28 茶色い猫と魔王様
髪と同じ茶色い毛、柔らかく太陽の匂いがするちんまりとした手には、ピンクのぷにぷにした肉球がある。
「何なのこれぇぇぇ!」
目の前の現象が信じられずに叫ぶセシルに、慌てふためく侍女。ガランはぽかんと口を開けていたが、手元から消えた袋に目をやり理解すると、深々と溜息をついた。
「ぼくのまたたび吸ったんでしょ」
呆れた顔でジト目を向けられ、セシルは膝で立つと必死な顔でガランの肩を掴み懇願する。
「ごめんなさい! どうしても気になったんです! 反省してますから、お願いしますからもとに戻してください!」
猫の手になっているのに、ガランの肩は掴めるし普通に感触もある。ガランはセシルの手を取って外し、これみよがしに溜息をついた。
「馬鹿な事するからだよ。明日には消えてると思うよ」
大した問題ではないと、ガランは軽く答える。だが自分の体が変化しているセシルにとっては、そんな簡単に済ませられるものではない。
「ほんとですか? だって、耳生えて手が変わったんですよ! というか何で? それ、魔法かなんかですか?」
混乱するセシルは早口でまくし立てる。それをガランは「落ち着けと」手で制し、ベンチから降りて地面に転がっている袋を拾った。ささっと紐を解いて、いつもように嗅ぐ。そのせいで猫要素が加わったセシルは、ひぃと悲鳴を上げた。
「あのな、これはまたたびって言ってるけど、ほんとは猫の姿になるための魔法薬なの。だから、こうやって吸ってるんだよ。それを中途半端に吸っちゃうから、耳と手が変化したんだ」
馬鹿だねと呟いて袋を懐にしまうと、ガランは手をポンと打ち鳴らし、空間から鏡を取り出した。鏡を向けられたセシルは、自分の変化に目を見開く。頭の上には茶色い猫耳がひょこっと出ており、セシルの動揺を表すように激しく動いていた。不思議なことに、人間の耳は消えている。手は腕の辺りまで猫のものであり、体と違和感がすごい。
「……どうしよ。これじゃ、ご飯も食べられないし絵も描けないよ」
愛らしい手を見下ろし、セシルは絶望する。毛の間から出ている爪が目に入って、試しに伸ばしてみたらひょいっと爪が出てきた。もうどうなっているのか分からない。
「筆もフォークも持てるよ。僕、普通にご飯食べてるし」
そういえば先ほども器用に紐を緩めていた。セシルは気を落ち着かせようと、地面に座り直し、試しに筆を持ってみた。すると何故か分からないが持てる。しかも感覚は人間の時と変わらなかった。
「え、なんで?」
「さぁ、それは僕も知らない」
そう言うと、ガランはズボンのポケットから懐中時計を取り出して時間を確認し、「これから仕事だから」と歩き出した。
「え、私はどうしたらいいんですか?」
「いつも通り生活したらいいんじゃない?」
戸惑うセシルを振り返ることなく、軽く手を振ってガランは庭園を後にした。侍女もセシルに「大変お似合いでございます」と声をかけてから、ガランについて行く。
(似合ってても嬉しくないよぉ。こうなったら、猫耳のスケッチをしてユリアさんや魔王様につけてやるんだから!)
どう転んでも絵に生かしたいセシルは、辺りに散らばっている道具を片付け始めた。今日は部屋に籠って絵を描くことに決めた。食事は誰かに運んでもらい、絶対に外には出ない。
(こんな姿、誰かに見られたら、恥ずかしくて死ねるわ)
スケッチブックに着いた砂を払い、道具を持ったセシルは立ち上がって城へと戻る。
「私は猫よ。猫のように素早く移動すれば大丈……ぶ」
自分に言い聞かせ、外廊下から城に入って部屋に戻ろうとしたセシルは硬直した。そしてその相手も。
「ま、魔王、さま」
さーっと血の気が引いていく。レオの視線は頭の上に注がれており、それが徐々に下へと降りて次は手で止まる。その顔は驚愕しており、口が半開きになっていた。
(いやぁぁぁ! なんでいるの! 最悪のタイミングよ! あの不機嫌魔王様が驚いて、あぁぁ!)
珍しい表情への観察欲と羞恥心の間で激しく揺れるセシル。間の抜けた顔をしていたレオだが、次の瞬間には眉間に深い皺が刻まれ口元を手で押さえた。
「……それが解けるまで一歩も部屋を出るな。食事は運ばせる」
そう早口で言いつけるやいなや、パチンと指を鳴らした。するとセシルの足元に魔法陣が出現し、光ると同時にセシルの姿は消えたのだった。レオのお得意転移魔法である。そして口元を押さえたまま振り返り、ここに連れてきた元凶を睨みつけた。
「ユリア……貴様、何のつもりだ」
ユリアは本日セシルの護衛をしていた。そのユリアが突如レオの執務室に現れ、「セシルちゃんが大変なことになってるから庭園前の廊下に飛んで!」と、叫んだのが数十秒前。
「え、大変なことになってたでしょう?」
あっけらかんと返すユリアに、悪びれる様子はない。レオは圧をかけて睨むが、効果がないことは長年のつきあいで重々承知だ。
「俺は襲撃でも……ちっ、もういい」
俺が馬鹿だったと盛大に舌打ちをして、レオは踵を返した。通り過ぎる時にもう一睨みすることも忘れない。
「あら~。でもいいもの見られたでしょ? 口が緩むほどにやけたくせに~」
「吐き気がしただけだ」
レオは口元から手を外し、無表情に戻って速足で歩きだした。それに対しユリアは楽しそうに、からかいを存分に含ませた声で返す。
「ふ~ん。じゃあ、あの可愛いセシルちゃんを城中の子に見せてまわっ……」
最後まで言い切らないうちに、レオから殺気が放たれユリアは口を閉ざす。特殊訓練を受けたユリアですら、鳥肌が立つ殺気と魔力。からかい過ぎたかとユリアはお遊びモードを終了し、隠密の気配を纏わせた。
「では、セシルちゃんのところへ救援に行ってまいります」
今頃部屋に飛ばされて、これからどうするか困っているだろうと、ユリアは姿を消した。一人執務室へと戻るレオは舌打ちをし、先ほどの姿を思い出し眉間に皺を寄せると口元を隠すように手を当てる。強く印象に残った可愛い姿に、心拍数が跳ね上がった。その意味を知るのは、もう少し先のことである。
一方部屋に飛ばされたセシルは、魔王に見られた羞恥でベッドの上で転がっていた。他の人に見られなかったのはよかったが、見られた相手が最悪だった。
「あぁぁぁ! 次からどんな顔して魔王様と会えばいいの? 無理!」
そう叫んでのたうちまわり、手足をばたつかせる。そしてはたと気づいたセシルは手足を止め、がばりと起き上がった。
「しまった、なんでガランさんが猫になってるのか聞きそびれた」
あの袋を使って猫になっていることがわかったからこそ、何故猫になっているのかが気になってしかたがない。セシルはユリアが水と軽食を持って来るまでの間、悶々とその謎について考えるのだった。




