三村佳苗のとある一日
三村佳苗の息子の遺品は、小さな段ボールに収まる程度しか残っていない。
きっと彼女が琴浪と出会うことなく踏み留まらないままであったなら、この小さな箱すらも残らなかっただろう。
そもそも、息子の遺品と呼ぶことが正しいとも言えない。彼が母の為に贈ったプレゼントの中で、三村佳苗が処分せずに済んだというだけの品だ。
柔らかく手触りの良いタオル地のハンカチが数枚と、刺繍が趣味の彼女が喜ぶだろうと選んだ糸が数種。
三村拓真は、反抗期らしい反抗期が来る前に亡くなった。ごく単純な事実として、彼は誰の目から見ても『いい子』だった。
母親思いで部活に熱心で、勉強は不得手だが努力は厭わず、適度に馬鹿をやれる友を持った、間違いのない良い子だった。
それは三村佳苗の目から見ても、何も変わらなかった。
良い子だ。それ以上の感情は何もない。
何もないのに、なくなった筈なのに、夜中に起きると家の中の物が壊れているのだった。
昨日はグラスが割れ、一週間前は戸棚が外れ、一ヶ月前には窓にヒビが入った。
記憶にはないが、それら全て、佳苗がやったのだ。夫の気まずそうな、そして確かに疎ましそうな気遣いの笑みを見ると分かる。
診察では記憶の奥に残る感情が無意識に発散されているのだと聞いたが、まるで家の中に別の人間が住み着いているような気がして、佳苗は気味の悪い思いで破れたカーテンを眺めた。
夫が家を空けたのは、窓にヒビが入ってから二週間後のことだった。出張だと言っていたが、それが真実なのか確かめることすら、佳苗には億劫だった。いつ戻ってくるのか、そもそも本当に戻って来るつもりなのかと聞くのも。
どうして覚えても居ないのにこんなことをしてしまうんでしょう、と零した佳苗に、対面に座る男――琴浪誠也はさして興味もなさそうな顔で珈琲を啜って、口を開いた。
「笑うと楽しくなるのと同じです。喚いて暴れると狂った気がしてきますからね、狂っているなら大丈夫だろうという気にもなる訳です」
「はあ、なるほど」
「嘘です。喚いてる最中に記憶なんかある訳ないですからね。見てみぬフリなんか精々一年も続けば良い方なんですよ、三村さんの限界が今だったというだけの話じゃないですか」
佳苗はもう一度、はあ、なるほど、と何も分かっていないのに口にした。
霊能や超常関連の相談が出来るサービス、というのが存在する。
相談とは言うが、アルバイトが普通ではない怪奇現象を前提とした話を聞いてくれるというだけで、具体的な解決案を出してくれる訳では無い。
それでも、通常ならば信じてはもらえないような話を疑うことなく聞いてくれる場というのは、今の佳苗にとっては確かな救いだった。
『家族:死別』『呪い経験:有』『霊耐性:有』『依頼料上限:~20000』
希望条件を絞り込むと、三人のメンバーがヒットした。一人は宮城県で、もう一人は予約が二月先だったので諦めた。
残る一人と三日後に会う約束を取り付け、某区の喫茶店で顔を合わせたところ、現れたのは琴浪誠也だった。
仕事として請け負っているからか、彼は少しくたびれたスーツ姿だった。あの真っ暗なアパートで会う時のような穴の開いたスウェットではないし、髭も剃ってあるが、目だけは変わらず暗く濁っていた。
またお会いしましたね、と何の感情もない声で言った彼は、しどろもどろで自分の状況を説明した三村に、上記のように言った。特に興味もない、同情も憐れみも嫌悪もない、フラットな声音だ。
佳苗は今回、『話を聞いてくれる人』という依頼を出した。このまま己と向き合っていると本当におかしくなってしまいそうだから、そうなる前に誰かに話しておきたかった、というだけだ。
通院している病院では適切な薬を処方してもらっているし、それ以上の処置は望めないだろう。怪奇現象や呪いが理由でなくともこの世には完治を望めない症状と友に生きている人はいくらでもいる。自分はその一人であるだけで、これは前に進むために必要だと思った行為のひとつに過ぎなかった。
今回の件は完全なる偶然だったが、話をする相手が彼であることに、佳苗は確かに安堵していた。
琴浪が彼女が信じていた導き手である『ひよし様』の元に向かった日からしばらくして、佳苗は『コトナミさん』の家について知った。夢で会ったからだ。誰と会ったは思い出せない。けれども会った。そして、思い出の品を捧げて縁を解くような真似は出来たのに、紙袋に納めて縁を断つのは躊躇った。佳苗は幸せになるために息子を産んだ訳では無い。幸せにするために産んだのだ。夢の中でだけはそれを思い出すことが出来たし、夢の中でだけはそれは紛れもない真実だった。だから、これ以上何一つ失う訳にはいかなかった。
そうして、彼女の手元には小さな段ボール箱がひとつだけ残っている。それを綺麗な容器に移すことが出来ないのは、現状の自分の限界なのだろう。
今、自分は何もかもを失った男の前で、かろうじて残ったものを守るための儀式をしている。感情の吐露と、現状の維持と、生活の回復を図っている。
すっかり冷めてしまった紅茶を見下ろして、佳苗は言い訳のようにミルクと砂糖をカップに入れた。スプーンを持つ手が微かに震えている。
二人はしばらくの間、無言で店内を見やった。琴浪は会話を振られるまで口を開くつもりはないようだったし、佳苗には、「どうすればいいですか」を口にする勇気がなかった。
ふと、喫茶店の傍にある一方通行の筈の道に入り込んだ軽自動車が派手にクラクションを鳴らされて、ふたりは揃ってそちらを見て、その視線を卓上に戻したところで、佳苗は何かに急かされるように唇を開いた。
「あの、生肉ちゃんはどうしているのかしら」
「どうというと?」
「お元気?」
一瞬、目を見張った琴浪は、何度か瞬きをしたのち、珍しく素直な調子で小さく笑った。
「ええ。少なくとも俺よりは」
「そう」
そういえば、彼は少し前に体調を崩して帰宅の途中で倒れたそうだ。マンションの件で礼を伝えたいと立ち寄った際に、救急車で運ばれたと聞いた。
佳苗から見てもとても健康的な生活をしているようには見えないから、そうなってもおかしくはないと思っていた。何か差し入れでも、と思ったが、虚空に消えていく冷凍ささみを見て、何を持っていけばいいか分からなくなったのを覚えている。
「三村さんはどうですか」
「どうでしょう。元気ではない、と思うけれど」
「元気なふりをすると良いですよ。何の解決にもならなくて最悪でどうしようもないのでなんとかなります」
「それは、なんとかなっているのかしら」
「しないとならないんでしょう」
その一言にだけ、僅かに感傷が含まれているようだった。佳苗の気のせいかもしれない。そう聞き取りたかっただけかもしれない。そこには彼が常日頃連れて歩く何某かの情が滲んだような、歪な柔らかさが存在している――ように聞こえた。
この世にはなんともならないことが多すぎる。引きずってでも歩かなければあっという間に時間が自分を置き去りにして、二度と取り返しがつかなくなるようなことが、無数に。
それは吐き気がするほど腹立たしい事実だった。疑いようのない現実であり、たった一人では曲げることすら叶わない。そういうものに流されながら生きている。佳苗も、そして琴浪も。
「そうですね」
なんとかしないとならない。なんともならなくとも。どうしようもなくとも。どうにもならなくとも、どうしたって生きていくしかない。自分にとって何より大切な存在がなくなったくらいで世界は終わったりしないし、人生は突然途切れてくれたりもしない。この世の終わりくらいに辛かった筈なのに明日は変わらず来るし、縁を解いて忘却してしまった筈の自分は、覚えてもない辛さを抱えて歩まなければならない。
そうしないとならないのだ。もしも佳苗が佳苗を終わらせてしまったのなら、あの小さな段ボールには本当に何の意味も価値もなくなってしまうのだから。
「あの」
「はい」
「私、チーズケーキを頼もうと思うんですが、琴浪さんは?」
一生分の覚悟を持ってメニューを手に取った佳苗に、琴浪はやや嫌そうな顔を――これは佳苗の憶測だが、彼は食事自体をとても疎ましく思っている――してから、オレンジケーキを選んだ。ほんの一瞬、頭の片隅で記憶が弾ける。
そういえば息子もオレンジケーキが好きだった。生のままだと嫌がるくせに、ジュースとケーキだけはオレンジを選ぶことが多かった。
元気なふりをしよう。し続けよう。これからずっと、あの家で、死ぬまで平気なふりをして、長い長い終わりまでの道のりで、消えかけた欠片を拾って生きるのだ。
時折つっかえながら食事を終えた佳苗は、礼を言って琴浪と別れた後、ゆっくりと、休み休み二時間をかけて、心の内の全てを丁寧に記したメッセージを夫へと送った。




