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桜下奇譚  作者: 森 彩子
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二十二話



翌日から桜花は伏せった。

精神的なものもあったが、それには先月からはじまった女性の毎月のお勤めということもあった。はじまったばかりで未だに慣れることはない下腹から腰にかけての鈍痛に桜花は腹を抱えて唸る。芙蓉が心配げに顔を覗かせてもそれも無視して、桜花が引きこもって周りを拒絶しても一向に雄飛は姿を現さなかった。

桜花はそれが悲しくて、そしてこうやって子供みたいな真似をしてしまう自分自身に苛立っていた。悲しくて、どうしようもなくて、どうしたらいいかもわからなくて、その上身体の慣れぬ痛みにただ布団に顔を押し付けることしかできない。

見かねた芙蓉が「ご飯だけは食べて下さい」と言って食事を布団の前に置いていった。どんなに悲しくて、このまま消えてしまいたいと思っても、桜花の身体は残念なことに健康そのものらしい。心がどんなに痛んでも、芙蓉が置いて言った粥の匂いに鼻孔がくすぐられ、自分ではどうしようもないことに腹がなってしまう。

布団の中で少し考えた桜花だったが、ついに匂いに我慢できなくて布団から顔を出してしまう。

「………」

そこには芙蓉の姿があった。

とっくの前に去って行ったものだと思ったのに、芙蓉はずっとそこにいたらしい。顔をみせた桜花に、芙蓉はほっと安堵したと同時に少し怒ったような顔をした。桜花がずるずると掛け布団を落としながら起きあがると、芙蓉は脇に置いていたお粥に手を伸ばした。

「少し冷えましたね。温めなおしてきましょう」

そう言って立ちあがろうとした芙蓉の手を桜花は掴んだ。

「……ううん。ちょっと冷えているくらいがいい」

桜花の言葉に芙蓉は再び腰を下ろすと、桜花に粥の入った碗を差し出してくる。碗は人肌程度にぬるくなっていた。桜花は暖かいそれを受け取り、ふっと息をつく。

「………ごめんなさい」

桜花は粥に手をつけずにただ見つめたまま口を開いた。顔は見ていないからわからないが、微かに揺れた空気から芙蓉の少し驚いた様子が伝わってきた。

「早く、ご飯を食べて下さいね」

芙蓉は少し黙ってから、優しく口を開いた。

桜花はその言葉に促されて頷くと、粥に口をつける。

暖かい。

桜花は滲み始めた視界を必死で抑えながら空っぽだった胃に粥を滑り込ませる。

飲むようにして粥を全て流し込んだ桜花が空になった碗を置くと、芙蓉がもう少し食べるかと尋ねてきたが桜花は首を静かに横に振った。二人だけの室内に沈黙が流れる。芙蓉もそこから去ろうとはしなかったし、桜花はここから去れと言わなかった。黙ったまま、桜花は言葉を探していると先に芙蓉の方が口を開いた。

「雄飛様のこと、お聞きにならないのですね」

雄飛は今どこにいるの、私を置いて、私を放っておいて、私にひどいことを言っておいて……。

雄飛、その名前を聞いたとたんに自分の内からあふれ出してきた言葉の数々に桜花は嗤う。

本当に自分は子供だ。

雄飛の言った言葉を何一つ真面目に受け止めずに、ただ嫌だと首を振ってそしてこうして閉じこもってしまう。嫌なことがあれば逃げ出してしまう、本当に自分は嫌になるくらい子供なのだ。

「雄飛様は桜花様を心配しておられましたわ。……月のもので女性が体調や心が不安定になることはよくあることだと申しておきましたけど」

それだけじゃない。そう言って芙蓉を詰りそうになった自分を止める。

この頃、以前と違って自分の本当の言葉を言うのが辛くなってきた。口を開こうとすると、迷惑ではないだろうかと考えてしまう。自分がこうだから、雄飛が私を―――。

桜花はそこまで考えて再び口を閉ざす。胸を抑えたまま俯いたまま黙り込んでしまっている桜花を芙蓉は心配して覗きこむ。

「桜花様……?」

「大丈夫」

「そう、ですか」

芙蓉の心配気な言葉をすぐに否定すると桜花は顔をあげる。自分は今不安気な顔をしているのだろうか、芙蓉は顔を曇らせる。

「………桜花様。何も、雄飛様はあなたが嫌いだからと言ってああいうことを申しているわけではありませんわ……」

桜花は下唇を噛んだ。そのことでちゃんと聞きたいのは雄飛からの言葉なのである。

しかし芙蓉も心配しての行動だということは解っているし、桜花自身も雄飛に直接尋ねるということも出来ないので大人しく耳を傾ける。

「桜花様。私たちとあなた様の間には――到底混じり合うことが出来ないほどの大きな隔たりが存在します。今のあなたにはまだわかないと思いますが、これから数年、いや崇十年たてばわかりますわ――。私は、いいえ雄飛様はあなたがそれを理解した時には遅いかもしれないと思われたのです」

「遅いって……?」

「時間が、です。私とあなたの間に流れる時間の早さは……残酷なまでに違う。先ほど言いましたが、あなたも時期にそれを知るでしょう。ならば知って傷つくより早めに……そう私たちは思うのです」

桜花は芙蓉の腕を掴んだ。そして間近からその瞳を見上げる。

「だから、私をここから追い出すの?」

桜花のその言葉に芙蓉は傷ついたような顔をした。

「捨てるわけではありません」

「でもここから追い出すのでしょう? なら私にとっては同じことだわ。芙蓉だって知っているでしょう…?」

桜花は一度、強く口を引き結んだ。そして今まで意識的に考えようとしなかったことをぶつける。

「私は、人に捨てられたの。要らないって、気持ち悪いって――。輪から外れた私だって、そういう意味では人ではないわ。芙蓉は、雄飛は私を捨てた場所に、人たちの下に戻れというの……?」

私はここにしか居場所がないの、そう血反吐を吐くような思いで告白した桜花の震える肩に芙蓉の手がかかる。芙蓉は泣けないでいる桜花の代わりに、その瞳に涙を今にも溢れだしそうなほど貯めながら切々と口を開いた。

「桜花様。お願いです。お願いだから、ご自分をそう否定なさらないでください。芙蓉にはわかります。桜花様をずっと御育てしてきたのですから……あなたは優しい子です。とても優しい人の女の子なのです。立派に育ち、そして今まさに女性としてほころび始めたあなたの人としての、女性としての幸せを願うのは、あなたの親代わりとしていけないことなのでしょうか……?」

「私は芙蓉たちの傍に入れればそれでいいのよ。人としての女としての幸せってなんなの? そんなのわからないし、私はここにいて幸せなのよ」

桜花の言葉に芙蓉は嬉しそうにほほ笑んだ。そして乱れた桜花の髪をゆっくりと撫であげる。桜花はその愛しげに髪を撫でる芙蓉の掌に瞳を細めた。

「桜花様。桜花様はまだ少し幼いから理解できないかもしれませんが……あなたはいつか結婚して、そして子を残す性なのです。先月から始まったそれも、子を産んでもいいという証」

芙蓉の静かな言葉に桜花はうんうんと頷き返す。知識としては解っているが、今の自分が子供を産むなんて信じられない。

「私は桜花様に幸せになってもらいたいと思います。女性として成長し、結婚し、そして子を産み生きていく」

「それが、芙蓉のいう女性の幸せ?」

桜花のその言葉に芙蓉は少し首を傾げる。

「……子を残せぬ人もいますが、それでもあなたにはやはり人並みの幸せというものを送ってもらいたいです。やはり同族の中で、年をとってそして生きていくのがあなたにとって一番いいことなのですから」

芙蓉の子供に言い聞かせるような言葉に、芙蓉の胸に顔を埋める。難しくてよくわからないが、確かに芙蓉も……雄飛も桜花を考えたうえでの「人里におりろ」発言なのだと言うことは理解できた。今の私には解らないが、確かにもう少し心が成長したら、もしかしたら、誰かと結婚したいと思うかもしれない。子が欲しいと思うかもしれない。そうなった時にここにいたなら、それはマズイことなのかもしれない。

結婚し、子を産み育てることが幸せだというなら、確かにここにいるとそれは不可能だ。ここには桜花以外の人間はいない。桜花のつがいとなるべき人間はいないのだ。

「………芙蓉は、雄飛は―私が公竹と結婚すればいいと思っているの?」

桜花のその言葉に芙蓉は少し目を見張ってから、困ったような笑いを浮かべた。

「いや、そうとは言っていませんが、お二人がもう少し成長して、互いに想いあったというならそれもそれでいいと思います」

「想いあう……?」

芙蓉の言葉を繰り返して首を傾げると、芙蓉はいたずらっ子のように微笑んだ。

「互いに好きあう、ということです」

「それを言うなら、私は公竹君より雄飛のことが好きだよ」

桜花の言葉に芙蓉は笑って首を横に振る。

「そういう好きではありません。異性としての好き、相手を男性として、桜花様が女性として求めると言うことです。好きにも色んな種類が存在するのですよ」

桜花は芙蓉の言葉に頷き返しながら首を傾げた。難しい顔をする桜花に、芙蓉は笑うと桜花を抱き寄せる。

「そうですね……。雄飛様も、桜花様も少しお話しをする時間が足りていないのかもしれませんね。桜花様、雄飛様にただこうしろと言いつけられるのは面白くないでしょう?」

桜花はその言葉に頷き返す。

雄飛はいっつも放置なのに、時々とても乱暴に上から物事を押しつけてくる。時々出してくるそれに、桜花は逆らい様がないのだ。

「それに桜花様ももう子供なのではないのですから、ただ嫌だといい続けるのはどうかと芙蓉は考えますわ。どうして嫌なのか、何故我々がそういうことを言うのかを少し落ち着いて考えてみたらちゃんと理解できたでしょう? それを踏まえたうえで、もう一度雄飛様と話し合ってみるのはどうでしょう?」

笑いながら芙蓉が言った言葉はすんなりと桜花の胸に収まった。憑きものが落ちたような顔をする桜花の耳元に桜花は唇を近付けると、そっと囁く。

「雄飛様ったら、桜花様がふさぎこんでから目に見えて落ち込んでおられますわ。全くお互い素直じゃないのですから。……誰に似たのだか」

桜花は芙蓉のその言葉にふっとここで今日初めての笑いをもらすと、芙蓉の耳元に同じようにして唇を近付けた。

「私に似たのよ」

桜花の言葉に芙蓉は声をあげて笑いだす。朗らかなその声に桜花もつられて笑っていると、ついたてを蹴り飛ばす勢いで誰かがそこに乱入してきた。婦女子の寝室に土足で入りこんできた不届き者に芙蓉が怖い顔をして桜花を守るように抱き寄せながらするどい視線をむける。

「たいへん、たいへーん」

そこには橘の姿があった。橘は倒れかけたついたてを手で軽く戻しながら、こちらに顔をむける。そして抱き合うようにして身を寄せ合う二人を見て大変という言葉にはそぐわしくない笑みを浮かべた。

「ずっとここに引きこもっていたら、大好きな雄飛が殺されちゃうよ」


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