36.
レストランバーの二階……個室に一人でグラスを傾けていると、静かにドアが開いた。
「すまん…遅くなった」
深く被った帽子を取ると、艶やかに波打つ黒髪が現れる。いよいよ美しさに磨きが掛かってきたバレーナ王女だ。
「こっちこそ悪いな、先に始めている」
挨拶がわりにアケミはグラスを揺らす。
その後マスターがやってきてもう一つグラスを用意し、二人は乾杯した。
二人きりの部屋でしばらく黙って酒を飲み続ける。今日のは少し度数が高い。喉をじわりと焼くワインを嚥下する音が聞こえる……。三杯目を空にしたところで、バレーナはほう、と息を吐いた。
「呼び出しておいてすまんな……ようやく時間が取れた」
「相変わらず大変だな。ロナから話は聞いているが」
「本当に助かっているぞ。今更だがよく紹介してくれた。それに隊のみんなも頑張ってくれている」
「そうか? まだまだ足手纏いだろうが、いざという時に役立つ奴らだ。困ったときは何でも言ってみるといい」
「そうだな……もう少しきっちり話ができる時間が取れればいいのだが。お前の方はどうだ? 前に言っていた………付き合ってる人とは上手くやっているのか」
尋ねられると少々気まずい………バレーナは気付いてなかったかもしれないが、前は意地の悪いことを言ってしまった…。
「ああ、まあ………ここ一ヶ月会ってないが」
「一ヶ月も!?」
バレーナが目を丸くした。バレーナが感情をはっきり声に出すのは珍しい……もう酒が回っているのか?
「マザロウから戻って二週間経つだろう? あ……まさか、娼館を襲った事件がきっかけで…」
「別れてないし喧嘩もしてないぞ!? 未だに素直に付き合ってると認めてくれないけど……っていうか、ライラさんが誘拐されたときはありがとな……お前が助けを寄越してくれなかったら………正直、今でも背筋が凍る。本当に助かった、礼を言う…」
「よせよせ、頭を上げろ、お前までそんな他人行儀になるな……そんなことを言いだしたらそもそも彼女たちはお前が集めた人員だろう、私の方が頭を下げるべきだ」
「…わかった。いいぞ、王女殿下。存分に下げろ」
「…調子に乗るな!」
二人してケラケラ笑う……少しホッとした。
「やはりお前といると楽でいい……少し前までは気安く接してくれた者たちも、今は一歩引いて構えてしまう……」
「それはそうだ。あたしが身の程知らずなだけだからな」
「フッ…」
小さく笑うが、バレーナは急速に意気消沈していく…。
「……お前が男ならよかった」
「は?」
「いや………なんでもない…」
「…………」
なんとなくわかった。王になる結婚相手のことで悩んでいるのだろう。詳しくは聞いていないが、水面下では誰を王にするかの駆け引き、勢力争いが続いているはず……バレーナの意思を無視して、だ。
「……あたしが男だったら、子供の時にお前の腕を折った時点で極刑だぞ」
「そこまではないだろう、さすがに」
「だが、剣は持たせてもらえなかったかもしれない」
「……だとしても、そんな強さのお前に惚れていたかもしれんな」
「そこが男に求めるポイントなのか? だとしたらお前の相手はかなり限られる」
「いっそ、それで相手を決めるのもいいかもしれん」
「『かもしれない話』が、段々冗談には聞こえなくなってきたぞ…。心配せずともいい相手は見つかるさ」
「………アケミ」
「ん?」
「私はお前がうらやましい」
「―――……」
テーブルの上に突っ伏したバレーナは寂しげに視線を落とす。
「…何が羨ましい?」
「お前はどこにでも行けて、求めるままに強くなり、知己を得て、どんどん魅力的になっていく…。ロナもマユラも、みんなお前から借り受けているに過ぎん……」
「皆お前に忠誠を誓っている。お前の力になりたいから集まったんだ。魅力で言えばお前に勝てる奴などいないだろ」
「………」
「お前のことを見ている人間は、皆お前に惹かれている………だから『アルタナ』にも姉のように慕われているのだろう?」
ピクン…と、グラスを持つ手が震えたのが見えた。
「……なぜアルタナが出てくる…」
「最近自慢しないと思ってな。王政の引き継ぎ、そしてヴァルメア様の喪が明けるまでは国家間の行事もなし、しばらく会えていないだろうが………次会うのは戴冠式だろう? カッコイイところを見せなくてどうする?」
「……そうか……確かにそうだ。アルタナに情けない姿は見せられんな」
「そうだろう? ましてここには妹に慕われない悪い見本があるんだ、含蓄があるだろう」
「ああ、心に染みた」
「多少は否定しろよ…」
「ハハハ…!」
バレーナは少し元気を取り戻した、が……
バレーナの求める相手がアルタナかもしれないと知っていながら……あたしは酷い女だ。
「アケミ……やはりお前は私にとってかけがえのない友だ。甘えるわけではないが、これからも側にいてほしい……」
「…………」
「アケミ…?」
「…そのことなんだがな………」
飲みきっていないグラスにバレーナの不安げな瞳が映る……。
部屋の隅に立てかけてある長剣は、薄明かりの中でも漆の艶を妖しく際立たせていた……。
「ひっ…!?」
ライラは小さく声を上げた。今日の仕事を終えて部屋のドアを開けると、ベッドの上でアケミがじっと座っていてからだ。
「びっくりした……来てたの? 厨房にいたんだから声かけたらいいでしょ……脅かさないでよ」
「ああ、うんまぁ……サプライズ」
「…驚かせる気あるの? 驚いたけど」
今日のアケミはどこか変だ……元気がないというか、覇気がないというか。
「しばらく来ないから、ようやく静かになったと思ったのにね」
「寂しかった?」
「清々したわ」
「またウチを覗きに来たのに?」
「………」
「…プ、カマかけたのに、図星だったんだ」
「…家は覗いてない。近くまでは行ったけど」
「何それ。乙女~」
「うるさい! からかうな!」
「あたしは寂しかったよ…」
のそりと腰を上げるとアケミの腕が首に周り、もたれかかるように抱きついてくる…。
「…本当にどうしたのよ……何かあったの?」
「うーん……なんというか………久方ぶりだから、ムラムラしてるかな…」
「最っ低…。心配した私がバカだった」
腕を振りほどこうとすると、アケミはその手を取って今度は肩を掴んできた。少し、痛い……
「割と本気なんだけど…」
「あ…」
本当だった。私を見つめるアケミの瞳は静かながら情欲に揺れている……欲しがっているのがわかる。そしてその熱い眼差しに当てられた私も、いつの間にか呼吸を忘れていた…。
肌が二人の夜を思い出す……煮えたぎるように沸騰するまでこの熱は冷めない、そんな予感…。
「ん…」
動いたのはどちらが先だったのか―――唇を触れ合わせた。
アケミは激しく求めてこなかった。むしろ水面に浮かんで漂うように、ゆっくりと、深呼吸するように唇を吸われていく……私の胸は急速に高鳴っていく…。
落ち着いているのではない。アケミはこれから私をベッドに引きずり込んでじっくりと、何時間でもかけて、離れていた分を取り戻すつもりだ。
いきなりこんなで風呂にも入ってないし、晩ご飯もまだだし、もしかしたら寝られないかもしれない、明日に響いたらまた皆に迷惑をかけ、はやし立てられるし……っていつまでそんなことを言い訳にしてるんだ私は…。もうこの子に対しては嫌なら嫌、駄目なら駄目とはっきりしないと筋が通らない。今の私は……
唇の交わる角度が、キスがより深くなってくる。鼻息がくすぐったい……。
手をアケミの背に回し、ぐっと抱き寄せる…。アケミが驚いたように目を見開き……堰を切ったように激しいキスを仕掛けてくる! ベッドになだれ込んでも唇が離れることはなく、息苦しくなって掴んだ服を引き絞っても、もっと、求めて……
「っ…はぁ、はぁ、ライラさん…!」
ああ…だめだ、完全に燃え盛っている。でも火を付けたのは私だ。本当は私も寂しかったのか……我慢できなくなってきた。今なら………今なら、焼かれてもいい……!
ガチャ―――
ドアが開く。
カーチェが立っている。
冷めた顔で……。
「あ…」
「え――」
「………」
二人の唇を繋げていた透明の糸がパタリと頬に落ちる……。
「ちょっ…何やってんのよアンタ! ノックくらいしなさいよ!!」
「ノックが聞こえたようには見えないけどぉ? でもまさかもう始まってたとは……お盛んねぇシロモリ様?」
「カーチェさんほどではないです…」
…なぜ敬語??
「まあ遅かれ早かれこうなるだろうとは思ってたけど、また発情した猫のような声が一日中聞こえてきたら後輩の子たちの精神衛生上よくないのよ。だからアンタたち、出て行きなさい」
「「はあ!?」」
まだベッドの上の私たちにカーチェが封筒と地図を放り投げてくる。
「イオンハブスのカサノバという町に貴族専用の逢引ホテルがあるらしいわ。そこがどんなものか視察してこいって女将が。期間は十日。封筒のそれは滞在費用。事細かにレポート書かないと後で全額返してもらうって言ってたわ。あと、シロモリが付いていこうが知ったことじゃないと」
「………それってあたしは自分で金出せってこと!?」
「従業員じゃないもの」
「いや、そうだけど、そこってあたしがいないと入れないんじゃないのか…」
アケミの言う通り、自分だけ行ってもどうしようもない……というか、そもそも女同士で入れるのだろうか?
「まあいいや……じゃあ明日出発しよう、ライラさん」
「え…!?」
「二人で旅行かぁ……なんかドキドキするなぁ」
「ちょっと待ちなさいよ、まだ行くって言ってないでしょ!」
「カーチェを挟んできたってことはもう御意見無用の構えだよ、グレイズは」
アケミに同意するようにカーチェも肩を竦める。
「だとしても……アンタ、仕事はどうするの!? やらなきゃいけないことあるんでしょ!?」
「いや、いいよ……一段落付いたから。タイミングもちょうどいいのかもしれない…」
「何、タイミングって?」
「あー、だからさ…どうせ三日三晩はライラさんとイチャイチャするつもりだったから」
「三日…!?」
認識が甘かった…。今度からそういう空気になったら覚悟を決めないといけない、ホントに。
「ライラさん、今日は帰ってまた明日の朝に迎えに来る。ライラさんも準備しといてよ」
「だから、勝手に決めないでって―――」
文句はキスでかき消される…。
「おやすみ」
「………」
長刀を手に取り、アケミは子供のようにウキウキしながら部屋を出て行った…。残された私はカーチェと目が合う。
「…ごちゃごちゃ考えず、さっさと行ってくれば? アンタ一人、いてもいなくても変わんないわよ」
いつものごとく、癪に障る薄ら笑いを浮かべてカーチャは部屋のドアを閉めた。
一人になった私は思った以上に厚みがあって少し怖い封筒をミニテーブルに置き、横になる。ベッドはまださっきの熱が残っている……。
二人で旅行、か……。
「……人のこと言えないな」
ドキドキしてきた……旅行なんてしたことがない。
ぱらりと地図を広げる。
目的地はどこなのか? どれくらいの距離があるのか? 必要なものはなんだろう?
ああ……年甲斐もなく浮かれてしまっている。突飛な話だけど、すごく……楽しみだ……。
いよいよアケミが創った部隊が正式なものとなる、その日が来た。
これまでは親衛隊の一部として仮設の隊だったが、今後は一個の独立した部隊となり、管轄はバレーナ直轄となる。役割としてはバレーナの補佐であり、既存の親衛隊は減数されて現状維持となる。この扱いに親衛隊長を始めとする親衛隊の面々は不満を顕にしたが、アケミも説得に当たったという。
「親衛隊は王族の剣であり、盾だろう。新たに創る隊はバレーナ王女個人の十得ナイフみたいなものだ。王女の生命を守るのではなく……いや、もちろん守備はするが、それよりも王女が行動を起こすときに支えることこそこの隊の役目なんだ」
―――その言い分で全てを呑んだわけではないが、領分を侵すのではないとのことで、一応納得はしたらしい。減数は最高評議会の中で王族がいたずらに兵力を増やすべきではないという声が出た故のことで、遠因がアケミにあるのは間違いないが、恨むのは筋違いというものだ。率先して隊から離れたのは親衛隊長を始めとする年長者たちである。これを機と見て部隊の若返りを図るという。
―――隊のメンバーの多くはそれら裏側で起こった事を知らない。王女に近い立場といえど、入ってこない情報はたくさんある……。
「……遅いですわね、隊長」
イザベラは控え室で襟元を指しながら呟いた。ジェスチャーを送られたメアは自分の襟からリボンがはみ出ているのを見つけて結び直す。
「バレーナ様といっしょなんじゃない? 無二の親友なんでしょ? バレーナ様のためにこの隊をつくったくらいだし、念願叶ったんだから」
隣のハイラが小さな声を拾って答える。だが、イザベラの表情は晴れなかった。
「隊長の性格なら顔を見せにきてもいいはずですわ。からかいがいのある子もいることですし」
視線の先には、シャーリーに椅子に押さえつけられ、ドナリエにメイクされるのを嫌がるミストリアだ。この間のマザロウの捕物でミストリアが活躍したらしいと聞いているが、それ以来シャーリーとドナリエはやたらとミストリアに懐いている。
「まあ…色々ありましたが、良い部隊にはなりそうですわ」
今日は城内で貴族を中心とした盛大な晩餐会が開かれ、そこで部隊のお披露目が行われる。足りない部分はいくつもあるが、それでもこのメンバーならば乗り越えられる―――そう思えるだけの信頼関係は築けた。これから私たちは一つとなってバレーナ様をお支えするのだ―――!
だが――――
「…それでは最後に、バレーナ王女殿下と『ブラックダガー』を率いる隊長の入場です!」
バレーナの隣に立つのは、見たこともない小さな少女だった―――…。
ちょっと間があいてしまいました。書き進めてはいたんですが構成で迷ってしまって、ご覧の有様です。そして今回で第二部が終わりとなります……え!? ここで!?と驚きの皆様、大丈夫です、第一部もそんなタイミングだったはずです(苦笑)。当初考えていたより多く書きましたが、次の第三部でこの外伝は終わる予定です。「朱に染まる」は「アルタナ」の冒頭部分から本編までのおよそ二年間の物語なわけですが、さて、まだ出ていないアレやコレはどうなるの? 作者も今から必死で頭を捻りますのでお楽しみに(笑)
ちなみに今回お気に入りのセリフは「カーチェさんほどではないです…」です。「姐さん」と呼ばないだけ抵抗するアケミのもどかしさ(笑)




