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桜下奇譚  作者: 森 彩子
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二十一話

すっかり土色になってしまったぐちゃぐちゃの足袋を見つめながら桜花はため息をつく、闇雲に山を走っていた桜花は迎えにやってきた芙蓉に抱きとめられた。芙蓉は草履も履かずに走ってきた桜花の姿を見て何かがあったのかと心配したが、桜花はただ芙蓉の胸に顔を埋めて首を横にふることしかできなかった。

芙蓉も芙蓉で桜花の身体に傷が一つもないことを確認すると、それ以上何も聞いてこようとしなかった。すぐに湯の準備をしますからね、そう言って安心させるようにしてほほ笑んで芙蓉が部屋から去ると桜花は泥が跳ねてしまった自分の着物を見て嗤う。

綺麗な衣装を芙蓉に着せてもらったというのに、泥だらけにしてしまったと少し落ち込みながら桜花は着物を肩から落とす。ずっと走っていたからだろうか、暑かった。

襦袢姿になった桜花は畳の上にそのまま横になる。そして瞳を閉じてため息をついていると、桜花の耳を柔らかくとかす冷たい掌が突然触れてきた。桜花は突然現れた彼に、瞳を閉じたまま手を伸ばす。足音一つも立てずに現れることは彼にとって造作もない。なぜなら彼は人間ではないから―――。

「……雄飛」

甘えるような、泣きたいような気分で名を呼ぶと耳元を撫でる手が優しく動く。

「楽しかったか…?」

柔らかな声が鼓膜を揺さぶる。桜花は瞳を閉じたまま雄飛の言葉に悩む。黙り込んだままの桜花に雄飛はクスクスと笑うと、桜花の額に唇をひっつける。

「どこで草履を落としてきた」

「わからない」

草履をはかずに寺を飛び出してきたのだ。でもそれを雄飛に言うことはできなくて、桜花はわからないと口を開く。あきらかに何かあった様子の桜花に、雄飛はそれ以上何も聞かずにただ髪を撫で続ける。汗でしっとりと濡れてしまっている髪を触れられると、桜花は突然泣きたくなってしまった。さっきは堪えることができたというのに、優しくほどくようにして髪を撫でられると、涙があふれ出してくる。

「……人里は楽しかったか」

「別に――」

雄飛が再びしてきた同じ質問に桜花は泣きながら答える。素直じゃないなと笑う雄飛に桜花はむっとして瞳を開く。涙で視界が歪んでいたが目が合うと、雄飛はいたずらっ子のように瞳を細めながら口を開いた。

「人間はどうだった?」

覗き込んでくる雄飛を見上げながら桜花は雄飛の首に手を回す。

「わからない」

「でもお前をいじめていた人間とは違っただろう」

 雄飛の頭を引き寄せながら、桜花はひっつきそうな距離で雄飛の顔を覗き続ける。

彼と離れるなんて、想像したくもない。

「悪いものでもないだろう。同族と言うものは」

「でも私は雄飛が好き。雄飛が一番好き」

桜花の言葉に雄飛は困ったように微笑んだ。桜花は困ったようにしてほほ笑んだ雄飛を見て更に顔をぐしゃぐしゃにする。

お願いだからこれ以上口を開かないで、そう願いながら更に雄飛の頭を引き寄せる。いっそ口も封じてしまいたかったが、すでに桜花の両手は雄飛の後頭部に回ってしまっているので、他の塞ぐすべなんて桜花にはわかりっこなかった。

「……桜花」

桜花は雄飛の形のよい薄い唇が開くのを絶望的な気分で見つめた。

「人間と一緒に暮せ」

ついに言われてしまった、桜花はずるりと両手から力が抜けてしまう。雄飛は桜花の拘束が解けた後もその距離を保ったままで桜花を見つめる。

「ちょうどいいではないか。公竹のこと、お前も嫌いではないだろう」

桜花は雄飛のその言葉に首を思いっきり横に振る。

「ううん。嫌い、だって私のこと可哀そうって、雄飛に拾われた私が可哀そうだって言った。雄飛のこと悪者扱いしたもん」

「確かに人間にとったらこちらは悪者だ。お前をかどわかしたと言われてもおかしくない」

雄飛の愁傷な言葉に桜花は上体を起こすと、そのままの勢いで雄飛の胸に飛び込む。

この人を悪者扱いするものは、たとえ彼でも許さない。許せない。

名前さえ持っていなかった桜花にとって雄飛は全てなのだ。

「いやだ!」

泣き叫ぶ桜花の背に雄飛の手はいつまでたっても回らない、いつもだったらこうやって泣きわめく桜花を宥めるようにして雄飛の手が回されるというのに、ぬくもりをくれない雄飛に縋るようにして桜花は更に身を寄せる。寒くて、寒くて、たまらなかった。

じっと雄飛に縋りついたまま二人して動けないでいると、二人の耳に神出鬼没な男の軽い声が入ってくる。

「あーあー、ぴーぴーうるさいな~」

橘に用意された部屋は桜花の部屋から遠い。わざわざ見物にやってきた趣味の悪い橘を、桜花はすっかり腫れあがった瞳で睨みつけた。

睨みつけられるようにして視線を向けられた橘は、面白そうに笑った。

「あんまり我儘ばっかり言っていると―――」

そういって口を三日月形に歪めた橘に雄飛の扇子が飛んでいく。頭に当たった橘は、痛いと言って額を抑え唸り始める。

「うるさいのが来たな…、とりあえず桜花。さっき俺が言ったことをちゃんと考えておけ」

「いや!」

雄飛の言葉が終わるより先に拒否の声をあげた桜花に雄飛の眉間に皴が寄る。

「桜花、お前のことなんだ。他の誰でもない、お前自身のことなのだし、もう子供ではないのだからちゃんと考えてみろ」

桜花は雄飛のこちらを窘めるようなものいいに肩を揺らしながら悲鳴じみた声をあげる。

「雄火は、雄火は私がいなくなって―寂しくないの?」

桜花のその叫びに雄飛は黙ったまましばらく桜花を見下ろすと、頭をぐしゃりとかき混ぜて何も言わずに橘の首根っこを掴んで立ち去ろうとする。

追い縋るようにして桜花は雄飛に手を伸ばしたが、伸ばした手は雄飛には少し遠くて届かなかった。





橘の首根っこを掴んで引きずる形で歩いていると、橘がもう無理だと苦しげな声で許してくれと言ってきた。雄飛はそれにため息をつくと、立ち止まって手を話す。ようやく解放されたことで、忙しなく呼吸をする橘に背を向けたまま雄飛はその場に立ち尽くした。

「げほげほっ、ちょっと今のは苦しかったよ」

「死にはしないだろう」

雄飛のあっさりとした言葉に、橘は拗ねたような声をあげる。

「それはそうだけどさ、でもやっぱり辛いものは辛いからね!」

いくら人ではない、中々死なない身体とは言っても痛覚は普通にこちらにも存在している。首を絞められたら苦しいし、切りつけられたら痛いし血も出る。身体も心も人間とそう変わりはないと思う。

「あの子、手を伸ばしていたよ」

君に、と指さしてきた橘を上から見下ろしながら、雄飛は眉間にしわを寄せる。

「あっ、もしかして気付いていて意図的に無視していた? ならごめんね~」

「あっは~」と軽く笑う橘から目をそらすと無視して雄飛は歩き出す。

橘と話すのはいつも煩わしいが、今日のこの時は今まで以上に煩わしかった。話を流すことさえもめんどくさい、億劫に感じられるほど。

「雄飛が寂しいもんね。先に死なれたら。置いていかれる方の気持ちを少し考えたらわかるはずなのにね~。……本当に子供だよ」

雄飛は橘をその場に置いて去っていく。他の者の気持ちなどいつも関係ないと言わんばかりの態度をとっている奴なのに、こういう時にかぎってはそれ以上何も言ってこないし、追ってこようともしない。これ以上からかってもどうしようもないということをちゃんと理解しているのだ。

雄飛はその場に立ち止まっていることが耐えきれなくなって、理由もなく歩き続ける。立ち止まると耳に再生されるのは桜花の悲鳴じみた最後の言葉だった。




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