な琴ま浪に█くのたのしい一日
11月27日は、琴浪誠也の誕生日である。
つまりは生肉にとっては、一年でもっとも素晴らしい大事な一日だ。
こんな素敵な日には、是非とも己を食べてほしいものである。出来れば一番美味しい方法で。
生肉のもっとも美味しい食べ方とは何か? 串焼きである。
出来る限り柔らかく下処理した生肉を串に刺し、少し片栗粉を振ってから焼いてもらうのが良い。味付けはシンプルに塩。そして焼き立てにレモンを絞る。これが本当にとても美味しい。生肉が胸を張っておすすめできるくらいには。
小洒落た調理法で特別に演出するのも良いが、琴浪は祝福の気配を感じただけでその場からしれっと退席するだろうから、生肉はあくまでもシンプルかつ最良のものをプレゼントしたかった。
しかして、生肉の手足は事を成すにはあまりに短く、頼りない。決行には明確な協力者が必要だった。考えるまでもない。留石蛍である。
生肉は言葉を伝える術は持たないため、蛍に意図が正しく伝わる保証はない。
足し算は出来ても、平仮名も漢字も、生肉にはなんだかとても遠いもののように感じられる。足の先でふれるとぐにゃりと曲がって、何処にもたどり着けなくなってしまう。
それでも言葉を聞けるだけの耳――らしきものがあるのだから、それだけで生肉は己の身体に感謝している。そもそも、生肉はこんなにも美味しいのだから、それ以上を望むのは欲が過ぎる。
それに、言葉がなくとも琴浪の誕生日を知らせること自体は簡単だ。泥のように眠る琴浪の財布から、保険証を抜き出して蛍に見せれば良い。特に誕生日のあたりを重点的に。
生肉は機会を窺い、決行の二週間前、無事に蛍に意図を伝えることが出来た。
「……この人、誕生日あったんだ」
蛍は妙なことを言うのだなあ、と生肉は思った。全ての人間には等しく誕生した日がある。当然だ。人間は突如自然発生したりなどしない。生肉と違って。
ほとんどの存在は父母に望まれたために生まれてくる。たとえ、仮に、望まれずとも、間違いなく生かされるべきと判断された上で人生を歩み始める。それがどのような歩みを辿ろうと、誕生という一瞬だけは、無垢に祝福されるべきである。もし、歩み続ける本人が己の道程を疎み憎んだとしても、誕生という事実への祝福は捧げても許される筈だ。許してほしい。どうか。
生肉は諸々の全ての祈りを込めるように、ただじっと蛍を見上げた。蛍もただ、静かに生肉を見下ろした。
ワン、と小さく鳴く。生肉の言葉は鳴き声以外の何物でもなかったが、それでも蛍は正しく生肉の望みを理解した。
そして、理解した上で、困惑に眉を寄せた。
「……ええと、誰を呼ぶ?」
生肉はちょっと意外に思って前足で軽く床を叩いた。そうか、確かに、誕生日とは多くの者に祝ってもらうのが良い。生肉は無かった発想である。
せっかくだから琴浪の生誕を共に祝ってほしい人間はいる。だが、どうやって連絡を取ったら良いものか。
首を捻りすぎて若干人様には見せられない形になった生肉の横で、蛍はゆっくりと指を折って数え始めた。
「三村さんと……あとあの先輩と……本郷さんも呼んだ方がいいかな……。あ。そもそも、休暇が取れてるのかが問題だよね」
それについては心配がない。生肉は自信を持って足を踏み鳴らした。
月の頭に、琴浪が呪詛を吐きながら帰宅した日がある。前後不覚になるまで飲んで帰ってきた彼の言葉を総合すると、どうやら社長から上司の一件を解決した報酬として、誕生日に特別休暇を与えられたそうだ。
そして、その特別な休日に、せっかくだからと社長の身内と引き合わせられそうになったのを、死ぬ気で「ちょうど誕生日に先約があるので」と断ってきたらしい。琴浪はずっと笑っていた。笑い話にすることでどうにかひっくり返った胃を押さえつけているようだった。
ともかく。琴浪は誕生日に休暇を貰っている。あとは彼が吐いたでまかせの『先約』に生肉とゆかいで素敵な仲間たちが収まるだけである。
***
琴浪宅から電車で一時間ほど行った場所に、手ぶらでバーベキューを出来る公園がある。
大きな公園内に専用の場所があり、食材から機材まで全て用意してもらえるプランがあるのだ。もちろん、食材の持ち込みも可能である。
琴浪はじりじりと炎に焼けるエリンギを眺めながら、微かな雨音を響かせるタープの下でうんざりと椅子に腰掛けていた。
その横では、蛍がひとり生肉の下処理をしている。
本日、天気は生憎の雨。
気温は最低が八度、最高でも十五度になる見込みだ。
午後には雨が止むらしいことを確認した上で、蛍は琴浪に公園への同行を願った。
家族で行く予定があったんですが、どうやら当日になってみんな外せない用事が出来てしまって、という使い古されて錆びついた嘘を前にした琴浪は、それでも、断りの文句を口にしようとした瞬間に自身のスマートフォンが社長からの着信を画面表示したのを見るや否や、電源を切って立ち上がった。
彼の服装は基本的にくたびれたスーツか、穴の開いたスウェットである。服を買いに行くための服を買いに行く服すら買いに行く服もない状態であり加えて気力もないので、必然二択になる。
スウェットにコートを羽織った状態でついてきた琴浪は、サンダルの足で退屈そうに地面を叩きながら、皿に乗せられたかぼちゃとエリンギ、いい感じに焼かれた生肉を眺めていた。
食べても食べても、皿に何かが乗せられる。主に生肉が。やたらと美味いのが腹が立つな、と思いながら何やら嬉しそうに歩き回っている生肉をぼんやりと眺めていた琴浪は、ふと、遠方からやってくる見覚えのある顔に、明確に眉間の皺を増やした。
「あ、琴浪くん……ぐ、偶然だね……」
木之内透は、くちゃくちゃの雑巾――のようにしか見えないもの――を片腕に大事そうに抱えたまま、引きつった愛想笑いを浮かべていた。
もう片方の手には傘と、小さめの袋を提げている。
「偶然?」
「偶然……だね」
「偶然?」
「ぐ、偶然……」
片目を眇めた琴浪の視線に負けることなく、木之内透は偶然を押し通した。確固たる意志でもって偶然を言い張った。そして、木之内透はその手にしていたアウトドアスパイスの瓶を琴浪に手渡していった。
どんなお肉にも合うんだよ、タオルちゃんもこれが結構好きで、砂みたいで嬉しいのかもね、などと聞いてもいない(かなり商品に対して失礼な)ことを話しながら、挙動不審のままに会場の奥へと離れていった。どうやら、彼らが取れた場所はこの中央スペースではなく別の場所であるらしい。
だったら何が偶然なんだよ、という言葉を、琴浪はスパイスを振った肉と共に飲み込んだ。
次の客が現れたのは、ちょうど、傘がなくともよいかと思える程に雨が弱まった頃だった。
小さなクーラーボックスを抱えてやってきたのは、三村佳苗である。随分と顔色が良くなり、頬にふくよかさも戻った彼女は、琴浪に向かって小さく手を振ると、なんとも明るい声で呼びかけた。
「あらぁ! 奇遇ですね、琴浪さんもこちらにいっしゃるなんて」
「は?」
「私も偶然、夫とバーベキューに来たんです」
「この寒いのに?」
馬鹿か? と言いたげな形で開かれた琴浪の唇からは、言葉になる前の音の出来損ないが微かに漏れるばかりだった。
こんな偶然があるんですね、この間のお礼もしたいと思っていたんです、ぜひこちらを、と矢継ぎ早に告げた三村佳苗は、琴浪の手に蟹を渡してきた。
なんとも立派なタラバガニである。琴浪は明確に答えを求めるように周囲に目をやったが、本来は肉を焼いている筈の蛍は、何故か少し離れた芝生スペースで生肉に向かってフリスビーを投げていた。何故だ。答えは得られなかった。
弾んだ声で何度も礼を口にする妻の後方で、あまり状況を掴めていないらしい夫――三村光隆がそっと頭を下げる。妻がお世話になったようで、と何処となくたよりない声音で挨拶も告げられた。こんな若造に妻が一体何処でどう世話になったのか、彼にはあまり納得がいっていないのだろう。
琴浪はほとんど反射のように当たり障りのない社会人としての挨拶を口にし、頭を下げる三村夫妻を見送ったのち、蛍が投げたフリスビーを無事にキャッチして戻ってきた生肉を一分ほど見下ろし、そして、無言で蟹を網に置いた。
つまりは、この度の計画に関して生肉の勝利が決まった瞬間であった。
十五分後。
「…………こんにちは」
か細い、油が弾ける音にすら負けてしまいそうな声と共に顔を見せたのは、本郷ゆりかである。本郷家は現在唯一『コトナミさんち』の近くに住んでいる住人であり、ゆりかは本郷家の長女であった。あの夜、首と胴体が別れて転がっていた女子高生である。
琴浪は力なく口を開いたまましばらく本郷ゆりかを眺め、一度明確に不信感から眉根を寄せたのち、ああ、と呟いた。
「不法侵入」
「……す、すみません」
「二度とすんなよ、クソガキが」
「すみません……あの、これ、お詫びに……」
やや涙目になりながらも、本郷ゆりかはテーブルにマシュマロとチョコレートとクラッカーを置いていった。スモアセットである。要らねえ~という顔をした琴浪がそれを押し返すよりも先に、彼女は逃げるようにして、少し遠くで見守っている顔立ちのよく似た少女の元へと走っていってしまった。ありがとうございました、と悲鳴のようなお礼を残して。
どうやら、彼女たち二人に至っては、バーベキューに来た様子ですらなかった。
だったらこれはなんなんだ、と片手に掴んだマシュマロの袋を見下ろしていた琴浪は、足元をうろつく生肉の脇腹を、ゆるく足先で小突いた。
「で?」
雨が降っていたため、今日の生肉は小さなレインコートを着ている。黄色い縁どりのついた、フードもある立派なものだ。
ちなみに、傍目からは風に吹かれてコートが転がっているように見える。そういう風に見る。そしてすぐに、意識から外してしまう。
「おい」
小突かれた生肉がこれ見よがしに素知らぬ顔をしたものだから、琴浪は眉を寄せたまま呼びかけ、そして、楽しげに走り回る生肉をしばし眺めたのちに、深く細いため息を吐いた。
代わりに、蛍へと目をやる。無言のままに問われた蛍は、ただ静かに、先ほど渡された蟹を焼く用意だけを続けた。
そこから、琴浪は立派なタラバガニと、スパイスを振った生肉と、スモアを、何某かの苦行に耐えるようにして口にした。
途中で席につくように呼ばれた蛍も食事を共にした。これは琴浪は知ることのない話だが、レンタルの申込みは機材のみなので、持ち込まれた材料のチョイスは彼の妹によるものである。
絶対に言わないでね、と妹に強く言われたので、蛍は一欠片もそんなことは口にしなかった。なんだかとてもよい食材であることは、扱っているだけで分かったが。
二時間後。
片付けも終わり、これ以上何一つ口には入らない、となった頃。
琴浪は一度だけ、舌打ち混じりに口にした。
「ご馳走さん」
そうして、それきり琴浪は一切の言葉を発することなく帰路についた。
駅で勢いよくぶつかってきたおじさんが何やら喚いていても無言で肩をぶつけ返し、残高不足で改札に引っかかった後も無言でチャージし、挨拶もなく蛍と別れ、ドアノブを舐めている牛の猫を蹴り飛ばしてから扉を開け、そのまま無言でベッドに入った。
生肉はその傍らで、そっと四肢を曲げて丸くなった。
「ご馳走さん」は「ご馳走さん」以外の何物でもない。
そこには感謝も称賛も謝意も何もない。その何もなさこそが、生肉にとってはこの世で一等価値のあるものだった。
琴浪は少なくとも、全てを受け取ったのだ。
受け取り、咀嚼し、消化した。誰から貰ったものも残さなかった。
来年もそうあるといい。
再来年も、その先もずっと。
きょうはとってもたのしいいちにちでした。
思い浮かぶことは沢山あったし、眠りを知らない生肉には時間が有り余っているけれど、その日、彼の脳内の日記に記されたのはその一文のみだった。




