2 小姓は休暇に縁遠いのです
「災難だった……!」
授業後。昼の休みに入り、三々五々と教室から出ていく生徒たちから送られてくる好奇の視線を遮るため、僕は机に突っ伏したままくぐもった声で嘆いた。
「友達だろー?ちょっとは慰めてよー」
「災難も慰めるもなにも。完全に自業自得だろーっと」
飄々とした言葉が終わると同時に頭がずしっと重くなる。突然の予想外の重みに机と挨拶することになった僕の額からごつんといい音がした。痛い。
普段は反骨精神みなぎる僕だが、脳みそを使い過ぎて干上がった今の状態では、頭を跳ね上げる元気すら出ない。
「いったー。なにすんだよリッツーどけろー」
「運良く助かったんだからその分ここで厄を落としといたほうがいいんじゃないかって思いやる友達想いの俺、やさしー」
「え、秀才の称号返上する?友達想いって単語、辞書で引き直した方がいいんじゃない?」
三冊揃ったら鈍器とさえ言われている上級魔術論理解説本上中下刊を迷わず載せてくるとか、どこの鬼だこの野郎。身近な鬼畜は一人で十分なんだよ、ご馳走様だよ、お腹いっぱいなんだよ!
「教授に喧嘩売ってあれだけで済んだんだから、運がいい以外のなにものでもなくない?」
「衆人環視の中で立たされ続けて難問10題連続出題の公開処刑。一問でも間違えたら即クラス降格。これで運がいいって?」
「問答無用でクラス降格よりマシじゃん。教授の最初の勢いだったらそれもやむなしだったって気づいてるだろ、お前も」
頭の上の教科書をどかして少々冷静になれば、それが認めざるを得ない事実であることぐらい僕にだって分かる。
「……まぁ。確かに思い当たる節はある」
「思い当たる節どころか、俺には掘った墓穴を丁寧に練り固めてるようにすら見えたわ」
思いだし笑いならぬ思いだし身震いなのか、リッツがぶるると体を震わせた。
あの時、僕のうっかり対応ミスに教授は大変お怒りになった。
怒り過ぎたせいで、教授の少なくなった髪の毛が逆立たたんばかりに――いや、魔力が迸って逆立った。
そして、逆立ちすぎて耐えられなくなった幾本か抜けた。
そのとき、その、はらりと落ちていく白い髪の毛を僕の目が無言で追ってしまったのが、多分、きっと、間違いなく、よくなかった。
「……常日頃髪の毛を気にして、たまたま強い風にあおられて毛根が負けちゃったら、授業中ですらしょげちゃうおじいちゃん教師の髪の毛が自然落下していくのに気が付いたら、ついつい目で追っちゃいたくなるもんじゃない?」
「そこを見ない分別を弁えるのが大人になるってことなんだよ。分かるかい、エルドレッド君。そういう大事なことに限って毎回綺麗さっぱり忘れていくんだもんなー。普通は一回やらかしたら二度とやらないのに」
あの、人の神経を逆なでしていくことにかけて右に出る者はいないはずのグレン様にさえ、「お前は意図せず人を煽っていく天性の才能があるね。滅多にない才能だよ、おめでとう」と全く嬉しくない賛辞をもらったことがあるくらいだ。あの時の僕は間違いなく余計に教授の逆鱗を逆なでしてしまったし、教授から死刑宣告を待つばかりになった。
万事休す、と執行の時を待っていたそんな僕に、どうせなら公開処刑にしましょうとの提案がきたわけだ。
「でもさーあれはなくない?『教授、このクラスにいる人間で、かつ、あれだけ堂々と寝ておいてまさか授業の内容を砂粒ほども理解していないこということはありえないでしょう。教授のありがたい授業で爆睡するなんてもってのほかで――――』とかなんとか……」
「『それだけ自信があるということならば、ここは一度皆の前で彼の出来を証明させましょう。彼にとってもいい薬になるはずです。羞恥心ほどいい薬はないかと存じます』だな」
ひんやりと氷点下の低い声が響き、思わずびくりと肩を震わせて目だけ上げると、声の温度に負けず劣らず凍り付くような視線で僕を見下ろすラベンダー色の瞳と目があった。
「ご、ごきげんよう、クロフティン様。今日も変わらず人を見る目には見えない視線をどうもありがとうございます」
「本音を言ったまでだ、相変わらず減らない口だな貴様は」
「この口でこれまでの苦境を乗り切ってきたようなものですから」
「まぁその口のせいで上級クラスを落ちそうになったわけだけど」
「リッツ、そこで入って来ないでくれる?」
「身の丈に合っていないクラスに闖入するからこうなる。周りが迷惑するだけだ」
キール様の嫌そうな声音に、ぐっと言葉が詰まった。あまりに正論だったからね。
僕は今、魔法論理――つまり、魔法の筆記クラスで、なんと、上級クラスにいる。
文官や特別宮廷魔術師を目指すならこのクラスにいなきゃ話にならないというこの上級クラスに在籍できるのは同学年でたったの40人で、僕はそこに滑り込んだってわけ。
ちなみに、特別宮廷魔術師、というのは、文官と宮廷魔術師を兼ねた存在であり、いわゆる戦闘職幹部候補ってやつだ。
戦闘時に、剣等の武器を主として扱い、かつ、執務に携わるのが騎士で、警備や非常時戦闘員となるのが、兵士。それと対比するのなら、戦闘時に魔術を主とする戦闘職の中で、執務に携わるのが、特別宮廷魔術師、その他が宮廷魔術師、となる。
特別宮廷魔術師は非戦闘職種で国王陛下の下で国の執務を担う文官と、戦闘職種である宮廷魔術師の双方を兼ねる存在だから、武にも知にも長けた一握りの人材がなれる役職だ。人格破綻者でもなれるようだが、それ以外の要件は非常に厳しい。
上級クラスは、そんな将来の国の幹部候補の卵を育てるところ――となれば、上のクラスに上がれればはいオッケー、なーんて、そんな甘いもんじゃないのもお分かりだろう。
僕のような存在がキール様のような本家本元の幹部候補様にとって目障りなのは間違いないし、場違いなのも重々承知している。
それなのに、なんで僕が血のにじむような努力をし、教授に睨まれ、キール様に嫌味をいわれるような上級クラスに入ったかって?
「……せめてあと一月はお見逃しください。グレン様とのお約束を守らないといけませんから」
「……俺もあの方がそれを望んでいなければあのような形で貴様を庇ったりはしない」
キール様は僕の方をじっとりと睨んだ後、一度大きなため息をついて、額を手で覆われた。
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グレン様の婚約パーティーの後のこと。あの時点で約二月後に控えていた殿下と姉様の結婚式のため、グレン様は単独で王都に向かうことになっていた。
その際、僕は同行しないことが決まっていた。それもそのはず。宮廷獣医師国家試験の一次試験が四分の一月後に控えていたからだ。僕の人生最大の山場だというのに、これ以上引っ張り出されて毒まで飲まされたらたまらない。宮廷獣医師国家試験は、中休みを除けば実質的に約五日間にわたる長丁場でやる最大の関門で、ここで大方の人数が絞られてしまう。
僕は当然のように試験のための休暇を申し出た。
「グレン様、さすがに今回はついて行けません」
「分かってるよ、今回はお前を王都に連れていくつもりはない」
「……へ?僕、お休みいただくって申し上げてるんですよ?妨害しないんですか?」
「されたいの?してあげてもいいけど」
「へっ…いいいいい、いいえぇ!じゃあ、お休みしていいんですか?勉強期間と試験期間計半月ですよ?!」
「フレディにもきつく言い含められてるし、僕はどうせフレディのために王都に行かなきゃいけないし、まぁ、いいんじゃない?」
あまりにあっさりと要求を受け入れられた僕は一瞬呆気にとられ、次の瞬間こぼれ出そうになる涙を堪えた。
グレン様も、さすがに成長したんだ!鬼だとも悪魔だとも何千回も思ったけど、今回ばかりは邪魔をするつもりはないらしい!
頭の中でお祝いの鐘が鳴り響いた。
「それで一年分の休暇使ってってことになるけど、いいの?」
「もちろんですとも、はい!是非!」
勢い込んで頷いたら、グレン様は、落とし穴を成功させた子供のように、楽しそうに、いつもの天使の笑顔を浮かべてきた。
その笑顔を見た瞬間、僕の頭の中の鐘が重苦しい鈍い音を立てて無様に割れ果て、がらんがらんと断末魔の音を立てた。不吉な暗示のそのままに、グレン様は、僕を地獄に叩き落した。
「じゃ、マーガレット様のご結婚祭には参列しないってことだよね」
「……えっ」
グレン様のルビーに輝く瞳はこれ以上ないくらい上機嫌に細められ、口角は三日月型に上がっている。典型的な、天使の皮を被った悪魔の笑顔だ。
「僕、別にご結婚祭の時にお前を連れて行かなくても十分仕事回るから。そりゃあ、こっちで僕が残してきた仕事してもらうってことになるよね。イアンもフレディもいないんだ。ちょうどいい人材分配だなって思ってるんだけど、どう?」
「え、いや……あ!僕がいないと、グレン様、お寂しいでしょう……?」
「うっわぁ自意識過剰~」
「だってついこの前ソファに僕を押し倒して一晩中拘束し続けたときにそんなことを仰ってましたからー……」
「んー、じゃあ、なんかお前の一部でも持っていこうかな。寝寂しいときとかのために癒しにするくらいなら全部はいらないし。あぁ、前に言ってたみたいにちょうどいい研究の機会になるね、楽しみー」
「絵本に出てくる天使並のお顔のまま小首傾げてなんておっそろしいこと仰るんですか。子供が夜魘されますよ。僕は両手両足、両眼両耳、鼻、口、両手両足の指全て揃って僕ですので分割はできません!申し訳ありませんが、半月より余分に休暇をいただけませんでしょうか!」
姉様の結婚祭に参加する休暇を得るため、グレン様から出された交換条件がこの上級クラス昇格ってわけ。
聞いた瞬間に鬼だ悪魔だと叫んだが、それはあの方にとって褒め言葉にしかならなかったらしく、幸せいっぱいの天使の笑顔で僕はお部屋を叩きだされた。
何にも代えがたい姉様の幸せのため、僕は、グレン様の獣医師国家試験終了後、わずか四分の一月後に予定されていた上級クラスの狂うほど勉強したのだ、ほんと。
同じ試験を受けたみんなが、国家試験が終わった瞬間、打ち上げだ、寝続けるだ、なんだとお祭り騒ぎを繰り広げる中、僕は寝る間も惜しんでひたすらに教科書と参考書を片手に図書館で暗記をし続けた。獣医師国家試験と合算すれば、徹夜をほぼ丸一月続けたはずだ。
それでも当たり前だけど上級クラスの人間を追い上げるには至らなかったため、この一月限定で、と心の中で滂沱の涙を流しながら、ボーダーラインの一人の前日の夕食に、生肉を仕込んで試験に挑んだ。腐った肉をいれるのはさすがに憚られたからこその選択で、効果が出るかは神に賭けた。
結果として、神なのか、それとも邪神が僕に微笑んだのか、僕は上級クラスに忍び込めた。
汚い手だと罵られよう。心の底から僕を恨むがいい。これが僕の報いだ!と、滑り込んだ上級クラスで今日まで散々詰られ煽られ馬鹿にされ、の針の筵に耐え続けたのは、僕の贖罪のつもりだ。
ここまでして入った上級クラスだったから、落ちるわけにはいかない。
「……クロフティン様、ありがとうございました。グレン様にはご内密にお願いいたします」
「親の仇を見る顔で歯ぎしりしながら言うやつか、それ……」
「リッツは黙ってて」
僕の鬼気迫る顔に戦意を喪失したのか、キール様は僕の顔をもう一度見た後、眉間に巨大な皺を作りながら、深い深いため息をついた。
キール様、あんまりため息つくと、幸せが逃げちゃいますよ?




