22 兄と妹の未来
眠ったままのエルが見つかって半月が経った、新月の夜だった。
寝ずにエルの枕元にいた姉さんが過労で倒れるのを防ぐため、メイド頭(頭と言っても一人しかいない)のばあやが姉さんを窘め、目覚めないエルから引き離したことで、姉さんは就寝済み。父さんは書斎でおそらくエルのこの現象を解明すべく、本を読み漁っていたと思う。
俺は、一人になったエルが寂しがるといけないと思い、エルの部屋に行った。
部屋に入る直前にとても嫌な予感がした。
エルに何かあったのでは?!と本能の警告を無視して部屋に入った途端に、圧倒的な魔力に押しつぶされそうになった。
なにが。分からない。すべてだ。
肉体が、心が。
潰される潰される潰される――――!
「……――お前は、あの場にいたヒトの子か」
「はっ――……」
圧倒的な「力」から解放されて這いつくばる。呼吸が止まっていたらしい。殺される、とかそういうことすら考える余裕がなかった。
はぁはぁ、ぜぇぜぇと、俺とエルの部屋の絨毯に蹲って、息を吸う。それすらも震える。
「ヒトは脆いな。当然か………で……だからな」
ソレがつまらなさそうに俺のそんな様子を見ている気配がした。
ソレの言葉は、一部分からなかった。耳に入っているのに理解できない。幼かったから、とか、そういう簡単な理由じゃなくて、今思い出してもその部分の言葉だけがどうしても空白になっている。
俺が口の端から垂れた涎を袖で拭い、目を上げようとするのに、恐ろしさに身体が震える。
「――なるほど。この前ははっきりとは意識しなかったが、お前、この子供とは分かたれた魂の片割れなのだな。番が我からお前を守ったのはそういうわけか」
この子供というのがエルだと分かり、俺は反射的に顔を上げた。
命とか、理性とか、そういうのがエルの傍に相手がいると思った瞬間に吹っ飛んだ。
そこにいたのは、大人の人間の男だった。当時は大人、という印象しかなかったが、思い返せば若い顔だったように思う。
しかし、顔の見た目から分かる年齢なんてきっと目の前の存在の正体を図るには全く意味をなさないだろうことも瞬間的に分かった。
見た目は人間。例えば目が3個あるとか、腕が4本ある、とか、そういう異形ではなく、一般的な人間の特徴を持っていた。
直毛の髪は銀色で長く、後ろで一つに括っており、金色の目がこちらを見下ろしている。顔の造作は人間というよりも人形とか、彫刻、と言った方が正しい整い方で、悪く言えば、整い過ぎているがゆえに人間味のない顔だった。
神話の世界のサテン生地の長い一枚布が似合いそうな雰囲気なのに、貴族にありがちな、ローブにシャツ姿の別段目立たない恰好をしている。
しかし違うのだ。
目が――いや雰囲気が。ニンゲンではない。
人間っぽく装ったナニか。
あなたは、なに?
そういう疑問は声になっては出なかった。声が出ていくのを、恐怖という本能に支配された喉が邪魔して潰した。
しかし、男は分かっているように俺に告げた。
「ヒト、に見えないか?あぁお前、少し敏感な方なのだな。せっかくヒトらしい外観を取ってみたのにな」
案外饒舌なソレは冗談っぽく俺に答えにならない答えを返した。
なんで、と思うとすぐに「ヒトと無用な争いをするつもりはないからだ」と返ってきた。
思考は読まれているらしかった。
「ヒトは我らに交わりたがるが、必要に迫られなければ我らは手を出さぬ」
必要に迫られなければ、というところに引っかかった。必要なら手を出す、ということを言っているに等しい。
そして、人らしい外観と言っている時点で人でないと言っているようなものだ。
「我らに手を出そうなど、ヒトでなければ考え付かぬであろうな。ヒト故に、かもしれぬ。ヒトは忌々しく身のほど知らずだな」
男の、憎悪も、怨嗟も、何も感じられない平坦な口調は、それだからこそ余計に怖かった。
「……ん。お前、片割れか。そうか。お前なら、ややもすれば――」
男はそう言った刹那、俺の前にいた。
何も感情を感じられない瞳のまま、俺の頭をその手で無造作に掴む。その途端、ぼうっとした靄の様なものが頭を包み、何も考えられなくなった。
いや、それでも感触は残っている。肉体的な感触ではなくて、単なる――印象だけど、なんだろう、頭の中を弄られているようなこの感じは。
「――やはりお前の中には入っていなかったか」
男は予想していたかのようにその場で俺の頭から冷たい手を放した。
その場で俺がションベンを漏らさなかったのは、手を放されてもなお全身の筋肉が恐怖で強張っていたからかもしれない。
男はエルの傍に戻ると、這いつくばったままの俺に、一切目を向けようとせず、眠ったままのエルを見た。
「あの日、我が番が、ヒトに傷つけられたとき、我はやっと、長年探し求めていた番の居場所に気付けた」
ソレは、俺に話しかけたいとか、俺と会話したいという気はないようで、ただ独り言を言うように言葉を流していく。
「我が駆け付けたときには、番の体は既に傷つけられていた。しかし、魂は守られていた。この子供がいかようにしてか番の魂を守ったからだ」
「番を覆うようにこの子供が魂を流し、その魂が全てその体から流れ出そうになる前に、子供の魂が番の魂と混ざり合った」
「この子供の魂を救うことを番が望んだからであろう」
「番はこの子供が“名付け”をするのを許したようだからな」
「我らであればヒト如きの名づけなど、その魂を縛るものにはならぬ」
「しかし、繋がりとはなろう」
「番は名を媒介に子供の魂を救うため、自らの魂とこの子供の魂を繋げた」
「その子供は、我らに近しい魂を持っているようだったしな。馴染みやすかったのも幸いしたのだろうな」
男はエルの寝台に腰掛け、手を伸ばし、エルの頬をするりと手で撫でた。
一方的に聞かされる話に出て来る「番」というのがりーだということに、ようやく俺は気づいた。
「我は番に手を出した身の程知らずのゴミを片付けた後、番の魂を子供から分離させようとしたが、番はそれを拒んだ」
「あの場で番の魂をこの子供の魂と分離すれば、体に戻っていないこの子供自身の魂が再び流れ出るだろうからだ」
エルはりーを見捨てずに守ろうとした。りーはエルを今も守っている。――ということ?
「エルを……」
「うん?」
この場で初めて出た自分の声は情けないくらい震えていた。
「エルを、ころさないで、くださいっ、おねがいしますおねがいしますおねがいしますっ……!」
恐怖なのか懇願なのか自分でも分からない。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃになり、視界が霞むが必死で祈った。
「ヒトは強欲よな、既に死を迎えたはずの者をここまで生きながらえさせただけでも幸運であろうに」
ソレは呆れた口調でそう言った。
「でもっ、今あなたがりー―――エルと彼女を分けたら、エルは死んでしまうんでしょう?!」
「だが、魂は永らく同じ器で放置すれば混ざり合う。この我といえど、分かつことはできなくなる」
「それは――」
「この子供は、単純なお前の魂の片割れではなくなり、我の番となる」
俺が再び黙ると、ソレは続けた。
「魂が完全に混ざり合ったその時、この子供のそれまでのヒトとしての記憶は残らぬかも知らぬ。ヒトの魂は我らの魂に比べて弱く脆いゆえな。お前のいう『エル』という子供はこの世から消えてなくなるやもしれぬ」
「そんな――!」
「あるいは――仮に記憶が残ったとしても、その子供は我の番としての存在が強くなり、ヒトとして体の主導権を取ることはなくなり、永遠にその体の奥に記憶と存在のみをとどめたまま生きることとなる」
それは――生きているのに、返事もできず、誰にも何も言えなくなるということ?
そんな、残酷な――
「混ざり具合にもよるがな。ヒトとしての記憶と番の本能が完全に混ざれば、あるいはヒトとしての記憶と意識のまま、我ら種族と変化し、我を番として求めるやもしれぬ。そのあたりは我とて予想はつかぬ。……このようなことを、我ら種族が起こすとは思っておらなかったからな」
「あなたは――エルのことを絶対に排除したいわけではない、のですか……?」
「番は番であろう?」
俺が意味がわからず止まっていると、ソレはその話をし始めてから、初めて俺に視線を移した。
「番を求めるのは番の本能。この子供の魂が番の魂と混ざり合えば、この子供は我の番に違いない」
「それに、元々、この子供は我らの魂とよく似ている。おそらく本来はヒトにはならない予定のものであったのだろうな。ゆえに番もこの子供に興味を持ったのであろう」
「既に番の魂はこの子供の魂と一部混ざっている。それゆえなのであろうな、番を傷つけた憎きヒトの匂いのするこの子供を、我は愛しく感じる。今すぐに我の元においてもよいのであるが――」
ソレはふぅとため息をつき、初めて本心を漏らすかのようにそっとエルの体を仰向けに転がし、その背中に唇を寄せた。
「さりとて、我は、まだ混ざっていない我の番の望みを無視するわけにはいかぬゆえな。暫くは待ってやろう。――この子供が成長し、我が番を――そして我を受け入れられるようになるまで」
この生き物に感情があるのかは分からないが、それは言葉に初めて何かしらの感情を込められていた気がした。
その感情が何なのか、俺には分からなかった。
ソレが背中の右上から左下にかけて服の上から唇を動かすと、そこが服の上からでも分かるくらい白光した。
「休め。そしていずれ我を思い出せ。我が番――エルよ。それまで我も暫し眠りに入ろう」
次の瞬間、窓も開けていない室内なのに、ぶわりと大きく風がはためき、その場からその生き物は消えた。
気配だけが色濃く残った部屋の中でへたり込み、動けなくなってもおかしくないのに、俺は俺以外の力に引きずられるようにして、窓に駆け寄ってしまった。
窓の外を眺めると、そこには、月の光も受けずに輝く、銀色の巨大な狼がいた。
金色の瞳がこちらを振り返り、俺を――いや、俺の手元にいるはずのエルの方に向けられた。
そして今度こそ、突風が舞い、大きな銀狼は姿を消した。
俺が銀狼を呆然と見送って、ぼうっとそこに立ち尽くしていたときだった。
「に……いさ……ま」
聞き慣れた、待ちわびた声が俺を呼んだ。
「エル……?」
何度揺さぶっても、何度擦っても、何度呼びかけても起きなかったエルは、うっすらと瞳を開け、俺の方を見て手を伸ばす。
その目は、以前と変わらない、深い蒼色で。
俺はその場でエルを抱きしめて号泣した。
エルは、俺たち家族のこと、これまでの生活の大まかなことは覚えていた。
しかし、りーのこと、銀狼のこと、あの事件の後どこにいたのかも含め、あの事件のことは、一切を全く覚えていなかった。
俺たち家族は、エルにりーのことを思いださせないよう、全てに蓋をした。
エルが金髪だったことについては、エルの記憶から抜けているようだったので、幼い頃の絵姿は全てしまい込んだ。そして、元々灰色だったかのようにふるまった。
エルは、いつしか、姉様みたいな綺麗な金髪だったらよかったのに、が口癖になっていた。
エルが動物たちに再び関わったときには、どうしようかと父さんも姉さんも困ったが、エルは気ままに動物たちや魔獣たちとこれまでどおりの触れ合いを続けていた。
あぁ、これまでどおりというと少し語弊がある。
動物たちは、少しだけ。ほんの少しだけ、エルと距離を置いていた。
エルは記憶を失う前は、もっと動物たちと会話のようなものをしていたし、動物たちはエルの求めるがままに動いていたことが多かったが、記憶が戻った後のエルだと、まるで動物たちが少しだけ警戒しているかのような距離の取り方だった。
とはいえ、以前が親しすぎておかしかっただけなので、普通の人よりも動物たちとの距離が近いのは変わらなかった。
エルが宮廷獣医師になりたい、と言ったことも、男として生きたいと言ったことも、俺たちにとってはわたりに船だった。
男として生きれば、「番」としての目覚めは遅くなると思った。
実際に、エルの体の成長は極端に遅かった。
姉さんは順調に女性的な外見、体格になっていくのに対し、エルは、精神的にも、肉体的にも、いつまで経っても、性別を感じさせない子供のようだった。
エルを学園に男としてねじ込んだときも、このまま行けるんじゃないかと期待していた。
だからこそ余計に、エルに月のものが来た、とナタリアを経由して、姉さんに手紙が来た時、俺たち家族は一様に真っ青になった。
エルの羞恥心とかプライベートとかは、俺たち家族にとってはどうでもよく、そんなものより、エルが銀狼の番として目覚め、「エル」という存在が消えてしまうのではないか、ということに怯えた。
幸いにして、エルの月のものは、数月どころか半年に一回くらいの頻度だったし、エルの体つきは相変わらずだった。
でも、父さんは安心できなかった。
帰ってきたエルが、この世から再び存在を消すことになることだけは、避けなければならない。
人としてのエルが、これまで生きてきたエルが、残るためにはどうすればいいのか。
俺が異国に行き、姉さんが文献を探し、父さんがあらゆる情報網を使って、探して探して探して。
見つけたのが、小姓契約だった。
リスクは高かった。俺たちが個人でできるものではなかった。
でも、小姓契約は「人間と人間を、魂レベルで繋げる」人が取りうる唯一の禁忌の魔術だった。
それを俺たちが見つけた後、父さんは考えがあると言って――そうして、あの男を主人とした小姓契約がエルと結ばれた、というわけだ。
俺には、父さんがあの男をエルの主に選んだ理由がいまだに分からない。
あの男にエルを近づけたと聞いたときは耳を疑ったし、せいぜい、小姓契約を結べる王家との繋がりを持たせるためだと思っていたのに、あえてあの男を主人とすることを狙ったなんて。
あんなに脆い、諸刃の剣を抱えた男を。
でも、エルはそのおかげなのか、今もまだ人として生きている。
この幸せはかりそめでしかないと分かっているのに、いつまでも誤魔化し誤魔化し、生きていければいいと思っていたのに。
あいつは――銀狼は目覚めてしまった。
エル。俺たちは、エルをエルとして生かすためにはなんでもするから、どうか、頼むよ。
あいつのことを思いださないでくれ。
過去編終了。現在に戻ります。




