19 兄と妹とその出会い
俺とエルはいつもの通り、森で遊んでいた。その頃には、本当は入ってはいけないと言われている森の入り口どころか、かなり進んだところまで入るようになっていた。
子供たちの足だけでは到底行けない場所だが、エルと俺であれば、動物たちや魔獣たちが背に乗せて運んでくれる。川を越えたこともあったし、空を飛んだこともあった。
毎日がとても楽しかった。
親に止められていることをやるという一種の背徳感が幼い俺たちにはあったのかもしれない。
そんなある、雨上がりの昼間のことだ。
太陽が少し雲に陰り、森が薄暗くなったとき、動物たちが一斉に俺とエルの傍から散り散りに離れていった。
一瞬、何があったか分からず、俺が困っていると、エルが俺の腕を引っ張ってある方向を指し示した。
「にいさま、みたことないこがいるよー」
エルが指を指した先には、これまで見たことのない獣がいた。
見た目は狼に似ているかもしれない。耳はぴんと立っており、全身の体毛は銀色で、光も当たっていないのに輝いている。尻尾は6又に分かれていて、ふさふさと長く、目は金色で、鼻は黒く、つやつやと光っていた。
幼獣なのか、身体は小さく、俺たちの両手で抱えられる程度の大きさしかない。
完璧なその姿に一点そぐわないのは目の傍についた傷だけだ。目の近くに大きな傷がついており、そこから赤い血がこぼれ出るままになっている。
外観は「魔獣だな」というだけの、異様な特徴とか、吐き気を催すような邪悪な姿などでは全くなかったが、何よりも異様なのがその雰囲気だった。
あの当時は語彙力がなかったから分からなかったが、神々しい、と言えば感覚が近いかもしれない。近くに寄るとざわりと全身が粟立ちそうな、そんなあふれ出る魔力の圧力を、俺ですら感じた。
森は静寂に包まれ、しんと静まり返ったまま。目の前の魔獣は動かず、俺は全身から冷や汗を噴出し、エルだけが「ねぇねぇ、にいさま、ほら。みえる?」などと呑気に俺の手を引いていた。
「エル、だめだ。あれにはちかづいたらだめだとおもう」
俺からはそんな言葉が自然に漏れていた。エルの腕をつかみ、反応しない俺に焦れて飛び出ていこうとするエルを引き留める。
「でも、あのこ、けがしてるよ……」
その魔獣はすんとも啼かなかった。
傷のついた方に近い金色の目だけが眇められ、傷口からはどくどくと血が流れ、銀色の美しい体毛を汚していったが、それすらも意に介さず、魔獣は一心にエルだけを見つめていた。
「エル!」
俺がかなり力を入れて引っ張っていたにもかかわらず、草についた雨露で服がぐっしょりと重くなっているにもかかわらず、エルはその魔獣目掛けて飛び出し、そしていつもと同じように目の傍に小さな濡れた手を持っていった。
魔獣は、エルを放っておけずに傍に駆け寄った俺には目もくれず、エルの動きに合わせて首をひねり、近くに来たエルの目を覗き込んでいた。
「いたいね……だいじょうぶ?えるにまかせて」
俺にはエルの魔力は見えないが、恐らく出ていたのだろう。魔獣はなずがままになり、エルの手を甘受していた。そして気持ちよさそうに両眼を眇めた。
「あれ、うまくいかないなぁ……」
エルは、目に見えた改善の様子がないからなのか、必死で介抱を続けていた。
単純な切り傷に見えたそれは、なぜか血は止まらず、様子は変わらなかった。エルがいつまで経っても離れる様子を見せないので、俺もその血を拭う手伝いをしたが、魔獣はエルばかりを見つめていた。
近くで見ると、その鮮血が普通の生き物が流すものと違い、どす黒くなく、きらきらと輝いているのも分かった。
「うーん……どうしてだろう……」
日が暮れ、そろそろ戻らないと――というより送ってくれる動物たちがいないので、帰るあてもなかったのだが――という頃になっても、その傷は治らなかった。
「ごめんね……える、うまくできない……」
エルがしょんぼりと俯いて未だあふれ出る魔獣の血を拭うと、魔獣はそこで初めて赤い舌を出し、ぺろりとエルの頬を舐めた。
そして魔獣は、エルが伸ばしていた姉さんそっくりの金色の髪を鼻でふんふんと嗅いだ。
「あした!またあした、ここであおう?そうしたら、える、また、いたいのとんでけ、するから!」
エルが小さな手を振り回し、伝えると、魔獣は人間の言葉が分かっているかのように、背を向け、6本の尻尾でエルの頬を撫でると、そのまま森の奥に戻っていった。
その後、エルは、疲れからか、こてん、と寝てしまったので、しばらく経ってから戻ってきてくれた動物たちの協力を得てエルを運ぶことになり、俺とエルが城に戻った時には、とっぷりと日が暮れてしまい、二人して姉さんに散々怒られたのは、今でもいい思い出だ。
その日から、名前も知らない魔獣とエルと俺との交流が始まった。
魔獣の傷の治りは遅かったが、エルは何日もかけて傷を少しずつ癒していった。そして、魔獣はエルのことを非常に気に入ったのか、徐々にエルに身体を触れさせ、エルを慮る仕草を取ることも少しずつ増えた。
最初は俺を無視していた魔獣だが、一応俺にも興味を向けるようになり、エルほどには心を許していないようだったけれど、存在を無視されずに三人で遊ぶことも増えた。
「こいつ、おれにはおなかをなでさせてくれない」
「それはえるだけだよ~だってこのこ、おんなのこだもん」
「えっ、わかるの」
「うん。ね?りー?」
「りーって?」
「このこのなまえだよ」
「なんでわかるんだよ」
「だって、えるがつけたんだもん」
「え、エル、こいつになまえをつけたの?いつもつけないのに」
「うん、だって、りーとはまいにちいっぱいあそぶでしょ?よびにくかったんだもん。もうちょっとながいきれいななまえにしたんだけどね、よびづらいから、りー!りー、きにいってくれてたよ~。りーはえるのいもうと、なんだもんね!」
「エルがいもうとなんじゃないの?」
「にいさまひどい!」
どうやらメスらしいその魔獣と、俺たちとの交流は、約1年にわたって続いた。
魔獣は時たま怪我をして帰ってきたが、噛み傷など、野生の動物にやられたようなものは少なく、どちらかというと鋭い刃物に切られたような痕が多かった。毒なのか、何なのか、毛が溶かされたような痕もあったかもしれない。魔獣そのものの生命力のおかげか、致命傷になるものは一つもなかったものの、それは今から考えれば自然にできたものにしては少々不自然だったように思う。
しかし、なぜこの魔獣がこのような怪我をしてくるのか、エルは全く疑問に思っていなかったようだし、俺もそのときはそれほど気にも留めなかった。
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そしてあの日は突然やってきた。
あの日は、森になんだかとても嫌な空気が漂っていて、頭がずきずきと痛んだ。今日は行くべきじゃない、そんな胸騒ぎがずっとしていた。
その日俺たちは、いつもと同じように動物たちに城の近くで遊んでもらったが、動物たちは俺たちをあの魔獣と遊ぶところまで運ぶことをためらうような素振りを見せた。
いつもは能天気なエルだが、このときは動物たちの様子がおかしいことを感じ取り、俺が何度止めても、無理矢理にでも行くと言って聞かなかった。
一度決めると頑固なエルを一人で行かせるわけにはいかないので、いつものように動物たちにあの場所まで運んでもらったが、いつもならこの頃には木の陰に座って俺たちを見つけて駆け寄ってくるはずの魔獣は来なかった。
それどころか、どこかから異臭がする。濃く甘い、意識を混濁させるような匂いで、空気の臭いが分からなくなる。
「りー?どこー?」
エルが名前を呼んで辺りを探したその時、近くで獣の鋭い悲鳴が上がった。
エルは弾かれたように顔を上げ、「りー!」と言って声の方向に走り出す。
俺は慌てて後を追って、エルの手を掴むと無理矢理草むらの中に沈めた。
「にいさまっ」
「しっ、だまって」
草むらから顔を出すと、その光景が見えて、俺はすぐにエルの口を手で塞いだ。
俺たちの遊び場にもなっていた、りーとの待ち合わせ場所よりほんの少し森の奥のところ。その一部の木がなぎ倒され、真ん中に不自然に草の生えない――いや、草が刈り取られた場所があった。
そこには、5,6人の大人の男がいて、何かを囲んでいる。男たちは数人が長い剣や網、槍のようなものを持っていて、そのうち2人は長いローブを着て、両手を前にぶつぶつと何かを唱えていた。
「苦労させてくれたぜこいつはよぅ!」
「そう言うなよ。これで一攫千金だ」
「まさか本当に………の幼獣が捕れるなんてな」
長い網はよく目を凝らせば鉄製で棘がついており、地面に罠のようにして設置されている。俺には正確には分からなかったが、網には強力な魔力の雰囲気を感じ、なんとなく「近づいてはいけない」感じがした。
「血も貴重なサンプルなんだ。そこに染み出てる血、回収してくれ」
「はいはい。しかし時間かけた甲斐があったなぁ」
「生息地を移動しやがって。捕捉すんのに苦労したぜ」
「それにしても生け捕りとか無茶なこと言うよな、ほんとよぉ」
「そのせいで何人が返り討ちにあったって言ってたか!こんなちいせぇ魔獣にやられるとはよ!」
「小さくても……の幼獣だぞ、油断するな」
「つったって、抵抗っつー抵抗できなかっじゃねぇか」
「そりゃそーよ、こっちには国お抱えの魔術師様がいるんだからな」
「つーか、生け捕りなのにこんなに傷つけて大丈夫か。死なねぇ?」
「魔獣の生命力は計り知れない。油断したらこちらが殺されるぞ。これくらい弱らせて十分だ」
そこで再び大きなりーの悲鳴が上がる。男たちが入れ代わり立ち代わり場所を変え、その場を踏み荒らしたおかげで見えてしまった光景は、信じがたいものだった。




