【日記】
「お前、いつになったら学校戻るんだ」
ある休日。
食材を片手に訪ねた僕に、ソファに寝転がったままの琴浪はそんな言葉を投げた。
昼飯はいらないと言われてしまって、生肉を膝に乗せたまま勉強を始めていた僕は、一瞬言葉に詰まってから、「まあ、もうしばらくは……」などと、濁した答えを返してしまう。
母さんは、無理に高校に戻れとは言わなかった。
なんだったら転校したって構わないし、高卒認定を取って好きな大学を受ける道を選んだっていい、とも言ってくれた。
蛍は勉強が好きだったでしょ、好きなことは我慢しなくていいからね、と。
別に、勉強が好きだと思ったことはあまりないのだけれど、僕が勉強をすることが母さんにとって安心できたり、嬉しいことだというのなら、ちゃんと勉強をするつもりではいる。
ただ、お金のことだってあるし、進学をどうするかは保留中だ。
母さんは、心配しなくていいからね、と言ってくれるけれど。
それに。
今はまだ、学校の門を見るとどうにも冷や汗が止まらなくなってしまう。
バイトを始めるのも、琴浪の家に来るのもこんなにも簡単なのに、どうして学校に行く程度のことができないのか。
校内カウンセラーの元に通うことから始めてもいい、と言われているが、結果は同じだった。下駄箱に向かっただけで吐きそうになる。というか、吐いた。
どうやら僕は自分が思っているよりもよっぽど、学校というものが恐ろしかったらしい。
曖昧かつ不恰好な笑みを浮かべる僕に、琴浪は特に興味もなさそうな顔で適当な相槌を打った。
進路について真剣に聞こう、などとは露ほども思ってないのだろう。思ってもらったところで困るので、僕としてもそのまま流してもらうのが有り難い。
休日の琴浪は、大抵の場合はソファに寝転がって天井を見上げている。
放っておくと何時間でもそうしている。ずっと横になっている割に、少しも疲れが取れているようには見えないのは何故だろうか。
会話が続く気配もなかったので、教科書を捲ってノートに向かう。
僕が勉強していると、生肉は時折興味を持ったようにテーブルに乗っかって、じっと教科書を眺めていることがある。
ひょっとすると、文字が読めるお肉なのかもしれない。
気まぐれに、軽い足し算の問題を作って渡してみると、とちとちと足音で返答された。
合ってる。
もう一問出してみた。
合ってる。
賢い生肉だった。
「あー、書くことが浮かばん」
一時間が経った頃。
ぼやいた琴浪はスマートフォンを投げるように転がした。
天井を見上げたまま、ソファから垂れ下がった足が貧乏揺すりを繰り返し、時折舌打ちが響く。
アルバイトの時間が近くなってきたので、そろそろ琴浪のご飯を作っておかないとならなかった。
教科書を閉じて、生肉と一緒にキッチンへと向かう。琴浪が何やらぼやいているのが後ろから聞こえた。
書くことがない、とでも言っているのだろう。
僕からすれば、無いはずがないと思うのだが。
焼肉だった頃とは違ってめっきり何も見えなくなってしまったので、琴浪がどんな日常を送っているのかは、彼自身が教えてくれない限りは認識できない。
ただ、見えなくとも分かる。僕からすれば重要でしかないようなことでも、琴浪は別に書くほどのことではない、と切り捨てているに違いなかった。
そうこうしている内に、今日の生肉は、白菜と合わせて具沢山の生姜スープになった。
主食になるものが一切無かったので、とりあえず一緒にカロリーメイトが添えられている。
冷蔵庫にはどういう訳かキレートレモンしかなかった。
多分だが、カフェイン系のドリンクと間違えて買ったのだと思う。
「……そういえば、琴浪はどうして日記を書いているんですか」
最近買い足したローテーブルに皿を運び、割り箸を並べる。
聞いておいてなんだが、答えが返って来ることを想定した問いではなかった。
琴浪はほとんど自分のことを話さない。
僕が琴浪の家に肝試しに行ったのも知っているのに。
知っているからこそ、かもしれないが。
なんとも怠そうにテーブルまでやってきた琴浪は、卓上のカロリーメイトを嫌そうに見つめたまま、ぶっきらぼうに呟いた。
「観測によって認知されるから」
「……はい?」
「お前はさ、誰も知らない、見ていない森の中で木が倒れたとしたら、その木は音を立てて倒れたと思うか」
「…………ええと」
どこかで聞き覚えのある話だった。誰の言葉かは全く知らないけれど、なんだったか、存在は認知によって成り立つものである、というような話だった気がする。
『木が倒れた音』は人間が受け取って初めてそう認識される、みたいな。認識されないものは存在しないのと同じ、なんだとか。かんだとか。
「……それと、日記を書くことにどういう繋がりが?」
「俺が書いている限りは読まれている」
「……………………」
つまり、琴浪は誰かに認識されるために日記を書いている、ということだろうか。
いやでも、誰にも読まれない日記を書き続けている理由としては、それはおかしい気がする。
琴浪は書いた日記を何処にも公開していないし、誰にも見せていない、筈だ。
そっと、生肉と顔を見合わせる。別に答えを求めた訳ではない。
話の行き所を探して、見つからなかったので辿り着いた先がそこだった、というだけだ。
生肉は僕と琴浪を交互に見やると、並べられた器を避けて、とちとちとテーブルの上を歩いて、そうして対面に座る琴浪の膝へと降りた。
箸を手に取った琴浪は、構うことなくスープの具を掬って食べている。
黙々と箸を進める琴浪は、結局、聞いたところで訳が分からないまま首を傾げる羽目になっている僕を見やると、随分とやる気のない態度で口を開いた。
「書いている限りは、『日記を書いている俺』が存在している」
「………じゃあ、書かなくなったらどうなるんですか」
「知らん。存在しなくなるんじゃねーの」
なんとも曖昧で大雑把で、無責任な答えだった。
「……ちゃんと書いてくださいね」
ただ、それ以上は聞きようがない空気だったので、僕が言えるのはこれだけだった。
返事は特に無かった。
◆なまにくの にっき
なまにくもかくから
だいじょうぶだよ




