◇琴浪家
『コトナミさんの家』には四人家族が住んでいた。
母と再婚相手の父親、俺と弟の四人である。
俺が二歳の時、捨てられるように離婚した母親は、俺を抱えたまま新しい相手を探した。
母は自分が一人で生きていけるとは微塵も思っていなかったタイプであり、実際その判断は正しかった。
俺の母親ははっきり言えば、ヒス持ちのメンヘラな上に自他境界が曖昧なカスである。
自分の求める目的に相手を付き合わせる執念に関しては並外れていて、結婚できたのも再婚できたのも、その辺りが強く関係していたんだろう。
俺が三歳の時に、母親は新しく見つけた男――琴浪淳平と再婚した。
高校の数学教師をしている、眼鏡をかけた冴えない地味な男だった。人生で恋人を作ったことは一度も無く、結婚をするつもりもなかったのだそうだ。
女慣れしていないせいで俺の母親みたいなのに捕まったんだろう。子供心にそう思っていた。
ただ、女を見る目という欠点を除けば、親としては実母よりも余程尊敬の出来る人ではあった。
連れ子である俺にも優しく、母親が突然意味の分からないキレ方をしようとじっと受け止めて宥めるような、凪いだ海のように精神の安定した人だった。
俺が何か悪いことをした時にも、母親が癇癪を起こした時にも、時間を割いてどうすればいいのかを話し合ってくれる人だった。
二年も経つころには、母はびっくりするほど情緒の安定した女になった。
何も投げないし暴れ回らないし叫び声を上げることもない。怒るにしたってちゃんと力加減をするので物が壊れることもなくなった。
実際に見ている俺が信じられなかったくらいだ。もはや不気味に感じた記憶すらある。
俺も俺で大人の真似をして反論するようなクソガキだったので、当然耐えきれなくなる時もあったと思うが、そんな時には必ず父が仲裁に入った。
父の持つ性根の優しさと、根本的には他人であることがよい緩衝材になったのだろう。
俺と母の諍いが修復不能な溝になることはなかった。
母は、最初はただ生活のために選んだ父を、その頃にはすっかり真剣に愛しているようだった。
淳平さんと出会えてよかった、とふとした時に呟いているのを覚えている。
俺としても、母が喧しくなくなったし良かったなと思っていた。
家の中に突如として暴れ出す怪獣がいるのは割と真剣に不気味である。
まあ、物心がつく前には母にとっては俺が怪獣だったのだろうが。
そんな生活が続く中、俺が六歳の時に望が生まれた。
弟が産まれると聞いたとき、初めはひどく恐れたものだった。
血の繋がらない息子である俺が、父にとって疎ましい存在に変わるのではないか、という不安だ。
人の良い父のことだから表面上は態度には出さないだろうが、内心思われているかもしれないと想像するだけでも辛いことだった。
結論から言えば、俺の不安はただの杞憂に終わった。
父は変わらず尊敬できる保護者であり続けたし、俺と望の扱いに差をつけるようなことは一度もなかった。
むしろ母の方が一時期露骨だった。
満ち足りた生活を得た母にとっては、俺は忌々しい過去の産物だった、という話だ。
一言で言うなら冷遇である。
非常にムカついたので、『家族内で孤立しろババア』と思って殊更に望を可愛がってやった。
全く碌でもねえ血である。
母と俺はどこまでいっても、しっかりと親子だった。
望は幸いにも、父の遺伝子を強く受け継いだようだった。
穏やかで優しい性分で、勉強が得意な代わりに運動が苦手で目が悪かった。
迷子になった時に助けてもらった警察官に憧れて、自分も警察官になると言い出すような単純な奴だった。
素直だと言い換えてもいい。
俺と違って友達も沢山いたくせに、俺とばかり遊びたがるような弟だった。
ただ、頭は良くても反射神経がないので流行っていたテレビゲームは大抵弱くて、助っ人に友達を呼ぶのが常だった。
そのせいで、俺は六つも下の弟の友達に混ざって遊ぶ羽目になった。意味が分からん。
僕のお兄ちゃん強いんだよ、とか言われても、中学生が小学生をボコってイキってたら大分ヤバいだろそれは。
友達に俺が作ったゲームの試作をプレイさせようとするのもまあまあ分からんかった。
俺はお前と違ってあんまりそういうの人に言わねえようにしてたんだよ。
何してくれてんだ。
ちなみに、弟のクラスには秒で広まった。
望の兄ちゃんゲーム作ってんだって、という噂は、もはや一学年丸ごと伝わっていた。
おかげさまで父にもバレた。
小遣い貯めて中古で買った型落ちパソコンなんかじゃなくて、もっと良いのを使いなさいと言われて、調べ物はしっかりするタイプの父はかなり良いスペックのパソコンを買ってくれたりなんかして、そのせいで母とは喧嘩になった。
そんなお金があるなら洗濯機を買い換えたかったのに、といつまでもぼやいていた。
確かに、その頃の我が家の洗濯機はやや調子が悪かった。脱水になると大分限界に近い音もしていたし、たまに止まった。
自分が困っているのに望も父も俺の味方だったので、尚更苛ついてとやかく言いたくなったのだろう。
ちなみに、庇われた俺としてはむしろ、どちらかというと母寄りの意見だった。
そんなの将来役に立たないんだからやめなさい、というのが母の言説で、まあ、俺もそうだろうなと思っていたので、パソコンを売れと言われた時にも特に反論はなかった。
ただの趣味だ。別に。大層な信念や目標があってやっていたことではない。
間違っても夢などと呼べるようなものではないし、叶えようとも思ったことはなかった。
それでも、無駄だと言い捨てる母とは違い、父は「好きなことをやっていいからね」とはっきりと言葉にした。
自分は言われた通りに進んできたような人間だから、好きなことをしているなら応援したいのだと言っていた。
それが心からの言葉であることは分かったから、母も以降は文句を言うことはなかった。
俺はその後、高校入学までになんとか一本のゲームを作った。
有名どころのRPGのパロディみたいなもんで、ネットの身内に少々ウケた程度のものだった。
途中に入れたミニゲームの方がやたら評判が良くて、ちょっと面白く思ったのを覚えている。
生活は限りなく平和だった。
楽しい思い出と小さな諍いとそれなりの反省を繰り返す毎日だ。
俺はこれから先もずっと、同じ日々がやってくると疑いもしていなかった。
おかしくなったのは、望が十歳になる年のことだ。
確か、誕生日の一月ほど前だったと思う。
珍しいことに、父から大事な話があると言われて、夕食時に家族会議が始まった。
父はまず初めに、自分の家は祖父の代からとある神様を信じていて、という話を始めた。
母も俺もそんな話は聞いたことがなかったので面食らったが、信仰自体は自由だとして、まずは受け入れた。
俺は呑気に、父が連れて行ってくれたバーベーキューに来てた人って、そういう人の集まりだったんかな、と思い出したりしていた。
その神様は家族の絆というものをとても大事にしており、教えに従っていれば円満な家庭が築かれ、神様の教えが広まることで優れた愛情を持つ家族だけが残っていくのだと言っていた。
いずれは神様の愛情が世界を満たして、誰も傷つかない素晴らしい世界が生まれるのだそうだ。
なんとも素晴らしく慈愛に満ちた神様である。
ただ、そんなご立派な神様には、ご大層な使命をまっとうするための力がまだ足りない。
恩恵を維持するために、十数年に一度、選ばれた信徒の家族を使って生まれ直さねければならないのだそうだ。
この場合の家族というのは、血の繋がった実子を指す。
特殊な処理を施した遺体を使い、母神像を作り直すことで儀式は完了するそうだ。
そして、今回の像の材料(というような言い方を父はしなかったが、実際のところはそうとしか言いようがない)に、望が選ばれたのだと父は語った。
儀式のために準備をしなければならないので、来月の誕生日会は出来なくなった、とも言った。
父は、何処までも真剣に、穏やかに、誠実な響きでもって詳細を説明した。
信頼のおける家族なのだからきちんと説明するべきだと思っているし、何より、絶対に理解してくれると信じている態度だった。
ああ。いや。
厳密に言えば、父は待ったのだ。
俺たちがこの話を理解したいと思える程に父に信頼を置くまで、ただ誠実に家族に向き合ってきたのだ。
決して裏切らず、確かな愛情をもって心を尽くして家族と接してきた。
誰だって、心から自分を愛して思いやってくれる相手の思想を邪険には出来ない。
散々他人の思いを踏みにじって我を通してきた母が今ではこの有様なのだから、父の愛情の成果は推して知るべしだった。
「僕が██様の教えに従って努力したことで、僕らは素晴らしい家族になった。だから、この御恩はお返しをしなければならないんだよ。
望はその名誉ある御役目に選ばれたんだ。これは、とても誇らしいことなんだよ」
ゆっくりと、理解の遅い生徒に説明をするように、父は繰り返し噛み砕いた説明をした。
母は呆然としていたが、やがて、辿々しくもはっきりと口にした。
「それは、誠也じゃ駄目なの?」
母親はほとんど無意識で言っているようだった。
このクソババア、と思ったが、まあ結局のところ俺も同意見だった。
これが決して避けようのない話で、誰かがいなくならなければならないのなら、それは俺であるべきだろうと思っていた。
ただ、俺は母親ほどバカではないので、自分では意味がないことも理解していた。
俺と父は血が繋がっていない。それだけは絶対に、どんな方法だろうと覆せない事実だった。
父は、選ばれたからには役目を果たさねば、と本気で思っているようだった。
ただ。
望にとってもこれはとても名誉なことで、と話している父は、ほんの少し困っているようだった。
それは言うなれば、日常にあふれる、ちょっとした困惑だった。
好きだったマグカップが欠けてしまっただとか、使い慣れた時計が見当たらないだとか、子供の誕生日にどうしても外せない仕事が入ってしまっただとか。
そういう、どこまでもありふれた類いの問題に対する困惑だった。
父にとっては御役目とはそういうものなのだ。
息子が妙な処置を施されて、居るかも分からない神様の像を作るために混ぜ込まれるというのは、父にとってはごくありふれた悩みの一つでしかなかった。
それは悪意を持って何かを為されるよりも、余程気味の悪い光景だった。
段々と状況を理解して泣き始めた母を、父はやはり困ったようにして宥めていた。
「大丈夫だよ、君には血を分けた大切な息子がいるじゃないか。これからは三人で望の分も楽しく過ごしていこう。望は全ての家族を幸せにするために立派な役目をこなすんだから、悲しむようなことは何もないんだよ」
俺は。
この時、どうしてもっと早く望の様子を確かめなかったのか、今でも後悔している。
泣き始めた母とは裏腹に、話を聞いている筈の望は少しも言葉を発さなかった。
おかしい、と思って斜め前に目を向けるのと、望が椅子から転げ落ちたのは、ほとんど同時だった。
物音に気づいて、母も隣に座っていたはずの望を見る。
望の意識はすっかりなくなっていて、ぐったりして倒れ込んだその様子から、飲み物に何か混ぜられたのだと察した。
母は金切り声を上げて、望の口に指を入れて胃の中のものを吐かせようとしていた。
救急車を呼ばなければ、と思った。
でも出来なかった。
呼んだら多分、父は捕まると思ったからだ。
あと。
分かっていたからだ。
助からない顔をしている。
いた。
「それに、望は詩織さんが欲しいって言ったんじゃないか。僕は、誠也くんだけでも良かったのに。君たちと暮らせるだけで充分に幸せだったし、僕にとってはこれからもそれは何一つ変わらないんだよ」
喚きすぎて過呼吸を起こしている母の背を、父は困ったように撫でていた。本気で宥めているつもりのようだった。
赤黒くなった望を母の手から取り上げて、ぐにゃぐにゃになった身体を引きずって、ちょっと重たいなという顔をしてから、父は言った。
「誠也くん。望を二階に持って行くのを手伝ってくれる? 候補者には傷がつかないようにしないとならないんだ」
本棚を運んだ時のことを思い出した。
一年前に、父の書斎に買い足したものだ。
父は自分だけで運ぶ気でいたようだけれど、かなり立派なものを購入したせいで、一人では到底無理だった。
サービスを頼んだら無駄遣いだと怒られると思って、と父は笑っていた。
その時と全く同じ顔をしていたから、俺は、全てを諦めることにした。
父は間違いなく正気だった。
突然狂ったからこんなことをしているのではなく、父にとってはこれが紛れもない常識なのだ。
「傷がついたらどうなんの」
俺は望の足を持ちながら聞いた。
「候補者から外されてしまうね。▇▇様は傷がついているものを嫌うから、望は受け取ってもらえなくなる」
「ふーん」
受け取ってもらえなくなるとどうなるのか、は聞かなかった。
興味がなかったし、聞いたところで何の意味も無かったからだ。
階段の一番上まで運び終えたところで、俺は、奪った望を階段下に放り投げた。
かなり最低の行為だと思う。
死んだ弟を投げるな。
馬鹿が。
くたばった方が良い。
だが、残念ながら、当時の俺にはこんくらいしか出来ることはなかった。
他にもっと良い方法はあったような気もするけれども、俺には思いつかなかった。
手のひらには、まだ温かくて柔らかい感触ばかりが残っていて、放り投げた時に心底、ほっとしたのを覚えている。
派手な音を立てて落ちた望はあちこちが変な方向に曲がっていて、階下からは母親の叫び声が上がっていて、父は、どうしてこんなことをするのかまるで分からない顔をしていた。
心底理解できないという顔をしたあとに、望の状態を見て、母親と同じように叫び声を上げた。今までに見たことがないくらいに取り乱していた。
失敗すると▇▇▇にいけなくなるんだってさ。そこにいくことが出来れば今後は一切の幸福が約束されていて、☆☆教を信じる人はみんなそこを目指すために全ての約束事を守っていて、だからこそ██様はその幸福の一部を現世に少しだけ分けてくださっているんだとさ。
ちなみに失敗すると候補者の肉親が死ぬ。▇▇▇にも行けないし、そのまま死ぬ。駆け寄った父は望の四肢をなんとか元の位置に戻そうとしていて、それからすぐに母に刺された。十数年ぶりに癇癪を起こして暴れ回った母は父も望もお構いなしに刺したので、絶対に受け取ってはもらえないだろう形になった。
血塗れになった母が、
階段の下から俺を見上げていた。
母による一連の行動が、復讐などというものではないことは理解していた。
与えられた幸福を突如として取り上げられたことによる怒りの発露であり、平気な面をして父に協力した俺への憂さ晴らしである。
後先考えずに行動するので、自分で殺しておいて、次は何をすればいいのかさっぱり分かっていなかった。
しばらく呆然としていた母は、ふとリビングを振り返ると、思いついたように立ち上がった。
望のカップに、まだ飲みかけのジュースが残っていたのが見えたんだろう。多分。見てはいないが、間違った予測では無い筈だ。
俺の母親は、こんな経験を乗り越えてまで生きようと思う人間ではなかった。
そういう訳で、数分もしない内に階下では人の動いている気配がなくなった。
母を止めなかったのは、単に、一歩も動けなかったからである。
俺は望を放り投げた時のまま、少しも動けずに階段の上で立ち尽くしていた。
自分の呼吸すら恐ろしく思ったのは、後にも先にも、あの時だけである。
その後のことはよく覚えていない。随分と騒ぎになったような気もするが、事態の割には少なかったような気もする。
ちなみに、たった一人だけ生き残ったもので、ご近所の噂では俺が家族をやったことになった。
家庭環境でのストレスで無理心中がどうたらこうたら、だってよ。好きだろ、そういう話。
年齢が年齢だったので、報道でも名前が出ることはなかった。事が露呈しないよう、☆☆教の人間がそれなりに手を回したのだと思う。
俺は一時、精神的にかなり不安定になったので数年は病院に入って、大体のことが全て台無しになった頃に出た。台無しになっただけで、別にそれ以外に問題はなかった。
ちょっとばかし就職に困って、カスみたいな会社を転々とした挙げ句にゴミみたいな会社に落ち着いて、夢なんか見ている暇もなくなって、あとは俺が放り投げた大事な弟が、受け取ってもらえなくなったせいで素敵な我が家に居座ることになっただけである。
それだって燃えた。蝋燭を我が家に持ち込みやがったバカとアホの肝試しのせいで。
まあ、おかげ、と言ってもいい。
いや。
おかげは言い過ぎだな。
言い過ぎだわ。
あのバカが我が家を燃やしたせいで、訳の分からん肉がやってきてしまった。
もう何処にも行けなくなって、元気に走り回るしかなくなった肉だ。
何がそんなに楽しいのか。俺にはさっぱり想像もつかない。
ただ、全てをぶち壊すのが少なくとも元は同じ存在だったというなら、それは俺にとっても、少しは納得出来る形なのかもしれなかった。
分からん。少しも納得はしていないかもしれない。
でもまあ、人生において納得できることなんてほとんどないから、今更だね。
「――――というのを三分未満にまとめると、『母親が再婚した相手がやばめの宗教の信者だったせいで俺以外の家族が全員死んじゃった上に弟が呪いと化して大変になったので現状維持のために霊能者のアドバイス通りに日記を書くしかなくなった件』になります。
あ。
日記のくだり要ります?
病院出てから実家に帰った時の話なんですけど」
ことん、と空になったカップが真横に転がった。
軽い音を立てて地面に落下し、ゆったりと円を描いてから止まる。
激辛ラーメンは、スープまで完飲されていた。
あ、ハイ。そっすね。
三分と言って三十分は流石に長いわ。
俺はそっと離席し、買い足した日本酒を供えてお暇した。
無論、一番高いやつである。




