お礼小話 いたずら・後半
「待たせたね。さ、エル。どれがいい?」
グレンは、部屋を出ていって暫くしてから、にこにこ笑顔の上機嫌で戻ってきた。手には小さな白い皿があり、その上には、白く丸いチョコレート菓子のようなものが五つ乗っている。小さく美味しそうな見た目に、エルの喉が鳴った。どれだけお腹をすかせているんだ、エル……。
「……これにはなにか仕掛けがあるんでしょう?今、どれがいいって仰いましたもんね。僕、騙されませんよ!」
エルが目を皿の上に固定したまま、それでもなけなしの理性を振り絞ってグレンを問い詰めると、グレンは満足そうに口角を上げた。
「お前もちょっとは賢くなってきたのかな?いや、野生の勘か」
「返事の前に結論を出さないでください。それで、どういう仕掛けがあるんです?」
「この中の三つはとてつもなく苦いんだ。お前が前に僕に作った薬くらい苦い」
「そういうゲームって、普通、ハズレは一つなんじゃないですか?五つのうち三つってとっても多いと思います」
「そりゃあ、僕の目的はお前を喜ばせることじゃなくてお前が苦しんでいる顔を見ることだから」
「清々しいほど最低ですね」
「ふうん?全部苦いのがよかった?」
「いいえぇ!救済措置がある状態を作ってくださったご主人様に心からの感謝を捧げますとも、えぇ!」
やけくそのように言い捨てたエルは、グレンが差し出す皿の上を真剣な目で凝視している。グレンの方は、五つの菓子を眺め回すエルを、好みのおもちゃをもらった子供のような期待に満ち溢れた目で見守っている。
「二つだ、二つをねらえばいい……。……あのー……匂いって嗅いでもいいですか?」「ほんとペットだね、お前」「人間です」「やろうとしていることが犬並み」「犬も飼い主の手を噛むことはありますよ?」「それなら嚙み返してあげる」「やっぱり尻尾を振っておくことにします」などとやり取りを続ける二人を前に、私は静かに瞠目していた。
私からすれば、話しぶりからして、エルが差し出したと思しき薬をグレンが飲んだらしきことが一番驚くべきことだ。グレンは、王城にいたころから薬師が作った薬ですら信用せず、滅多に口にしなかった。自分が認めた医師か、自分が作った薬以外服用しなかったのだ。
「これにします!」
時間をかけて見た目と匂いを精査し、吟味に吟味を重ねたエルは、とうとう右から二つ目の白い菓子を選び出した。選択したそれを手に取って、エルがちらりとグレンを見上げる。
「どうぞ」
見上げられたグレンは、それが偽物か、本物か、微塵も表情に見せずににこにこと天使のように微笑みかえした。
エルは口をまっすぐに引き結んで手の中の菓子を凝視し、それから覚悟を決めたのか、目をつぶって、えいやっと勢いをつけてそれを口に放り込んだ。
もぐもぐとエルの小さな白い頬が咀嚼に合わせて動く。
「美味しくもないけど、苦くもない……?僕、逃れられ―……―――っ!!」
目を瞑って毒味に集中してから細目を開け、一瞬喜びに紅潮した顔がその刹那、一転した。エルは、元々大きくくりくりした目を更に大きく見開き、口と喉を手で押さえて、無言でその場で走り回り始めた。しまいにはその場ですとんと腰を落とし、何かを堪えるようにじたばたと手足を動かした。
「――――っ!――――っ!――――ッ!!!」
「どうしたっ、エル!?」
「っ、でっ、みっ!!」
「なんだ、何が欲しい!?」
「み、みひゅっ、み、ず、くださいっ、からっ、辛いっ!!!すっごい、辛い!!」
蹲ったエルは、普段は真っ青な瞳を真っ赤に充血させ、大粒の涙が浮かべて私を見上げた。
直ぐさまイアンがコップを渡すと、エルはそれをひったくるようにして飲みほして、お礼を言う間も惜しんで部屋に置いてある水差しのところまで走っていくと、何度も同じ動きを繰り返している。その様子で、事の顛末と邪悪な企みは読めた。
仕掛け人に声をかけようと振り返ったところ、グレンはその場で腹を抱えて悶絶していた。
「ひーっ苦しい!あ、あの顔っ、見たっ?う、嬉しそうに舞い上がった後に、急激に開いた瞳孔とかっ、情けなく眉が下がってくところとかっ……!」
グレンは、腹筋が引き攣れるほど笑い転げている。
「……グレン、お前、残りの二つに激辛のものを仕込んでいたのだろう?」
グレンは嘘をつかない。現に、こいつが用意した菓子の三つは信じられないくらい苦いのだろう。しかし、グレンは一言たりとも「残り二つは甘くておいしい」とは言わなかった。救済措置であることも匂わせていない。
「最初からエルを嵌めるつもりだったんだな……」
「あったりまえじゃん。こいつ、最近僕の世話をさぼり気味だったんだよ?苛々してたし、お仕置きもしなきゃと思ってたところでやってきたんだ。飛んで火にいる夏の虫。こんな機会を逃せるわけないと思ったんだけど、あーどうしよう、エルに笑い殺されるー」
「なるほどなるほど、そういうことだったんですね……グレン様の良心を信じた僕に全面的に非がございましたね……!」
思いだし笑いを混じらせ、時おり噴出すグレンのところに、地を這う様な低い声が聞こえてきた。
見れば、水を一通り飲み、口の中の悲劇を収めた後、耳を外して俯いて座り込んでいたはずのエルがゆらりと立ち上がったところだった。
「なに?職務怠慢の小姓の分際で何か文句でもあるの?文句を言える立場にあると思ってるの?」
「……いえ、文句を申し上げるつもりはございませんよ。ただ、あれは、死ぬほど辛かったです。僕の基準では、あの辛さの食べ物とも言いがたいものをお菓子とはみなせません。ですので――――」
俯いたままで表情は見えないが、何かが吹っ切れたらしいエルは乾いた笑い声を上げながらグレンの目の前までのそのそと進む。
「宣言通り、いたずら、させていただきます」
グレンの目の前までやって来たエルは、顔を上げるとグレンの肩に両手をかけ、手前に引っ張るようにして体重をかけた。グレンの上体がわずかに前に倒れ、前かがみになったところで、エルが大きく背伸びをする。
今度は自らが大きく目を見開いたグレンのトパーズ色の前髪がさらりと揺れ、エルの灰色の髪と重なる。
グレンが驚きでわずかに開けた薄い唇にエルの口が近づく瞬間、私はなぜかその光景にくぎ付けになり、当の相手も固まっていた。ちなみに、魔獣を抱え上げていた隣の男からは「見てはダメだ見てはダメだなんかダメだ見るなよ獣」と呪文のような低い繰り返しと、くるりと後ろを向いた気配が感じられた。
息すら止まるような時間は一瞬。唇が重なるか重ならないかのまさにその寸前で、傍目から見ると、まるで女性が恋人に口づけをしようとしているような光景にそぐわない、かちり、という音が、妙な緊張の走る空間に響いた。
瞬きして確認すれば、さきほどエルの手にあったはずの耳模型が、グレンの頭についている。その事実を頭が理解したときには、エルは既に高速で後ろ走りをし、グレンから大きく距離を取って退避していた。
わずかに俯いたままで表情の見えないグレンが、徐に手を上げ、自分の頭部にあるもふもふとした耳に触れると、エルが退避先のソファの陰から高笑いを響かせた。
「はーっはっは!チコ耳の具合はどうですか!あ、それ、無理に取ろうとしたら髪が引っこ抜けますよ。僕たち獣医師課が、国家試験のストレスに耐えきれなくなって深夜のノリで作った最高性能の超強力粘着液をつけておきましたので、一日は絶対に取れません。ちなみに僕が幻覚のサービスもつけたので、周りの人たちはより本物らしい肉感と動きも楽しめますよ!」
徐々に無事を確信して来たらしいエルは、ソファの影から出ると、腰に手を宛て、勝ち誇った声を上げた。確かに、先ほどまでは白色だった色は、グレンの髪色に合わせ、薄い黄色っぽく変わっていた。幻覚のため、グレンの頭の上の耳は直接生えているように見えるし、ぴくぴくと感情に合わせて動いているように見える。
「それを着けたままこの上位貴族の寮の中を歩きまわったら大恥かきますよ。幼気な小姓を罠に嵌めた悪辣な狼にはイイ罰でしょう?」
「……エル自身はあれをつけてここまで歩いて来たんじゃないのか?自分も大恥をかいたことになるがいいのか?」
「冷静に突っ込むな、イアン」
「ご安心を。下級貴族の方が悪ふざけも多いですし、既に各方面で恥をかきまくっている僕に怖いものはございません。恥よりも食欲が優先です」
抜け目はありません。と言わんばかりのきりりとした表情だが、エルよ。それは聞いていて悲しくなるだけだ。
「でもグレン様は違いますよね。僕とは違って『高潔』で、『完璧』で、『よくお出来になる』、貴族のご子息としても、生徒としても、手本のような存在ですから?チコの耳のおもちゃ付き、なんていうお恥ずかしい恰好は晒せませんよね?今日一日、誰かに頼まなければ用事も済ませられないし、誰に頼んでも結局そのお姿は晒せませんから、今日は不便でしょうねぇー。いい気味です」
「……エル。得意げなところを悪いが、墓穴を掘ったと思うのは私だけだろうか」
「へ?」
エルは、本気で分かっていないらしく、首を傾げる。そこでようやく俯いていたグレンが三角耳をぴんと立てた頭を上げた。そして、エルが逃げる間も与えずに近づくと首根っこを掴んで黒い笑みを浮かべる。
「……確かに僕がこの格好で出るわけにはいかないけどさ、この姿を知っている人間は利用できるわけだ。その人間に今日僕がこの部屋の外ですべき用事の全てを押し付けることはできるよね?」
「で、殿下やイアン様にはそれぞれのお仕事があるかと存じます」
「あぁそっか、訂正。お前、人間じゃないもんね、僕のペットだった。お前は僕に、今日一日お前をこき使う大義名分を与えてくれたわけだよ、分かる?」
エルが恐怖にひっと息を飲んでいるが、後の祭りだ。
「そ、そんな大義名分なくても使うじゃないですか!」
「うんうん、これまでのような手加減なしに使ってやろうって話。お前が、疲れで這いつくばろうが、睡眠不足でふらつこうが、僕の代わりに僕が外に出られない分の仕事を全部やってくれるんだよね?小姓として、主人のために身を粉にして働いてくれるんだよね?」
「これまで手加減されていたんですか!?」
「今まで僕が手加減してあげていたかどうかは今日身をもって知ることができると思うよ」
にっこりと笑ったグレンは、エルの首根っこを掴んだまま執務机まで引きずっていくと、机の上に置いてあった紙をエルに押し付ける。
「そこに書いてある資料、全部書庫から探して持ってきて。それからこっちにリストアップしてある薬剤の候補を絞り込んで、その材料も収集してきて。あと、そっちの袋に詰め込まれている招待状全部に恥にならないお断りの文面を作って返事をして、あと――」
「き、今日はこれからイアン様との訓練があって、それから授業が――」
「だからなに?寝る間も惜しんで全部やってね。今日中だよ。分かったら、さっさとここから出て行った方がお前のためになるんじゃない?」
グレンの有無を言わさない笑顔にエルの頭ががくりと垂れさがり、力ないハイ、という返事が聞こえた。
グレンの部屋を出たエルはとぼとぼと廊下を歩く。隣をこれから訓練をするらしいイアンが歩き、エルの愚痴に付き合っている。
「生命に危険が及ばない程度の愛らしいいたずらとしてのギリギリにラインを攻めたはずだったのに、何を間違えたんでしょう……?」
「グレンに歯向かうこと自体が間違っているんじゃないか?」
「それをなくしたら僕は生ける屍じゃないですか」
「その結果として本物の屍になりそうな原因を生み出したんだろう?」
「返す言葉もございません……」
「だ、大体だな。よ、よく男相手にあんなことができるな」
「あんなこと、とは?」
私の後ろを歩くイアンは、急に声量を下げ、ぼそぼそと言った。
「男相手に顔を近づけただろうが!あ、あんな気持ちの悪いことをどうしてできるんだ……」
「あれぐらいしないとグレン様の不意を突けないと思いまして。自分は女優、自分は女優、と頭の中で一万回繰り返しました」
「まぁ女なら気持ち悪くはないかもしれないが、男としてその心境になろうとする気持ちも分からない、分かりたくない」
「す、すす、捨て身ですよ!その前にっ、自分は女、を頭の中で三万回繰り返しましてなりきりましたから!」
「全部で四万回か。かなり高速で考えたんだな」
「いつも脳内で高速のツッコミをしていますから、考える速さには自信があります」
「そのわりにグレンの企みに気づかなかったな」
「単純思考に限定されるんです。深みのある思考には向いてないんですよ」
噛み合っているようで噛み合っていない会話を繰り広げる私の護衛とグレンの名ばかり護衛も面白い。が、今しか見られない光景をこの目に焼き付けておく方が大事だろう。
「イアン、悪いが先に戻ってくれ。グレンに用を思いだした」
「なら俺も戻ろう」
イアンを呼び寄せてこそっと話すと、イアンは生真面目について来ようとする。
「エルと訓練なのだろう?行っていい」
「だが護衛が……」
「グレンがいるだろう?」
「あいつは外に出られないんだろう?」
「お前もあいつの言い分を本気で信じているのか?あいつにとっては見た目を弄る程度のこと、造作もないだろう?グレンを休ませるいい機会だと思ったから何も言わなかったが」
「…………もしや俺も疲れているんだろうか……」
「このところ二人とも働きづめだからな。お前もエルとの訓練が終わったら休んでほしい」
「そうだったな。エルには悪いが……黙っておく」
「そうしてくれ」
イアンと別れ、グレンの部屋に戻る。気配を殺して静かに進むと、ソファであおむけに横たわっているグレンが見えた。片方の足は伸ばしたまま、片膝を立てた姿はくつろいでいるようにも見えるが、幻覚で動いて見える獣の耳はへにょりと力なく垂れ下がっていた。
「あー……もう……」
より注意して見ると、顔の上半分に乗せた腕で隠された目元も、白い頬も、それから本物の耳も、彼の目と同じ色に染まっている。漏らされたため息は重く、熱っぽい。
「あの無自覚バカにはほんと、参るなぁ……」
何に対してグレンが参っているのか、分からないほど鈍くはない。
あのグレンに参ったとまで言わせられるいたずらっ子は、きっと今頃、グレンが相当懲らしめられていると気付かずにぶつくさ文句を垂れているのだろう。嵌めたようで嵌められておらず、一方的にやりこめられているようで反撃している。二人の攻防はいつまで続くのだろうな。
私にできることは――エルへの労いの菓子を用意することくらいか。
私は人知れず笑いを漏らし、静かに部屋を後にした。
おしまい。
リアル超多忙につき遅くなりました。




