42 魔王、レオ・アルシエル
火の玉が目の前に迫り死を覚悟した瞬間、セシルは横に引っ張られた。壁が崩れるような轟音がし、悲鳴を上げれば体を優しく包み込まれた気がする。
(死ん……だ?)
熱さはない。むしろ温かい。セシルがそっと目を開けると、色が目に入った。黒、金、赤。それが徐々に形として認識され、セシルは顔を上げた。視界に銀が広がる。セシルを抱きしめていたのは、軍服を着たレオだった。黒地に金の刺繍が施され、赤いふさがついた煌びやかな勲章。マントは光沢のある黒で、魔王としての威圧感を出していた。
「魔王……様?」
「セシル、無事か」
レオは息を切らし、汗が浮かんだ顔でセシルを見下ろしていた。銀糸のような髪がセシルの頬にかかり、視界はレオの顔と銀の世界。まるで、銀の檻に閉じ込められたようだ。
「あ、はい……」
セシルの心臓が早鐘を打つ。九死に一生を得た衝撃からか、突然美貌が目の前に現れたからか。セシルの頭は「助かった」、その事実以上のことを考える余裕はなかった。だが慌てふためいたのはレティシアで、レオの前に躍り出て懇願する。
「レオ様! どうか目をお覚ましくださいませ! わたくしと共に……!」
その言葉が最後まで続くことはない。レオが固まるセシルを片手で抱き寄せたまま、陶酔しているレティシアへと冷酷な視線を投げつけたからだ。ビリビリと大気が震えるほどの圧力と殺気がレオから放たれており、レティシアは一歩も動けない。声を出そうとしても喉がひくつき、言葉が出なかった。
「俺の名を呼ぶことすらおこがましい。貴様は俺が手を下すにも値しない」
そう言い放つと同時に指を鳴らし、レティシアの意識を刈り取った。圧倒的な強者。セシルはレティシアが倒れ伏すのを見て、初めて肩の力を抜いた。同時に、緊張して体が強張っていたことに気づく。
「魔王さ、きゃっ」
ほっとしたのもつかの間、セシルは再びレオに抱きしめられ圧迫感に包まれた。それに軍服のボタンも痛い。
「魔王様、痛い、痛い!」
セシルがレオの胸を叩いて抗議すれば、やっと放してもらえた。
「……勝手に攫われるな」
ぼそりと力なく呟いたレオは、不安そうに眉根を下げていた。心配させたことが分かって、セシルは胸が苦しくなる。
(心配、してくれたんだ……)
申し訳ないのに、なぜか嬉しい。見つめられると、なんだか恥ずかしく、頬が熱くなってきた。そしてレオはセシルの左頬を撫で、焦げた髪に目を留めると眉間に皺を寄せた。鋭い舌打ちが入り、優しく髪に触れる。セシルの視界の端で、傷んだ髪が切られた。
「お前を危険な目に遭わせてしまった……俺の落ち度だ」
「そんな、魔王様のせいじゃありません」
そうセシルが首を横に振るが、レオは苦々しそうに顔を歪める。
「いや、警戒していたのにこの様だ……暗殺されていた可能性もあった。先ほども間に合わなければ、お前は……」
レオはそこで言いよどみ、ぐっと唇を噛みしめた。本当に、もうだめかと思ったのだ。セシルが自分の守りの中から消えた瞬間、怒りに気が狂いそうになった。失態を犯した自分が情けなく責めたてたのだ。そしてこうして腕の中でぬくもりを感じれば、やっと安心ができた。
「すまなかった……」
レオたちは前々から反平和協定派の動きを監視していた。式典が終わってからは、セシルの周りの護衛の人数を増やし、念入りに警戒に当たっていたのだ。だが、セシルは消えた。外から侵入された形跡はなく、まさかと思って絨毯をめくると転移の魔法陣があった。
どうやら城内に内通者がいたようで、そちらの洗い出しはユリアとガランに任せ、レオはその魔法陣を解析してここに転移してきたのだ。むろんそんな芸当ができるのは転移魔法に優れたレオのみであり、後続部隊は遅れて到着する。そのレオを持ってしても、魔力は半分が削られ息もあがった。
「セシル……」
レオは苦しそうな声でセシルの名を呼び、頬に手を添えた。呼吸を整え、真剣なまなざしで射抜く。
「お前は俺の専属画家だ。そして俺の外見だけでなく、俺自身を見て描こうとしてくれる……あんなにボロクソに言われたのは初めてだ」
「まさか、聞いてたんですか!」
「故意ではない……転移に時間がかかったためだ」
使用された魔法陣があったとは言え、本来転移魔法は行ったことのない場所に飛ぶことはできない。転移先を明確に思い浮かべ、座標を固定しないとあらぬところへ飛んでしまうからだ。そのため、座標を合わそうと意識を集中すれば、ごくまれに意識だけが先に転移先とつながるのである。
「は、恥ずかしすぎます!」
「……だが、俺は嬉しかった。俺のために怒り、俺を恐れず、俺と対等でいるような口を効くのだから」
レオが魔王となってから、いや子どもの時から感じていた他者から一線を引かれる孤独感を、セシルから感じたことはなかった。セシルの瞳に映るのはただ心地よい敬愛と美への探求心。
「セシル」
名前を呼ばれれば、なんだかセシルはくすぐったくなる。頬に添えられた手が熱い。いや、セシルの頬がさらに熱を帯びたのかもしれない。吸い込まれそうな、魅惑的な紅い瞳がセシルを見つめている。
「俺は、お前を離さない。専属画家としてだけではなく、一人の人間として俺の側にずっといろ。……好きだ、セシル」
ドクンと、心臓が跳ねた。鼓動が加速し、きゅーっと胸が閉まる。息をするのも忘れて、セシルはレオの熱がこもった瞳を見上げていた。
(え、魔王様が、私を?)
レオはそっとセシルの頬を撫で、甘く優しい声で言葉を続ける。
「お前が攫われて初めて、大切に想っていたことを痛感した……思えば、お前の絵を最初に見た時から、惹かれていたのかもしれないな」
視界には銀のカーテンとレオの美しい顔。頭の中は、レオでいっぱい。
(落ちない方が、どうかしてる……)
セシルの心臓は正直で、熱を持った体に心を添わせる。好き。その気持ちが今、形になった。セシルは静かに深呼吸をすると、高鳴る鼓動を落ち着かせる。
「魔王様……私は、絵を描くことが好きです。それと、肉を食べることが好きです」
突然絵と肉について話出したセシルに、レオは困惑と不安を表情に浮かべる。それを包むようにセシルは気恥ずかしそうに頬を染めてほほ笑んだ。
「でも、一番は魔王様を見ながら絵を描いて、魔王様と一緒に肉を食べることが好きです。魔王様がいるから、いいんです」
レオに会い、共に過ごすようになってからセシルの世界には色が溢れた。嬉しい色、怒った色、楽しい色。それはレオがいるから。
セシルはレオが伸ばしていた手を取って、両手で包みこんだ。大きな手。その手のひらは剣を鍛錬しているからか、少し硬い。レオに触れていると思うと恥ずかしく、俯いてしまう。でも気持ちを伝えたいと、セシルは思い切って顔を上げた。
「魔王……レオ、様。私も、好きです。レオ様が、好きです……一生、側で絵を描かせてください」
まるで夢でも見ているようだ。熱に浮かされているように、セシルは溢れる想いを口にした。セシルが想いを伝えた途端、レオは安心したようにくしゃりと笑う。セシルが初めて、自然なレオの笑顔を見た瞬間だった。
「レオ様が、笑ってる……」
そう言われてレオも初めて気づいたようで、驚いた顔で空いている手を顔に当てた。
「笑ったのか……」
「はい。とてもきれいな、温かい笑顔でした」
「そうか……セシルがいるからだな」
そう甘い声を響かせ、またレオは穏やかな笑みを浮かべたのだった。そして互いに微笑みあい、甘やかな空気が流れ始めたところで、二人から少し離れた床が光り、人影と共に知った声が飛んでくる。
「レオ様! ここ北の街にて、反平和協定派が蜂起しました! その数3000!」




