた。私は、週に一度の休みを勉強に費やしていた。インターネットと問題集を閉じて、私はベランダに出た。メビウスの箱を開け、火をつける。煙が漂う。雲と煙の境目が曖昧になる。傾いた太陽が、静かにビルの向こう側へ隠れていく。長く伸びた影が、夜に紛れて消える。
何度目かに吐き出した煙を見送って、私は窓に体を預けた。ぼんやりと、この場所に確かにいたはずの男を思い出す。いなくなってもなお、その男は私の頭の中に住み続けていた。逃げ出そうとする度に、腹立たしい顔でこちらを見る。そうして微かに鼻で笑う。別に思い出したくてそうしている訳ではないのに、陽炎のように揺れながら、彼は私の脳の中で煙草の煙を吐き出す。そうして私の思考を、白く絡め取る。
『俺のこと飼えへん?』
砕ける波を背にして、暗い目をした男は言った。何度も何度も、そう言った彼の思考を読み解こうとしたのに、出来なかった。どうしてそんな事を言ったのだろう。
もう一度、燃える毒薬を口に咥える。白く絡まってしまった思考を解くように、ゆっくりと息を吐き出す。
二度と交わることの無い彼の人生を、もうここにはいない彼の顔を、何度も何度も思い出してしまう。頭を掻きむしる。髪の毛が指に絡まった。
息をもう一度吐き出し、私はベランダの灰皿に煙草をねじ入れた。部屋に戻り、シンクで水を飲む。ふと目に付いた排水溝に、卵の殻が見える。それから、麺つゆ。
「ええ加減にせえよ!」
思い切りコップを排水溝向かって投げつけた。割れた。必ず割れてしまう卵の黄身。必ず傷つけてしまっては後悔する、そして逆に怒り始める。
この家で生きていくこと自体が、あの男に支配されてしまっていた。何を見ても、何を食べても、何をしても、そこには必ず破片が落ちているのだ。いつの間にか変わってしまった煙草の銘柄も、咄嗟に選ぶ使い捨てライターの色も、全て彼のせいだった。
時間が午後十時になっても、この気持ちが晴れることはなかった。どうしようもない気持ちに追い立てられて、私は家を飛び出した。
電車に揺られて、一駅。そこに、全ての原点があった。
そこに行けば、気が晴れると思った。そこに行けば、全て解決すると思った。
出会った時の気まずさは、言葉では言い表せないものだった。例えるなら、友達が紹介してくれた彼氏が自分の元彼だった時のような、入口専用の自動ドアから出ようとした人とすれ違う時のような、なんとも言えない気まずさがそこにはあった。
「……なんでおんの」
「それこっちの台詞やろ」
呆れたように眉を顰めたその男の目は、深海だった。岩の上に胡座をかいて座っていた。きちんと靴を履いて、座っていた。
「……久しぶり」
沈黙が怖くて、そう言った。イトは、まあ座れというように自分の隣を叩いた。言われるがままに腰を下ろした。冷たかった。
長い長い沈黙のあと、イトは口を開いた。
「俺な」
「うん」
「結婚すんねん」
びゅう、と風が吹いた。髪の毛が鼻をくすぐった。隣に座る男と同じ匂いのする、髪の毛。
言われたことが理解出来ず、返事が出来なかった。打ち上げられた魚のように、口を開けては閉じた。掠れた過呼吸のような息が、喉から漏れた。
「……結婚詐欺とかやないことを祈っとけや」
必死に理解しようとした上で出た言葉がそれだったのは、本当に悔しかった。こんな可愛くないペットのことで動揺している自分に腹が立った。可愛くない答えを返した自分にも腹が立った。そんなに悔しいなら、泣き喚けばいいのだ。泣いて、彼の足にすがり付いて、お願いだから行かないでと、見苦しく叫べばいいのだ。あの日私がスプレーで滑って尻を打った時のように。もう一度、出会いからやり直したいなんて、負け犬の遠吠えを響かせればいいのだ。
じんわりと鼻の奥に痛みが生じ始めた時、隣の男は呑気に答えた。
「どうもそうらしいわ」
ようやく飲み込みかけた何かが、また吐き戻された。
「……は?」
「結婚詐欺やわ、多分」
訳が分からず目を泳がせる。海に飛び込んで、一度頭を冷やした方がいいかもしれない、などと考えている私の目の前に、イトが手を差し出した。
「何やねん」
恐る恐る目を凝らす。左手の薬指。光る細い輪。
「指輪が何やねん」
「デザインしたんやとさ」
「誰が」
「彼女? が」
少し語尾の上がった『彼女』が、違和感を増長させていた。よくよく見ると、結婚指輪らしからぬ装飾がされている。派手であまりセンスがいいとは思えない、イトの白い指に突き刺さりそうなほどの宝石の数。
「……なんで?」
思わずそう聞く。何が何なのか、一体自分は何を聞きたいのかも定かではない中で、イトは長い長い二酸化炭素を吐き出す。
「あまりに下手で」
「え?」
「あまりに下手やったから」
波が岩にぶつかる音に、イトがゆっくりと目を向ける。そのイトの横顔を、眺める。
「必死に腕掴まれて、こいつ俺が断ったらどうなるんやろって」
そう呟くイトは、その男は、やっぱりどこからどう見ても宇宙人だった。こんな宇宙人になら、地球が滅ぼされても仕方がない気がした。
「どうにかなってまうんやろうなって」
ポケットから覗く薄い眼鏡。銀縁の、触れたら切れそうな眼鏡。
「もうすぐ、一文無しや」
イトは、笑った。驚くほど綺麗な、お手本のように優しい笑顔だった。月明かりがイトの鼻筋を照らして、顎まで流れ落ちていた。
「……そうか」
私も、笑った。腰を下ろした岩に目を向けて、違う理由で痛み出した目頭を押さえた。肩が震えた。湧き上がる感情が溢れてしまわないように、しっかりと膝を抱えた。
「まああれや」
イトが息を吸う音がする。潮の香り。きっと同じ匂いを、イトは吸い込んだはずだ。
「もうちょいしたら、お買い得」
きっとそうだ。きっと私も、この男も、繋いでおかないといけないのだ。自分が生きるために、誰かを繋ぐのだ。自分が生きていくために、切れそうで切れない何かを繋いでおくために、誰かのためという言葉で結んでおくのだ。
「……分かった」
私はそう言って、立ち上がった。
「今度は、料理は当番制やぞ」
下を向いて鼻を鳴らしたイトに背を向け、私は歩き出した。もう少しだけ、私は生きるのだろう。きっと、彼も。飛び込むのをやめた誰かの、居場所のために。
ここまでお付き合い下さり、本当に本当にありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたら、それだけでとても嬉しいです。いつか誰かの心を動かせるような小説を書けるように、これからも頑張りたいと思います。
小学生の作文のようなあとがきで申し訳ありません。本当にありがとうございました。




