【解決】
呉宮の家の人がやってきて、示談にしてくれ、と頭を下げて言われた。
してやる、という態度が、してくれ、に変わっていた。
僕を轢こうとした呉宮家の母親が、なんだか更におかしなことになっているらしい。
呉宮が死んでしまったことすら忘れて、健忘症のような状態になっているそうだ。
何処かで聞き覚えのある話だった。
僕の話を何の興味もない顔で聞いていた琴浪を思い出す。
その周りを歩き回っていた生肉のことも。
ついでに、めちゃくちゃになったマンションの一室も。
母さんは急に態度を変えた相手のことを訝しんでいたけれど、弁護士だとか警察だとか何だとか、元より存在する色々な面倒を、忙しい中でもまだ許容範囲内で済ませられそうな空気となったことに安堵しているのは分かった。
良いことだと思う。母さんの抱える負担はもう限界以外の何物でもなくて、あと少しでも重なれば倒れてしまいそうだったから。
僕がちょっと怪我をしたくらいで、お金も貰えるのなら、それは多分、良いことだと思った。
少なくとも、妹は好きな学校に行けるかもしれない。こんなことで貰ったお金で、と思うかもしれないが、お金はお金だ。
それから、当然ながら簡単にはいかないまま何度も家族会議をして、僕には分からないところでも母さんは色々なことの対応をして、考えて、そうして、結局はそのお金を受け取ったし、引っ越しもせずに済んだ。
相場よりもかなり高い金額だったそうだ。
母さんは気味悪く思っていたようだが、僕には少しだけ分かる。
人生には忘れてしまった方が楽なことがあって、でも、そういう記憶の方がよほど忘れることが難しくて、忘れられたこと自体に感謝したくなる時があるのだ。
何だったら、僕だって呉宮のことなんか忘れたかった。
必要な繋がりも思い入れのある品もないから、無理だろうけれど。
後日。僕は母さんにお願いをして、貰ったお金の中から少し──というには大分多い金額を分けてもらった。
理由は聞かれなかった。正確に言うと、聞かれたけど言わなかった。説明できることは何もないので何も言えず、それでも心の底から真剣には頼んだ僕に、母さんは困ったように溜息をついたけれど、結局はお金の入った封筒を渡してくれた。
そうして。
札束を包んだ封筒を手に琴浪を訪ねると、長靴が歩いていた。
室内を。
赤い長靴が歩いていた。
思わず来た理由も忘れて見ていると、「あんま見んなよ」と言われた。
そのおっさん長靴以外着てねえから、と追加で言われて、僕はぎこちなく目を逸らした。長靴は僕の隣で立ち止まった。
生肉が、抗議するように長靴を前足で踏んでいる。ありがとう生肉。大丈夫だよ。見ないようにするから。その、見られてはいるかもしれないけど。
「あ? なんだこれ」
お礼と共に札束を渡した僕に、琴浪はなんとも嫌そうな顔をした。普段は金が欲しいとぼやいているのに、いざ目の前に現れると嫌がるのは変な話だと思う。
「その、助けていただいたお礼です。琴浪が、何かしてくれたんですよね」
「何かって?」
「僕の家族を助けてくれるようなことです」
「助けてはねえよ。勧誘はした」
それが助けるということではないだろうか、と思ったが、僕は何も言わなかった。
琴浪が笑っていたからである。笑顔だったという話ではない。笑うに相応しくない顔だったが、琴浪は確かに笑っていた。
冷えた笑い声が響く中、長靴が逃げるように部屋の隅へと走って行った。
胡座をかいた琴浪は、ひったくるように僕から封筒を受け取ると、雑に中身を確かめた。
「まあ、居候のくせに家賃も払ってなかったしな」
そんなようなことを言って適当に床に放るので、僕は拾ったそれを琴浪の鞄に入れておいた。他のどこも、金銭を保管するには微妙な場所にしか思えなかったためである。
二時間後。
床に転がっていた琴浪は起き上がって言った。
「焼肉行くか」
「え」
「奢ってやるよ」
「あ、はい」
鞄の封筒から二枚抜いた琴浪は、僕と生肉を連れて駅の近くにある焼肉チェーン店へと向かった。
琴浪が自ら食事に積極性を示すのはほとんどないことである。生肉は嬉しそうに、跳ねるように歩いていた。
琴浪は牛タンばかり食べていたし、生肉はやってきた肉を焼く前に食べていた。
僕はといえば、何を食べたのかも、味もあまり覚えていない。
ただ、良かったな、とは思った。
やき-にく 【焼(き)肉】
①肉を焼いたもの
②人の家で肝試しをした挙句に勝手に死んだ阿呆を指す呼称
③みんなでたべるとおいしいもの




