留石蛍のとある一日
「留石くん、だよね?」
『本日のランチ Aセット』を片手にテーブルに向かった留石蛍は、ファミレスの片隅、二人席のソファ側に腰掛ける同年代の女の子を見下ろし、とりあえずハンバーグの乗ったプレートを卓上へと置いた。
メニュー名を告げつつ、少女の姿を再度確認する。
ベージュのパーカーに、クリーム色のシフォンスカート。琥珀色のやや太い縁のメガネをかけている。癖のない黒髪が、まっすぐに胸元まで下りていた。
留石くん、と呼ばれたからには同級生か、先輩だろう。
学校で上の学年と関わりがあった記憶はないため、蛍はすぐに脳内でクラスメイトの顔を攫い、彼女の垂れ目のすぐ下にある、少し大きめの黒子という情報で名前を拾い上げた。
「坂山さん。今日、学校はお休みだったっけ」
今日は水曜日だ。月曜だったら何かの振替休日だと思うのだが。開校記念日は確か十一月だったので、二ヶ月先だった。
登校しなくなって随分と経つので、行事には疎くなっている。もしも学校自体が休みなら、彼女の他にも誰かに遭遇するかもしれない。あまり好ましい状況ではないが、覚悟しておけば気分は違うだろう。
軽い警戒と共に、確認のため口にした蛍の言葉に、坂山美里はさっと顔を強張らせた。ぎこちない顔で笑みを浮かべ、逃げ場を探すようにスマートフォンを手に取る。
「あ、うん。ううん、体調悪くて、お休みして、学校はあるんだけど、治ったからご飯食べに。あの、家に親いなくて」
「そうだったんだ。回復してよかったよ。ゆっくりしていってね」
接客用の微笑みを崩さぬまま、特に深く触れることもなくテーブルを離れる。ハンバーグ定食は、体調が悪い人が頼むにはややチャレンジングな気がしたが、それは蛍の考えるところではない。
坂山美里は、自身が吐いた嘘の拙さを恥じたのだろう。少し赤い顔で俯き、気まずそうにフォークとナイフを取り出していた。
そこから、彼女が食事を終えるまで、新たな客が入ることはなかった。
平日の十一時だ。店内は閑散としている。
このファミレスは立地も微妙な上に、元々料金設定がやや高めである。その上、この近辺には料金が安くて駅に近い店が他に二軒もある。
学生であれば、そちらの店を選ぶのがほとんどだ。蛍がバイト先を此処に決めたのも、それが理由だった。そして、坂山美里が此処を選んだのも、きっと同じ理由だろう。
スマホを片手に会計にやってきた坂山は、有人レジで支払いを済ませると、蛍の顔を見て言った。
「留石くん、もう、学校来ないの?」
「どうして?」
「えっ……と」
蛍は、思わず真顔で聞き返していた。別に責めるつもりなどは一切ないが、きっと対面の彼女にはそういったニュアンスで伝わってしまったことだろう。
だが。蛍はそれ以上場を埋めるような言葉を付け足すことも、曖昧な笑みで誤魔化すこともなかった。だってそうだろう。どう考えても、『どうして』以外の問いなど返しようがない。
たとえ直接の害はなさなくとも、あの教室に居たというだけで、どうしてそんな問いが出来るのか、蛍の方が知りたかった。
レシートを渡して、それでも彼女が去らないままでいるのを見て、蛍は少しだけ、彼女と目を合わせた。
「あの。あのね、居るの」
眼鏡の奥の瞳が揺れている。
彼女は今にも泣き出しそうだった。
「今でも居るんだよ。呉宮くん。教室に居るの。ずっと居る、居て、それでみんなおかしくなって、なんだか変なことになり始めて、だから、ねえ、留石くん、何か知ってるんでしょ? だから呉宮くんって死んじゃったんだよね?」
「……それは、」
「このままじゃみんな学校に来れなくなっちゃう! 私だって、これ以上成績落ちたら不味いのに!」
悲鳴のような声を上げて、坂山はその場に蹲ってしまった。
キッチンから、迷惑そうな顔をした先輩が顔を覗かせている。面倒な知り合いの相手はさっさと済ませてくれ、と書かれた顔に愛想笑いを返してから、蛍は坂山の隣に膝をついた。
泣きじゃくり始めた坂山の肩に触れかけて、少し気まずくなって手前で止める。代わりに、店の外へと出るように促し、扉から離れた物陰へと移動した。
「呉宮が居るって、どういうこと?」
胸中から湧き出る言葉は他にいくらでもあったが、全てを流して、蛍はそれだけを呟くように尋ねた。
呉宮湊斗は、もう何処にも居ないはずだ。
『コトナミさんち』で焼死し浮遊霊と化した彼は、どういう縁を伝ってか、琴浪の家へと辿り着いた。
生きている蛍と混合された彼はしばらくの間は確かに居たが、蛍が目を覚ますと同時に消え去った。
その後はもう、何処にも残っていない。
「呉宮くん、自分の席に座ってる。ずっと」
坂山の説明は辿々しかったが、大まかなことは把握できた。
呉宮が事故で亡くなったと聞いてから、彼の席には一月ほど花が置かれていた。
その席に呉宮らしき生徒が座るようになったのは、花を供えるのをやめてからだった。
らしき、というのは簡単な話である。その席に現れた彼は全身が焼け爛れていて、まともに顔を判別できる状態ではなかったのだ。
ただ、男子生徒の制服を身に着けていて、呉宮の席に座っていたから、教室の全員が彼を呉宮湊斗だと認識した。
教員に訴えても、生徒以外に誰もそれを認識できる人間はいなかったそうだ。
同級生が亡くなったことで精神的に不安定になっているのだろうと、何人かはカウンセリングをすすめられた。
解決はしなかった。教室に戻れば居るからだ。人の形をしただけの黒い塊は、呉宮の席に腰を下ろしている。
誰も、机を撤去しようとはしなかった。触りたくなかったのだ。教員も、生徒の精神的なショックに寄り添う態度は取るものの、呉宮の机を片付けるという選択は取らなかった。そこまですることはないだろう、で終わってしまう。
それは教師特有の無関心というよりは、本能的に関わらないことを選択しているように見えたそうだ。
呉宮がただ居るだけならば、我慢すればそれで済んだ。彼はそこに座っているだけで、霊障や害がある訳では無い。
だが、何もされていない筈なのに、確かにクラス全員がおかしくなっていったのだと、坂山は語った。
誰かが言った。
呉宮があいつのこと見てたよ、あいつに怒ってんだよ、と。
その『あいつ』を、なんとなくみんなで無視するようになった。
誰かが言った。
呉宮はあいつが当てられた時だけ、鬱陶しそうに顔をあげるよ、と。
その『あいつ』を、なんとなくみんなで笑うようになった。
誰かが言った。
呉宮はあいつが傍を通る時だけ、なんだか苛ついてるよ、と。
その『あいつ』は、二度と来ないようにみんなでクラスから追い出した。
坂山美里は、追い出された『あいつ』だった。
二度と来ないようにしなければならないから、二度と来たくなくなるようなことをみんなにされた。
仲が良かった子も、そうでもなかった子も、気が合わないと思っていた子も、みんなおかしくなってしまったのだという。呉宮湊斗のせいで。
「留石くん、何か知ってるんでしょう? どうにかしてよ」
坂山は泣きながら繰り返して、最後には逃げるように去っていった。
彼女はきっと、全ては蛍のせいだと思っているのだろう。それは蛍が呉宮と共に肝試しをしたことを指しているのではなく、もっと、前段階での単純な話だ。
蛍が耐えられなかったせいだ。呉宮に目をつけられたせいだ。呉宮を上手くあしらえなかったせいだ。
教室に適合せず、強者に目をつけられ、平和な学校生活に「いじめ」などという無粋で気味の悪い現象を起こし、最後には加害者すら被害者に変えたせいだ。
学校の門を潜れなかった理由が、今になってよく分かる。
呉宮が既にこの世に居ないことなど、何の救いにも助けにもならないのだ。
蛍にはもう、集団というものが恐ろしくてならない。
***
坂山に言われたからと言って、どうにかしてやろう、なんてつもりは微塵もない。
だが、『呉宮』と思しき存在が勝手に現れた――というのは蛍としても簡単に放ってはおけない。
もう二度と関わらないで済む筈の存在が再び現れたなど、蛍としても勘弁願いたかった。
呉宮の一件を解決してくれたのは琴浪であるし、そもそも呉宮がああなったのは琴浪家が関わっている。
意見を聞くなら一番良い相手として彼を頼ることにしたのだが、琴浪から返ってきたのは心底どうでもよさそうな呟きであった。
「誰かが置いたんだろ、呉宮擬きを」
「もどき……?」
アルバイトを終えた蛍がその足で琴浪のアパートを訪ねると、彼はベッドの上でスーツ姿のまま寝転がっていた。どうやら昨晩倒れ込むように辿り着き、今日の夕方までその姿でいたようだ。片足に革靴が引っかかっている。
会社の飲み会でもあったのだろう。常から顔色の悪い男だが、二日酔いらしい彼はもはや土気色の顔で、水道水の入ったコップを蛍から受け取った。
ちなみに、生肉は廊下で激しく床を踏み鳴らしている。健康を尊ぶ生肉は、琴浪の不摂生を許すつもりがない。察するに、昨晩からずっとそうしていると見た。
「その、どうしてそんなものを置く必要が?」
「どうしてって……あんな狭苦しい箱にクソガキを四十も詰め込んだら、必要になるだろ、普通に」
目を瞬かせる蛍に、琴浪は濁った瞳を呆れたように細めた。
「いじめがなくならない理由なんて簡単だろ。楽しいからだよ。反抗されない相手を甚振るのはどうしようもなく楽しいからだ。その楽しいことをやりたい人間がまだ居るから、一番免罪符に相応しい存在を勝手に置いたんだろ」
「………………」
「呉宮湊斗はもうこの世の何処にも居ない。あいつは正しく責任を取った。だから『呉宮』と呼ばれる存在がまだ残っているようならそいつは擬きだし、誰かが勝手に作っている」
「誰かって、誰なんでしょう」
「知らねえよ。呉宮くんのお友達とかじゃねえの。趣味も似てんだろ」
蛍は数秒の間、呉宮の後ろにいた男子生徒数人の顔を思い出そうとして、すぐにやめた。その誰でもあり得るような気がしたし、誰でもないような気もした。誰だとしても気色が悪いことに変わりはない。
あるいは、誰もかも、ということもあり得るかもしれない。
呉宮の席に座る何かは、教室の全員に見えたそうだ。教員には見えていなかった、と坂山は語った。
もし、《《それ》》が呉宮の存在を願った人間にしか見えないものだとしたら、という予想は――出来れば、当たっていてほしくはない。蛍は静かに、祈るようにして目を閉じた。
「おい、吐くならトイレ行けよ」
「……大丈夫です。少し気分が悪いだけで」
「そうか。俺は吐くからトイレに行く。退け」
動く死体のような仕草で起き上がった琴浪は、押しやるように蛍の脇を通ると、しばらくの間トイレに籠もった。一晩かけて怒りの表明をしていた筈の生肉も、そろりそろりと不安げに扉に寄り添うレベルであった。
冷蔵庫を覗く。
一週間前には何かしら入っていた筈だが、今はもう空っぽだ。
「あの、ポカリとか要りますか?」
トイレから這い出た琴浪は、無言で床に落ちた封筒を指した。いつぞや、蛍が謝礼金として渡した札束が入っている。
買ってこい、の意だと察したので、蛍は一万円札を片手に近所のコンビニへと走った。
そうして。
琴浪の顔色が少しはマシになった頃。
「で? やんのか?」
「……何をですか」
「呉宮疑き」
「…………やる、とは」
分かっていて尋ねているのを察したのか、琴浪はただ笑うだけだった。ははは、と乾き切った笑いがほとんど真顔の琴浪の口から響く。
床に座る生肉を拾い上げた琴浪は、帰り支度を済ませた蛍の腕に生肉を押し付けると、口元だけを笑みの形にして言った。
「このバカがやれっつったら、ぺしゃんこにしていいからな」
生肉は、元気にワンと鳴いた。
蛍はその日、生肉と共に家に帰った。
なんだかとても、とてもとても妙な気分だった。生肉は生のお肉で動いているが、いつもひんやりつるりでしっとりとしていて、命の気配がない。
それでも確かに彼は生きていて、意思を持っている。そして、おいしくやさしい生の肉には、もしも友達が傷つけられたのならば、もちろん、その短い四本脚をいくらでも貸すつもりがあった。
蛍は一晩、胸の上に乗る生肉の重みを感じながら眠った。
次の日には久々に制服に着替えて、ひんやりとした生肉を抱えて学校に向かい、震えて吐きそうになりながら昇降口を乗り越えて、曲がり角の度に立ち止まって、生肉を涙で濡らしながら進み、 叩きつけるように扉を開いた。
二限目の途中だった。
全員が此方を見ていた。
「生肉」
生肉はワンと鳴いた。
やれとは言われなかったけども、震える声で呼ばれた己の呼称が何を指すか、生肉にはもちろん分かっていたのだ。
何せ、かしこい肉である。
呉宮疑きはその場でべしゃりと潰れて、
黒い液体を派手に撒き散らして、
見事に床の染みになった。
クラスの全員が悲鳴を上げ、何人かが吐き、誰かが蛍に怒鳴り、教師は教壇から何やら叫んでいたが、胸の内から廊下に飛び出た生肉がワンと呼びかけるので、蛍は走った。
そうは言われなかったけども、元気に響く犬の鳴き真似が、自分を呼んでいることくらい、蛍にはよく分かっていた。
蛍はそのまま十分も駆けて、それから派手に咳き込んでバスに乗り換えて、生肉と共に琴浪のアパートに向かった。
帰ってきた彼は玄関扉の前で座り込む蛍の顔を見ると、ほんの少しだけ感心したように片眉を上げ、ごくごく僅かに、分かりづらく笑った。




