35 闇を纏う魔王様
母は、自分を通して別の誰かを見ている。それが、レオが物心をついてから母親に対して抱いた印象だった。記憶にある限り、母親がレオの名を呼んだことはない。酒を飲み、泣き崩れては恨めし気にレオを見る。その時は、決まって誰かの名を口にしていた。それが父の名だと気づくのに、時間はかからなかった。
おそらく、母親はとうの昔に壊れていたのだろう。レオを無視し、食事を与えないこともあった。かと思えば、抱きしめ料理を作ってくれる。そんな酷く矛盾したじょうたいが、いつのまにか当たり前となっていた。
母親はレオを通して誰かを見ながら、「どうして私も連れていってくれなかったの」と嘆く。後になって、母親は遠い村の出身でそこで許嫁がいながら叶わぬ恋をし、その相手と心中をはかったと聞いた。毒を飲んだものの母親だけ生き残ってしまい、生まれた村を出てここに辿りついたのだ。
やがて母親はレオを使って客を取るようになり、レオは気味の悪い視線に耐えながら人形のように心を殺し続けた。触れられなかったのが幸いで、着飾られては眺められた。レオは抵抗せずに受け入れた。とうに抵抗できるほどの気力は残っていなかったからだ。
そんな日々が続き、レオが20歳になった頃。村に一人の画家がやって来た。名をトラストといい、美しい景色を探して旅をしていると言っていた。
「へぇ、こりゃまた。ぼうや、お兄さんと遊ばないかい?」
栗色の髪に水色の瞳をした青年で、村中の風景を描いていた。不思議なもので、見慣れた景色もその男が描けば極上の景色に見えた。温かく懐かしさを感じる絵で、初めて絵を見たレオは、たちまちその魅力に引き込まれたのだ。
レオはユリアと共に、一日中その男が絵を描く様子を見ていた。ユリアは飽きてどこかへ行くことが多かったが、レオはずっと見ていた。トラストとたくさん話をした。村から出たことがないレオには、トラストの話は全て新鮮に聞こえた。人が道を埋め尽くす王都に、賑やかな屋台が集まる広場。雪原に砂漠、海に滝。トラストの絵はまるで本物が目の前にあるようで、レオは自分まで旅をしている気分になれた。
彼の存在が母親の耳に入るのは時間の問題で、母親はトラストにレオの絵を描くように依頼した。トラストはレオと母親の関係が良好でないことを察しており、何度も気遣っていた。そして申し訳なさそうに筆を取り、急いで絵を描き上げたのだ。母親には一か月ほどかかると嘘をつき、トラストは多くの時間をレオに割いた。
レオの無感動な瞳にもう一度感情が映るように、彼の感性に訴え、引き出した。くしくもレオは、ある才能を持っていた。
「レオ、今は辛くても、必ず光はある。天からの贈り物はその顔じゃない。才能だ……だから、時が来たら必ず磨くんだ。いいね」
トラストは村に二か月滞在し、レオの姿絵を三枚描き上げて旅立ってしまった。母親はそれらの絵を一瞥しただけで、何の感想も述べなかった。その後すぐに机の上から消えたため、売られたのだろう。
そしてさらに10年が過ぎ、母親は病でこの世を去った。母親の死に顔を見てもレオが泣くことはなく、精気が抜け落ちた顔で「終わった」と呟くだけだった。その後レオはユリアの家に引き取られ、魔王候補を捜し歩いていたジルバの目に留まり、王都へ連れられるまで静かに過ごしていたのだった。
(……嫌な、夢だ)
瞼を開けたレオは、暗闇の中のろのろと視線を彷徨わせる。夕食を取って湯あみをし、ワインをひっかけたところで椅子に座ったまま寝てしまったらしい。しかも昔の事を夢に見てしまった。あれはもはや夢というより、記憶の再生である。
(思えば、トラストは一度も俺を美しいとは言わなかった……)
最初に会った時は驚いて顔を凝視されたが、続く言葉を飲み込んだように思えた。そして彼が描いたレオの絵は、儚い美しさの中に謝罪が込められていたような気がした。
(もう、25年前か。今思えば、魔人の絵描きは珍しかったのだな)
魔王になってから、普通の魔人は絵を描くことができないことを知った。彼は人間に教わったのかもしれない。
(今もどこかで絵を描いているのだろうか……)
レオは彼の絵が好きだった。そしてできるならもう一度会いたかった。自分の絵を描かせて広く普及させようとしたのは、もちろん人間との平和が第一目的だが、気づいた彼が会いに来てくれるかもしれないと思ったからだ。
「馬鹿馬鹿しい」
昔を思い出して感傷的になりすぎたと吐き捨て、グラスに残ったワインを飲み干す。
(昔のことなど関係なっ……)
グラスを机に置いたちょうどその時、ぞわりと背筋に鳥肌が立った。弾かれたように顔を上げ、周囲の気配を探る。
(馬鹿が、のこのこ侵入してきたのか)
先ほどの感覚は、敵が城の敷地内に出現したことを示すもの。窓から外を伺うと、背後に音もなくユリアが降り立った。




