8 小姓は初めてのおつかいに挑むのです
さて、そんなこんなで僕は王都に着いた。
そんなこんなの間にどんな苦労があったか――例えば、「そんなにやる気があるなら明日の朝一番に出発してね」とにっこり笑顔で拒否権を奪ったご主人様(この時点で出発までに残された時間は6刻しかなかった)がいたこととか、大怪我も治りきらないままに教授のところに走って重症患者を預けたり、逆に僕の心配をされたり(直前までの鬼畜と比べてなんと良心的な教授だろう!)、かの上級魔法論理学の教授のときのツケと今回の狼さん治療代を合わせてリッツにぼったくられるだろう額を調達するために金策に走ったり、走っている最中にどこかの傍若無人なご主人様の夕食を準備したり雑用を終わらせたり、王都までお世話になる馬の貸し出し手続きとその子の調子見をしている最中に発情期で気分の荒れた他の牡馬を宥めるために奔走したり、その後日夜ほとんど寝る間も惜しんで王都まで駆け続けたり(ここでもう一度言っておくと、僕はそのつい6刻ほど前に大怪我をしていたはずだ)――は、ここでは詳細には語らない。
とりあえず、ここ数日の間、僕は心身ともに走り続けた、とだけ言っておこう。
宮廷獣医師としての実習兼第二回試験が始まるまでにはまだ少し時間があるが、姉様の結婚式やヨンサムの出る学園選抜大会本戦まではあと四分の一月しかない。姉様と殿下の婚姻は国の一大祭になるから、前後2日間、王都では大々的なお祭りが開催されるのだが、そのお祭りの前座として大会の本戦が行われることになっている。
元々姉様の結婚式やヨンサムの大会本戦の観戦はする予定だったので、それを前倒しにすることになったのは偏にグレン様から小姓としてのお仕事を命じられたからだ。
その最初のお仕事内容は、なんと――おつかい。
グレン様の代わりに宮廷獣医師室に報告書を取りに行け、という、なんともまっとうなお仕事だった。あまりにまっとう過ぎて脳みそが理解を拒み、ご主人様に3回聞き直したら、3回目の質問を発しようとした瞬間に鉄の棒を耳に突っ込まれそうになった。
あの勢いで突き入れたら、鼓膜どころか脳みそにまで突き刺さってしまったはずだ。それなのに躊躇なくにこにこ笑顔で鉄棒を両手に構えるんだから、恐ろしいったらない。
「ここが、宮廷獣医師室、かぁ……」
宮廷獣医師室を見上げると、はぁ、と自然に感嘆の息が漏れていった。
宮廷獣医師室は、王城の研究室の奥側、王家の抱える森に面した庭園に近い部分にあった。父様が母様を伯爵家からかっぱらった……ごほん、少々手順をすっとばして妻にしたとき、父様は、王都での文官の仕事を失った。そのため、僕が物心つく頃には、父様が王城に出仕する姿を見かけることはほとんどなかった。まぁ、仮に父様が王城に出仕していたとしても、生物学上は女なのに男と偽証している危険人物の僕を連れていくことはなかっただろうし、元々小さいところが更に弱小になった我がアッシュリートン家の当主になることを決めていた父様は、遅かれ早かれ文官を辞するつもりだったらしいけどね。
それはさておき、そういう理由で、これまで僕は憧れの宮廷獣医師室をきちんと訪問したことは一度もない。昔、ピギーが生まれたばかりで僕を求めて大騒ぎしたとき、ここに駆け付けてピギーの様子を診ていたので、正確には一度は入っているけれど、あの時はそれどころじゃなかったから、ゆっくりこの部屋を見る時間はなかった。
今、僕は、あの憧れの宮廷獣医師室の前にいるんだ。
興奮と緊張で無意識にこみ上げてきたつばをごくりと飲み込み、そのドアを見る。
各研究室の部屋の外観は、他の魔術研究室どころか、その他の役職の会議室や執務室などとも全く異ならない。これは100年ほど前の戦争の時、王城を敵に攻め入られた時に、どこが何の部屋か分からないようにすることで敵を攪乱しようとしたのが狙いらしい。だから、国の重要機密である宰相と国王陛下との会議室も、外観はこの扉と同じというわけだ。
研究室にしては豪奢すぎるドアノブに手をかけたところで、僕は、あーっと身もだえしてその場にしゃがみこんだ。
「緊張するー……」
みなさんお忘れかもしれないが、そして悲しいことに僕自身よく忘れるのだが、僕だって年頃の乙女だったりする。
グレン様が聞いたら鼻で笑い飛ばしそうだけど、憧れの場所に来て、憧れの存在に――これから上司になるかもしれない人や憧れの職にもしかしたら就けるかもしれない未来の自分を妄想しちゃったりして、興奮が限度を超えて緊張しちゃうことだってある。喉もからからに乾いてきた。
「うー、一旦出直そうかな」
宮廷――ここには宮廷付きしかいないので敢えて省略するが――獣医師室の前で一人唸った後、せっかちすぎる鬼もいないので、ここは落ち着いてから出直すことに決め、僕はその場でくるりと踵を返す。
すると、そのとき、元来た通路を挟んで獣医師室からちょうど反対側、柱の間から見える森側の庭園でなにやら騒がしい音と人が叫ぶ声が聞こえた。
「落ち着け!落ち着いてくれ!一体いきなりどうしたんだ!?」
よくよく見ると、立派な成獣の翼竜が羽や尻尾をばたつかせ、庭園の花々を粉砕してまき散らすようにして暴れている。体長は15メートルほどで、ピギーよりはるかに大きい、立派な成獣だ。
そして、翼竜の足元に一人の人間がいた。格好からして騎士様だろう。
異常行動を示す魔獣が獣医師室の近くにいる、ということは、あの騎士が魔獣を獣医師室に連れていこうとしていたところだろう。だから僕が手を出す必要なんかなくて、むしろ生半可に手なんか出したら藪蛇だろう――とかいう冷静な思考力が綺麗さっぱり抜け落ちていた僕は、頭より先に身体が動いた。
走って騎士の元に駆け寄り、騎士の腕を掴み、翼竜から遠ざける方向に引っ張る。
しかしさすがは騎士様。僕のミジンコのような力では微動だにせず、僕の行動を意に介する様子はない。ひたすら錯乱した翼竜を宥めようと翼竜に手を伸ばそうとする。
「だめです!」
錯乱した翼竜の足元で無遠慮に手を伸ばすなんて。例えるなら、グレン様の隣に裸で仁王立ちするようなもんだ。人はそれを自殺行為と呼ぶ。
騎士が翼竜に向けて伸ばした手を力いっぱい引き、後ろに体重をかけると、ようやく騎士は切羽詰まった声と共に抵抗を示した。
「だが……スナイデルの様子が……!」
翼竜に名前つけているんだ、この人。魔獣を徹底的に嫌う人が多いのに、珍しい。
少々驚きつつも、それでも全体重をかけて腕を引っ張り、無理矢理に引き離し、間に割って入る。
「この子がこんな状態になったのはいつですか?」
話しかけながら、翼竜の状態を確認する。最近こういう風に錯乱した魔獣や動物さんたちを見ていたせいで、ついつい動物使いの痕跡を探してしまったが、今回は違うみたいだ。目も血走ってはいるものの、動物使いに呪われているときの様な不自然な白目ではない。
「……君は?」
「僕は、えぇとー……宮廷獣医師見習いみたいなもんです」
獣医師見習いとは、1年の研修を経て二回試験に受かった後に初めて名乗れる地位であって、今の僕は「獣医師見習候補のただの学生」にすぎない。が、似たようなものだし、関係者にばれなきゃこの場はオッケーだ。
嘘は言ってないぞ。ご主人様らしい切り抜け方だが、やむを得まい。相手の顔が見られないのは疚しいからではないからね……嘘です、結構疚しい思いはあります。
グレン様みたいな厚顔無恥じゃないんだよ僕は!
僕の(ほとんど虚偽の)名乗りに、騎士は不承不承ながらも僕の質問に答えてくれた。
「……今朝方からだ。昨日までは普通だったのに、今朝は私が、というより、誰が近づいてもこのように暴れ、近づいた者を傷つけようとしてな……っておい……!」
名も知らぬ騎士の制止は無視し、翼竜の方に近づき、僕はまずは二度お辞儀をした。
翼竜は、かつていた龍の末裔と言われる魔獣だ。龍は、先ごろの戦争期よりもずっと昔に人の戦いに巻き込まれて絶滅したとされる。今は国宝とされる、代々この国の王家に受け継がれてきた武具にその鱗や尾の一部が使われていることから、かつて存在していたことは確かなのだが、戦争期を経て文献がなくなってしまったことから、その能力や生態はいまだ研究が不十分な状態だ。
そして、龍の魂と血を継いだとされるのが、「竜」だ。かつては、火を司る竜、水を司る竜、風を司る竜、土を司る竜……と自然の要素を色濃く反映させた魔獣がいて、要素竜として魔獣学研究上分類されている。しかし、この要素竜たちも、100年ほど前の国同士の戦争の中で絶滅した。
翼竜は、要素竜ではなく、要素竜の血を受け継いだそれよりも純粋な魔力量に劣る下位の魔獣だ。といっても、今の魔獣分類の中では上位魔獣にあたる存在である。
一部の翼竜は人のために力を貸してくれる。しかし、そのためには翼竜と心を通わせなければならない。その前提として、翼竜の個を尊重し、きちんと礼を尽くすことが必要であると、最近の魔獣学研究で分かってきた。そしてそれは、翼竜の中に龍の魂の欠片(魔獣学研究としての言い方で言うなら、龍と同質の魔力要素)が眠っており、その誇り高さが受け継がれているのだとも一説では言われている。
礼を欠いて不用意に近づきなどすれば、翼についた鉤爪で切り殺されるか、尾っぽや翼で押し殺されるか、もしくは超音波で頭蓋骨を粉々にされるか。
本来翼竜は、そういう危険な存在だ。
初めて人が卵から孵したピギーがあれだけ甘えん坊であるというのは、僕とイアン様とピギーによって初めて解明された重大新発見……なのだが、それがピギーの偶然の性質なのか、違うのかはいまだに不明だ(なお、ピギー世話係の僕に課せられている研究課題の一つでもある)。
さらに言えば、そんな、人類が翼竜をより知るための貴重な存在であるピギーを、叩きのめした上で焼き鳥扱いするグレン様がいかに頭おかしいかもよくよく分かっていただけると思う。
話を戻そう。
翼竜と初めて接する――しかも気が立った翼竜に対して麻酔もなしにどうやって向かうのか、そんなの、どの教科書にも載ってない。だからこれは一種の賭けだ。
僕は、翼竜の成獣に向けて二度お辞儀をし、両手を差し出し、手の上に小さく魔力を放出した。
怖くない。敵じゃない。僕はあなたがどうしてそんなに苦しんでいるか知りたいだけなんです。
一定の距離を取ったところで、翼竜に見せつけるように攻撃性の皆無な薄い魔力を漂わせ、それをふわりと宙に浮かせる。
そんな僕を、翼竜は真っ黒な瞳で見つめてきた。まだ翼を地面につけ、警戒する体勢を崩さないものの、暴れるのをやめてこちらを見定めるような姿勢を取る。
僕に何が辛いのか教えてください。
願いを込めて、僕は一歩足を翼竜側に踏み出した。




