11 小姓はおしおきを受けるのです
「じゃ、また連絡するわ」
リッツは、割のいい商談を成立させたときのしてやったり顔で緑色の瞳を細めると、あっさりと僕から離れ、告白をしたとは思えない軽い口調と仕草で手を軽く振ると部屋から出て行った。
あまりの呆気なさに僕の方が拍子抜けだ。
その場でぽかんと口を開けたままドアを見つめて暫し経ったが、何が解決するわけでもない。
ついつい目先の利益に目くらましされてしまったが、取り返しのつかないことをしたような気しかしない。
あのリッツだ。自分に損が出ることは絶対にやらないあいつだ。これまで約4年。あいつがリスクを取ることはあっても、その後にその損失を回収しなかったことがあっただろうか、いや、ない。
と、いうことは、だ。あいつが想定している「僕と(異性として)付き合うことで得られる予定の利益」が得られなければ、あいつはどんな手を使ってでもその損失を回収するに決まってる。そして使われるのは、この僕だ。
今になって頭の汗腺が広がって冷や汗がだらだらと僕の顔を流れていく。
これはまずい。早合点しすぎた。大体商談で失敗するのは、考える時間を置かないときだって分かっていたはずなのに……!
今のなし、が通じる相手じゃないし、こうなったらあいつが想定している利益とやらを先に提供して解放してもらうしかないか。
「だけど、何度考えてもあいつが僕のことを欲しがる意味が分からないんだよなぁ」
「あいつって誰?」
「ひぃっ」
悲鳴にもならないかすれ声を出したのは紛れもなく僕の喉だ。
ドアを開けたすぐ目の前には、僕を最初に買った人ことグレン様。
宮廷獣医師の倉庫の中でもいっとう目立たないはずの場所に加えて、このタイミング――グレン様の神出鬼没度には慣れたはずの僕でも予想できるはずがない。
「いいいいいいいつからいらっしゃったんですか!?」
「さぁ?いつからだろうね?」
ずんずん前進してこられるもんだから、せっかく出ようとしたドアが閉まる――どころか、かちゃりと鍵のかかる音までした。犯人は言わずもがな、目の前の鬼畜悪魔だ。
「ちょっ、どうしてお閉めになるんです?僕、外に出たいんですけど」
「僕は用があるんだ」
「そうですか。じゃあ、僕は退散させていただきますんで、どうぞごゆっくり」
できれば永遠に。という副音声が聞こえたのかなんなんのか、グレン様はにこにこ笑顔を全く崩さない。さっきリッツが僕を追い詰めたところを巻き戻すようにどんどん僕を壁際に追いやっていく。さっきから何度同じところを行き来していることやら。
せめてその先は失敗しないようにしないと今日がただの厄日じゃ済まなくなる。特にこのお方の場合は!
グレン様は歩を緩めずに前進し、その勢いだけで僕を後退させ、あっというまに僕を壁際、いや、壁に追い詰めた。右には書棚、左に机の窪みにまでに僕を追いやり、唯一の出口である目の前を陣取ってにこりと天使の如く微笑んだ。
これぞ噂の八方ふさがりってやつか……!
「お前に用があるっていう意味なんだけど、お前のそのすかすかの脳みそじゃ分からないかな。それとも、ここで僕と二人きりでごゆっくりする?」
「撤回します」
「僕をこんなところまでわざわざ来させるなんて、いい度胸してるよねー、お前」
「僕は一度たりともそれを望んでいませんが。そもそもどうしてここに僕がいるってお分かりになったんですか?」
「お前は、ご主人様たる僕のものだから。自分のものがどこにあるかぐらい、分かるのは当たり前じゃないかな?」
小首を傾げ、にこりと微笑んだグレン様が、不意に僕の左手首を強く掴んだ。同時に左手首の消えない痣――この国の紋章がイラクサと茨で囲まれている、小姓としての真の証――から全身に鋭い痛みが走って息が詰まった。
僕の居場所が分かったのも、こうやって痛みを与えられるのも、小姓契約の一つの特性ってことか、くそっ、プライバシーも人権もなにもあったもんじゃない!
捕まれた左手首から全身に向けてじくりじくりと嫌な痛みが続き、初めて乗った馬車で酔ったときのような気持ち悪さに眩暈がする。この感覚は、まるで、小姓契約を初めて結んだ時――最初にグレン様に血を流し込まれた時のそれに近い。
ふーっふーっと息を細く吐き、気持ち悪さを発散させようにも、後から後から気持ち悪さの波が襲ってきて眩暈が強くなっていく。とうとう僕はふらりと前に――つまりグレン様の方に足元をよろつかせ、気付いた時には、ばふりとグレン様に胸元にダイブしていた。
後から考えれば、命を顧みない愚行でしかなかったけど、その瞬間の僕は、まるでグレン様の胸元に抱きつくような体勢になっていることに気付きながらも、眩暈がひどすぎて自力で立とうという気力が湧かなかった。
グレン様の方はといえば、僕が気持ち悪くなって倒れ込んだことで気が済んだように左手首を掴んでいた手を放した。それと同時に乗り物酔いに近い気持ち悪さが徐々に引いていく。
「……あのーグレン様?放していただけませんか?」
気持ち悪さが引いて大分冷静になった頃合いでようやく現状と向かい合うことができ、恐る恐る離れようとはしてみたのだが、グレン様は僕の背中に回した腕を離そうとしない。
大暴れして離れてやる――と頭に浮かぶや否や、シャツの下に隠れた僕の背中の傷をなぞるように上下に指をゆっくりと動かされ、その指の感触や動きに今度は恐怖や気持ちの悪さとは違った意味で身体中がぞわぞわとしてくる。
考えるな僕。この状態を客観的にどう見えるかなんて気にしてたら身が持たない。というかこの状態にしたのは紛れもなくこの目の前の腐れ外道だ。目の前の人は、言うなれば、酔っているときの棒と同じ。支えでしかない。
だから、よくわかんないけど抱きしめられてるとか、サラサラの髪があたってくすぐったいとか、そんなことを考える必要はない。
ましてや、この場所が妙に居心地がいいとか、そんなの錯覚に決まってる。急激な気持ち悪さから解放された反動に過ぎない、はずだ。
「さてと。お前の質問にも答えてやったわけだし、今度は僕の番だよね?――ねぇ、さっきのあいつって、誰のこと?」
あくまでさっきの話を追及する気か、これはまずいな。
独占欲の塊のようなこの人のことだ。自分のおもちゃが他の人に使われて不機嫌ってとこなんだろうけど、それもしても相当怒っていらっしゃる。
ここでリッツを売ったら恐らくあいつは二度と日の目を見ない。
これは、「気がする」とかじゃなくて確固たる未来予想だ。
例えすでにバレていても、ここで友達を売るっていうのは、お腹の空いた肉食獣の前にぷりぷりと肥った鶏を置くようなもんじゃないか。
「い、い、嫌だなぁ。僕のことを欲しがる希少な人なんて、奇人――じゃなかった貴人であらせられる、頭のぶっとんだ――じゃない、鬼才の外道――じゃなかったご主人様以外にいらっしゃるわけないじゃないですかぁ」
「お前の口はどんなに矯正しても治らないよね。これは頭からまるっと全部移植するしかないかな」
それは移植どころか既に僕ではない他の何かでしかない。
が、かなりご機嫌斜めの様子のご主人様の神経をこれ以上逆なですれば僕は全身パーツを入れ替えられるどころでは済まなくなる。
グレン様は僕を拘束していた腕を放し、今度は僕を至近距離で見下ろしてくる。白く細長い指が艶めかしい動きで僕の唇をつぅと撫でたことで、僕の背筋がぞわりと粟立った。
後退したいところだが、僕の背中は壁とこれ以上ないほどみっちりと仲良くしているので毛筋が立つ間すらない。できることならこのまま後ろの壁を掘っていきたいくらいだ。
なにかに気を逸らしたくて必死で全身の六感を働かせたところ、わずかな音も聞き逃さないように必死で聞き耳を立てていた耳がしゃらり、という金属の擦れる高い音を拾った。
「あ、ぐ、グレン様、今日は耳飾りをつけていらっしゃるんですね!?お珍しい!」
グレン様の象徴色であるルビーをあしらった、複雑な紋様の描かれた金色の耳飾りだ。三連になっていて、グレン様の動きに合わせて揺れ、しゃらりと澄んだ音を響かせている。
視野を広げれば、グレン様は、耳飾りだけでなく、腕輪やネックレスとたくさんの装飾具を身につけており、それらが全て持ち主の(外見だけなら)神秘的なお顔を際立たせている。
「いつもなら音がうるさい、とか、重い、とか仰って絶対に着けられませんのに」
「ここで何も装飾品を身につけていないと高官共がうるさい」
「耳元の高音は気にならないんですか」
「僕にだけは音を遮断できるように周辺の空間を弄ってある」
「僕の声は聞こえていらっしゃるんですよね?なんだったら叫んで試してみましょうか?鬼畜野郎とか外道とか、何でもいいですけど」
「装飾品の音だけに限定してるから聞こえてるよ。お前の肉声も、心の声も、何もかも、さ」
僕の耳元から正面へお顔を戻したグレン様の目はさっきから全然笑っていない。
燃えるような瞳は口元には一切浮かべない怒りの炎が透けて見えるようだ。耳元についた宝石よりも深く、鮮血のような赤色の中に、怯えた一人のちっぽけな人間が映り込んでいる。
あぁ、僕、ほんとに割に合わない買い物をしちゃったみたいだ。
「……申し訳ございません。軽率な行動をしたことは謝ります。でも、僕の口からはこれ以上何も申し上げられません」
「ふぅん、ご主人様に隠し事かぁ。感心しないなぁ」
血の色の目が酷薄に細められる。
「おしおきされたいって意思表示ってことでいいよね」
耳元に息を吹きかけるように囁かれた。
グレン様の衣擦れの音すら聞こえる距離からの未知なる攻撃を想像し、僕の心臓がばくばくと全力疾走している。
何がくる?気づいたら僕の頭が燃え上がっているとか、髪の毛が一本もなくなっているとか、呼吸が5分間くらい止まるとか、解毒剤もないまま一週間起き上がれないえげつない毒を飲まされるとか――考えたら考えただけ出てくる。
このままだと僕の精神は恐怖のせいで崩壊するんじゃないか?
正視に耐えない光景を想像して、ぎゅっと固く目を瞑っていると、首元でかちゃり、と小さな音がした。
もはやあることが当然の前提となっていた首の圧迫感が消えていた。
「……え?」
「これは返してもらうよ」
見慣れた赤いアルコット家の紋章入りの首輪がグレン様の手の中にあった。
首元に手をやり、顎あたりからすうっと手を下ろしてもなんら障害物はない。自分の肌の感触しかしない。
何にも引っかからなかった手が震える。
鬱陶しかったはずなのに。
最初は全力で拒否して暴れたはずなのに。
望んでいることのはずなのに。
それは解放のはずなのに。
首輪がなくなって一番に思うのは――喪失感。
「…………それは、僕を小姓から解任するってことですか?」
グレン様はかちゃかちゃと外した首輪を手の中で弄んでいたが、僕の言葉にふっと笑った。
「だったら、どうするの?」
どうする?どうってことはしない。僕にその決定権はないし、どうにもできない。
「小姓契約は……本物の小姓契約はどうするおつもりですか」
「どうにでもできる、って言ったら?」
「契約には王家の承認が必要なのに?」
「だから、なに?契約のときに必要でも、解約のときに必要なんて、誰も言ってないよね?」
見せかけの小姓契約とは違った、切っても切れない絆。王家の管轄から外れたそれが、解約できるのか、解約するとしてどうすればできるのか、それすら僕は知らない。
グレン様だけが知っている。
この人には僕がいないとダメだと、心のどこかでは思っていた。能力では負けても、意地では、キール様にも、他の誰にも負けないと。誰かにその座を取られるのは嫌だし、一度グレン様にぎゃふんと言わせてからこっちから捨ててやると。そう、思っていた。
いつの間にか僕はこの人には僕が不可欠なのだと思っていたけれど、それは間違っていて、思い上がりに過ぎなかったのかもしれない。
グレン様が私的感情を挟もうと、どんなにくだらない理由だろうと、僕はグレン様に嫌われたらいつでも捨てられる存在なのかもしれない。
侯爵家の跡取りであるこの人と、一介の没落男爵家の見せかけの次男とでは、住む世界が違う。
捨てられたら、僕は、もう、この人と何の関係も持てない。
想像するだけでぽっかりと穴の開いたような気持ちになって、言葉も出せず、ただただ、俯いて目の前のご主人様と視線を合わせないまま、つんとした何かが胸の奥から湧き上がろうとしてくるのを必死でこらえる。
「……ぷはっ!」
「………………は?」
「あははははははははははっ!あーもうだめ!」
突然、響いた笑い声は、この部屋にいる僕以外の人物から発せられたものに他ならない。目の前のグレン様は、まさに呵呵大笑、という風情で笑い転げている。
「あの?」
「いやー思ったよりもすっきりしたーこういう試すようなやつって、予想外に自分の望み通りだと、確かに嵌るのかもなぁ。うん。やられるのはたまったほうじゃないけどさ、やるのはいいもんだね」
「なにがです?」
「うん、あははははっ、いやー、何も?」
目じりに浮かべた涙を拭って、お腹をよじりながら笑う目の前のご主人様に段々腹が立ってきた。
「あの、僕は解任になるんですよね?」
「するわけないじゃん、こんな面白いやつ」
「……首輪は一体どういうことです?」
「改良しようと思ってさ、一旦回収して作り直した強化版を、またしっかりはめてあげるよ」
にやにやと笑うグレン様はさっきとは打って変わって上機嫌だ。
よく分からないが、なんか嵌められたってことだけは分かった。
同時に自分のこめかみに青筋がくっきりと浮かんだのも分かった。
「ああそうですか!じゃあ僕、忙しいんでこれで終わりでいいですか!」
「よくない。僕怒ってたんだけど?」
「過去形になってる時点でもう時効です。グレン様の遊びにお付き合いする暇ないんで、失礼します!」
「だーめ」
目の前のグレン様は僕を逃がさずそのまま僕に頭突きをかましてきたので、僕は咄嗟に目をつぶり、手で顔を庇って、ついでに顔に防御魔法を張った。
……が。
「いたっ!」
予想に反し、生暖かい何かが触れ、痛みが走ったのは、顔面ではなく、首筋だった。
恐る恐る目を開くと、いたずらっぽく笑うご主人様の唇付近が艶やかに濡れている。
まさかと思って近くのガラスを振り返ったところ、僕の首には真っ赤なうっ血痕がついている。さっきまで首輪のあったあの場所に、赤く、噛まれたような跡が刻まれ、そこを軸に赤く筋のように複雑な文様が浮かんでいた。
「首輪の強化が終わるまで、代わりにこれで僕のものって印つけたから安心でしょ」
と、にこにこと邪悪な笑顔を浮かべるご主人様。
「―――こんなものっ」
「回復阻害の術を仕込んでるから、あと半月は取れないと思うよ」
「――――くっ、このっ、鬼畜悪魔!最低野郎!」
「首輪がなくなって絶望しているペットにはちょうどいいと思ってさ」
「よくない、消してください!こんな誰からも見える位置にっ、消せこの野郎!」
「調子に乗ると、ほんとに消せない傷を作ってやるよ?」
首輪、欲しかったんでしょ?と笑う悪魔に、僕は心の中で思いつく限りの罵詈雑言を投げかけることしかできなかった。




