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銀の糸  作者: 本間 海鳴
10/14

10.彼

 イトは朝八時に出て行った。きちんと花を届けてからバイトに向かわなければならないからと、昨日は十一時にソファで眠っていた。イトの温もりはとっくに消えたソファの上に、きちんと端を揃えて畳んだ洗濯物が置いてあった。


 金を貯めようと思う、と、昨日の夜イトは突然呟いた。もうお前の財布からは金は取らん、花を買う金は自分でなんとかする。ただし今月いっぱいは給料が無いから、金を貸してくれ。借りたら必ず返す。今までの分は覚えてないから返せんが、今月分に関しては耳を揃えて返す。


 突然そんなことを言い始めたのに心当たりはあった。私が苦し紛れに言った、『私の金なんだから、知る権利はあるだろう』というあの言葉のせいだろう。誰かの世話になるということは、そいつに繋がれたままになるということを、彼はその時悟ったに違いなかった。


 ソファに腰を下ろしたら、積んであった洗濯物が雪崩を起こした。私の靴下が転がってくる。


 イトは、バイト先の場所を教えてはくれなかった。カフェ、とだけ呟いて、あとは黙秘を貫いた。別に見に行かんわ、と言いたかったが、言わなかった。それは嘘になるに決まっていた。きっと私は、カフェの前を通るだろう。イトの働く姿を、ちらりと目の端で捉えるだろう。店に入ることはせず、ただ注文を取るイトの手元を眺めるだけだろう。高嶋も私も一緒だ、と思った。きっと誰もがそうなのだ。狡くて、臆病で、弱虫なのだ。


 トーストの屑の残った皿をシンクに置いた時、さっき雪崩が起きた時に床に落ちたシャツが目に入った。紺色の、イトの薄さが際立つシャツ。イトが静かに流した涙が染みを作った、薄いシャツ。


『俺が、殺した』


 あの日、不穏な台詞を吐いたイトを無言で見つめるしかなかった。台詞の背後の気持ち以上に、私はイトのその姿に見とれていた。夕陽を背にして頭を垂れ、煙の向こう側で涙を流すイトのことを、誰よりも美しいと思ってしまった。私のことなど眼中に無く、私と居たとしても他の人のことを考え続けるイトを、美しいと思ってしまった。


 私はジャージを脱ぎ捨てて、半袖のニットに腕を通した。スマホと財布だけを持って、家を出た。切符売り場で、二千円の切符を一枚買った。


 一定のリズムで揺れる電車の中で、私は何をしてるんだろうと頭を抱えた。イトの呟いた駅名を目指して、一体何になるというのだろう。私はそこへ行って、一体何をしようというのだろう。一体、何を知ろうというのだろう。


---


 住宅街に入ったはいいものの、どこをどう曲がったらあの家に着くのかは覚えていなかった。適当に右に曲がり、左に曲がりを繰り返し、先日イトと歩いた距離の倍ほど歩き回った。


 認めたくはなかった。でももう、認めるしかなかった。『よく分からない』という言葉で押し込めていたが、本当はよく分かっていた。多分私は、『飼い主』以上の感情を持っている。


 三十分ほど歩いて、ようやく見覚えのある花屋を見つけた。花屋の奥に咲く薔薇の花を無意識に目で追いながら、角を曲がる。


 なぜ自分を追い詰めるようなことをするのかと、自分を責める。願ってはいけないと言い聞かせながらも、足は止まらない。イトの過去など知って何になるのだろう。でも、自分以外の誰かが、自分の知らないイトを知っているとすれば。


『三好』と書かれた表札の前に立った。ドアの前には、まだ綺麗な薔薇の花束が置かれていた。インターホンを鳴らすために手を伸ばす。岩のように硬ければいいのに、と願っても、それは何の抵抗も無くかちりと押し込まれてしまった。微かに家の中で、インターホンが鳴る音がする。


 一秒、二秒。


 静かに流れる時間が、間抜けに過ぎていった。そうだ。家に必ず人がいる訳ではないのだ。開かないドアを眺める女ほど、滑稽な物はないだろう。それに、家の人がもし出てきたとしても、一体自分の素性をなんと説明するつもりなのだろう。全くの無計画でここまで来てしまったことに、ようやく気付いた。とんだ大バカ野郎だ。


 インターホンを押した、やり場のないその手を、ジーンズで意味も無く擦った。さあ帰るか、と半笑いで踵を返そうとした時だった。


「あの」


 後ろから声がした。顔から笑顔は消え、代わりに恐れが飛んできた。


「うちになんか用事ですか?」


 五十代半ば位の女性が、私の顔を覗き込むように首を傾げていた。手には、スーパーの袋があった。


「あ、えっと」


 混乱した頭が、世界で一番怪しく聞こえる言葉を発する命令を出す。女性は軽く眉間に皺を寄せた。必死で次の言葉を考えている私の視界に、ドアの前の花束がちらりと写った。


「あの、あれ」


 まだ怪しげな言葉を発しながら、私は花束を指さした。女性が家を覗くように上半身を屈める。


「ああ、あれねえ」


 女性は困ったように眉を下げた。優しげな表情だった。


「いつも置いてくれとるんですよ。気になりましたか?」


 語尾の少し伸びた柔らかな話し方で、女性は言った。スーパーの袋を腕に通し、ドアの前の花束を両手で抱えあげた。


「あの、その花束」


 私は言う。女性がこちらを見る。


「その花束の送り主って、ご存知なんですか」

「ええ、もちろん知っとる人ですよ」

「あの、その」


 私が切羽詰まった顔でもしていたのだろう。女性はまた私に向き直り、微笑みかけた。


「その、イトという人を、ご存知ですか」


 ようやく言葉を紡ぎ出すと、女性ははっとした顔になった。


「長谷川君を、知ってるの?」


 ハセガワ、と私は呟いた。


「長谷川、けいと君。ご存知なの?」


 ハセガワケイト。それは、あまりにも聞き慣れない、でも確かに彼の名前だった。宇宙人のような彼の、本当の名前だった。なぜか、血の気が引いた。


「そんな、名前なんですか」


 やっとのことで、それだけ絞り出した。何かが込み上げてくるのを、抑え込むのに苦労した。


「貴方は、長谷川君とどういうご関係なん?」


 女性が言う。えっと、とだけ言って、その次は出てこなかった。どういう、ご関係なのだろう。


「彼女さんとか?」


 いえ、違います。私は即答した。即答した後、泣きたくなった。


「あの……こういうと失礼なんかもしれんのやけども」


 女性は、申し訳無さそうに眉を下げた。


「もしかして、『今の飼い主』さん?」


 全身に、鳥肌が立った。鉄パイプで頭を殴られたらこんな感じなのだろうかと、関係無いことを考えた。確かに目の前に女性がいるのに、私の周りには誰もいなくなった。確かに住宅街の中に立っているのに、私の周りは真っ白になった。


 否定も肯定もできない私を見た女性は、家のドアを開けた。


「……ちょっと私のお話、聞いてくれんかな?」


 優しい声に釣られて、ふわりと香る薔薇の香りに釣られて、私は一歩門の中に足を踏み入れていた。


---


 女性の出してくれたアイスティは、砂漠に成り果てた私の喉に染み渡った。ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに、私と女性は座った。


 薔薇の花束の行方を、嫌でも目で追ってしまった。リビングの隅に、花束は置かれた。昨日の花束であろう物も、一昨日の物であろう物も、その一角にあった。一つの写真立ての周りを埋め尽くすように、真っ赤な薔薇は置かれていた。


「……三好ゆい、言うんです。結ぶと書いて、結です」


 写真を眺めていた私に、女性が言った。結さん、と私は呟いた。ロングヘアの良く似合う、活発そうな女の人の顔が、木の写真立てに入っていた。弾けるような、オレンジサイダーのような笑顔だった。


「よぉ犬とか猫を拾てくる子っていてるでしょう。結もそうやったんです」


 女性は目を細めてそう言った。女性-三好さんはどうやら結さんの母親のようだった。


「でもまさか、人を拾てくるとは思わんでしょう」


 ふふふと、上品な笑い声。


「学校も行かんとうろうろしとった、がりがりに痩せた子がおったから連れてきたって言うんですよ。驚きましてねえ」


 はぁ、と私は、なんとも言えない返事をした。自分の知っている人の話とは思えなかった。


「長谷川君、親御さんがあんまりええ世話しとらんかったみたいでね。私の作ったご飯を美味い美味いって食べるもんやから、私も結も情が移ってもうて」


 三好さんは、頬に手を当てて言った。私は目の前で汗をかいているアイスティを一口飲んだ。あまり味がしなかった。


「でも、一応親御さんとこにお説教しには行ったんですよ、私。ほんなら、そんなん産んだ覚えはないから勝手にしろって。ほんなら好きにさしてもらいます、って結が怒鳴り散らして、長谷川君はうちに来たんです。結が二十八で、長谷川君は十六でしたっけね」


 そんなに、若い時から。私は呟く。


「そうなんですよ。でも、結も恩を着せたく無かったんでしょうね。あんたは私が勝手に拾ってきたペットやから、やりたいことやってこい。私はあんたの姉じゃない、飼い主や、って言うて。それで、本名じゃなくて、『イト』って名前を付けて呼んでたみたいです。糸みたいに細いからって」


 三好さんはそこまで楽しそうに話したあと、ふっと目を机に落とした。


「……長谷川君は、元気ですか」


 きっちり閉めていない蛇口から出る、一滴の水のように、今にも壊れそうな声で三好さんは呟いた。


「……はい」


 私の声も、壊れそうなほど小さい声だった。三好さんは、悲しそうに笑った。


「そうですか。そらよかった……でも、長谷川君のことやし、『俺が殺した』とでも言うてませんか」


 思わず目を上げた。悲しそうな三好さんの目と、私の目が合う。


「……そうですか。やっぱり言うてますか」


 少し、語尾が震えていた。私は、二日酔いの朝みたいな声で、はい、と呟いた。


「そうでしょうね。長谷川君、ぶっきらぼうに見えて、根は優しいええ子ですからねえ」


 ハセガワ君。私の知らない、イトの顔。それを知っている、目の前の婦人と、写真立ての中の女の人。


「あの、イトは……ハセガワ君は、どうしてそんな事、言うんでしょうか」


 慣れない名前で、イトを呼んだ。


「長谷川君は何も悪くないんやけどねえ」


 三好さんは、ため息混じりにそう言った。少しだけ、テーブルの上の手が震えていた。


「……結にはその時、付き合ってる男性がいましてね。結婚するかもしれんと言うてたんです。長谷川君も賛成するような、ええ人やったんですけど」


 そこで三好さんは、言葉を切った。心を落ち着かせるように、深呼吸をする。


「結が、やっぱりこの人とは結婚出来んと言い出したんです。相手の方が、どうも他の方とも付き合ったりしとったみたいでねえ。そうしたらその人、自分が悪いのに結に怒って、その怒りが長谷川君に向いてしもたんです」


 からんと、アイスティの氷がぐらついた。


「結は、長谷川君を守ろうとして、自分が刺されてしもたんです」


 三好さんの唇が、歪んだ。ふうとため息をつきながらも、心の混乱は収まらないようだった。


「……すみません、何も知らんと辛いこと思い出させてしもて」

「ええんですよ。長谷川君を知ってる人に、私が話したかったんです」


 やんわりと三好さんが笑う。疲れ切ったような、そんな顔だった。


「結が、三十になった頃でしたねえ。なので、長谷川君は十八の頃ですか。もうそんなに経つんですねえ」


 写真立ての女の人は、笑っている。とても綺麗な、弾けるような笑顔で。


「そっから、お金を貯めて、十九で長谷川君はうちから出ていきました。そっから四年間、毎日薔薇の花束が置かれとるんです」


 四年間、毎日。思わず聞き返した私に、三好さんはゆっくりと頷いた。


「毎日。欠かしたことはないんです。私がスーパーのパートに行ってる間に来て、私が帰ってくる前にはもう帰ってしもてるんです。多分、会ったら私が泣いてしまうのを知っとるから」


 困ったもんやね、涙脆いのは。三好さんはそう言って、人差し指で目尻を拭った。


 私は、気の遠くなるような年月を遡っていた。私が、何の目標も無く、ただ使い捨てられるために働いてきた四年間。イトはただ一人の人のために、生きてきたのだ。


「長谷川君は、元気ですか。それを聞けただけで、嬉しいです」


 三好さんはそう言って頭を下げた。


「いや、あの、そんな」

「貴方みたいな人がおったら、安心やねえ」


 そんなこと、ないです。強い否定の言葉は、出なかった。


「ほんなら、長谷川君に伝えてくれますか」


 三好さんが私の目をじっと見た。綺麗な瞳だった。


「もう、十分、愛してくれたと」


 真っ白い頭の中に、その言葉がぽつんと入ってくる。


「もう十分、結を愛してくれました。だからもう、そろそろ、結のことなど忘れて自分のために生きてくださいと」


 入ってきた言葉が、頭の中をオレンジ色に染めていく。結さんの色だ、と思った。


「どうか必ず、そう伝えてください。いつまでも、うちに縛られたままじゃ、幸せになれんので」


 三好さんははっきりと、でも少し寂しそうな顔でそう言った。イトはそんなに聞き分けのいい奴じゃない、と言い返したかったのに、言い返せなかった。


「……必ず、伝えます」


 三好さんに頭を下げ、帰り際にもう一度写真立てと薔薇を見た。


「……ええ顔しとるでしょう」


 三好さんの問いかけに、私は頷いた。真夏に咲く向日葵のような、夏祭りのあとに咲く花火のような、そんな顔だった。


「これね、ほんまはツーショットの写真やったんですよ」


 三好さんはまた上品に、ふふふと笑った。


「ほんまは隣に、長谷川君がおるんです」


 三好さんと別れ、一人で電車に乗った。何も考えられなかった。考えたいことは山ほどあったのに、何も考えられなかった。じわりと滲む視界の意味も、私は理解できなかった。

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