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銀の糸  作者: 本間 海鳴
12/14

12.別

 コンビニの深夜バイトの面接は、拍子抜けするほどあっさり受かった。小さい会社ではあったが、五年勤めていたのがよかったのだろう。コンビニのオーナーは、あまり私と目を合わさないまま、来週から来ていいよと呟いた。


 そうして、本格的にイトと顔を合わすことが減った。私が帰宅する時、起きてくるイトと少し挨拶を交わすくらいだった。イトのバイトのシフトは、昼から夜にかけてが多かった。家の灰皿に溜まった煙草をゴミ箱に捨てる時、私の吸わない銘柄が転がるのが、イトを把握する手段になっていた。


 嫌な予感はしていた。それでも、それに気付かない振りをしていた。イトがスクランブルエッグを作れるようになったのも、少しずつ珈琲の種類に詳しくなったのも、気付かない振りをしていた。たまにシンクに転がっている卵の殻も、見たことの無い名前の珈琲豆も、見ない振りをした。


 イトが私の家に来て、一年と、五ヶ月が経った。深夜バイトを終えて家に帰ると、イトが既に起きていた。ソファの前で、玄関の方を向いて、正座していた。


「……何してんの」

「言わなあかん事があって」


 ああそうなん、と言いながら、私は上着を脱いだ。


「それはええけど、なんで正座なん」


 気色悪い、と鼻で笑ったのは、イトがそれを言うのを少しでも引き延ばすためにだった。


「……大事な話は真面目にせんとあかんって、店長が」

「何プライベートなこと店長に相談しとんねん」


 やめえや恥ずかしい、と言ったのも、同じ理由だった。そんな事をしたって、時間は過ぎるし運命の時はやってくる。それくらい分かっていた。でも分からない振りをした。たとえ少しでもそれを聞く時間が延びるなら、馬鹿の振りくらいいくらでもやってのけた。


「……今まで、ありがとうございました」


 イトは頭を下げた。ゆっくりゆっくり、頭を下げた。変なところは真面目で、変なところは優しい私のペットは、頭を下げた。床におでこが付くくらい、深く深く頭を下げた。


「……そろそろ、出て行こうと思う」


 ふうん、と返事をした。ポケットの煙草を探った。箱を叩いたら、中身が空だった。


「勝手にしたらええがな」


 誰がどう聞いても強がりと分かる、情けない返事だった。イトの下げた頭を、ただ見ていた。もう頭を上げろ、と言うのも忘れて、ただ見ていた。


「……分かった」


 しばらく後、イトは顔を上げて、クローゼットを開けた。


 イトの持ち物が、増えていた。服も、靴も、ライターも、歯ブラシも、食器も、掛け布団も、スリッパ、シャンプー、合鍵、スマホ、眼鏡、ハンカチ、タオル、髭剃り、枕、腕時計。


「知っとったよ」


 私は言う。


「知っとったよ。スクランブルエッグ作れるようになってんやろ」


 言いながら、煙草を探す。確かに買い置きがあったはずなのに、どこにも無い。


「……知っとったんか」

「私のおらん間、夜な夜な練習しとったんやろ」


 イトは、クローゼットから取り出した鞄に、自分の物を詰め込んだ。


「練習した。まだあんま美味ないけど」

「そんな簡単に美味なる訳ないやろ」


 テレビの横の引き出しを開けたら、そこには見覚えのない通帳。長谷川、慶斗。一年も一緒に住んでいたのに、初めて見る文字列。呼んだことの無い、彼の名前。


「これも忘れんと持って行きや」


 通帳と印鑑を、イトに手渡す。ん、と小さな返事の後、私の手から離れる通帳。指の先にかすかに残った、硬い紙の感触。


「……三好さんに、会ってきた」


 荷造りをしながら、イトがぽつんとそう言った。


「え?」

「……初めて、お母さんって呼んできた」


 イトが取り落としたライターが、フローリングで音を立てた。くるくると回りながら、私の足元まで滑ってくる。


「これからは、俺が息子になる」


 拾おうとして伸ばした私の手が、イトの手に触れた。イトの手にしっかりと握られた、紫色のライター。安っぽい、オイルが透けて見えるライター。私だったら絶対に選ばないライター。


「……そうか」


 拾おうと伸ばした手の行き場が無くて、何故か床をそっと撫でた。


 着々と進むイトの荷造りを眺める。一年と五ヶ月の歳月は、たった一つの鞄に収まってしまった。掛け布団と何着かの服は、さすがに入り切らずにもう一度クローゼットの中に戻された。


「……行く宛はあんの?」


 荷造りが終わった相手に言う台詞ではないと分かっていた。それでも、そう聞いていた。飼い主として出来る最善のことだと、身勝手に信じていたのかもしれない。


「まあ」


 イトは答えた。鞄のファスナーが、甲高いレースカーのような音を立てて閉まった。


「そう」


 深くは聞かなかった。聞かないでいたいと思った。軽々しく問い詰めて、新しい飼い主とでも答えられるのが怖かった。たとえそうでなかったとしても、私にはイトの新たな門出を盛大に祝える勇気が無かった。


 深呼吸をした。イトの匂いがした。薔薇でもなく、珈琲でもなく、煙草でもなく、イトの匂いがした。ここに今まだ確かに存在している、今私の家に居るこの不思議な男の、彼氏でも家族でもないこの男の匂いが、鼻を突き抜けていった。


 銀の糸。今にも切れそうな、細い糸。何度も切れかけたのに切れなかった、歪んだ糸。イトの首に巻き付けていた、銀の糸。苦しかったかなんて聞けない、銀の糸。


 深海のような目が、私の目を刺す。首に巻きついた糸に、手を伸ばす。白い肌に残った、赤い跡。私の指が、それを解く。


「……ありがとうございました」


 敬語なんて聞きたくなかった。目の前にそびえ立ったその壁は、もう壊せない。


「こちらこそ」


 私も頭を下げた。意外にも、涙は出なかった。


「これからは」


 イトが呟く。


「自分のために」


 それは、自分自身に言い聞かせたのか、私に向けられた言葉だったのか、最後まで分からなかった。鞄を持ったイトが、私の家のドアを閉めるとき、もう一度頭を下げた。


 自分のために。私も呟く。これからは、自分のために。誰かに振り回されず、ただ自分のために生きる。出来るだろうか。そんなことが、出来るんだろうか。


 ドアが閉まってから五分ほど経って、ようやく私の耳に、ドアの閉まる音が鳴り響いた。それから、階段を降りていく音。いつものように、聞きなれた足音。左の足を少しアスファルトに擦りながら歩く足音。もう聞こえない。きっともう聞くことは無い。幻だったのかもしれない。それか本当に、宇宙人だったのかもしれない。


 もう一度、深呼吸をした。ふわりと、薄い眼鏡の男の匂いがした。

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