閑話兼5章プロローグ 再会と三人とこれから・その1
ある夜。風呂あがりの俺は、隣を歩く背の低い同室の友人の様子を窺っていた。
俺に見られていることを知ってか知らずか、エルはメロンコナトジュースを手に上機嫌だ。軽いスキップまでしている。
俺が訓練のために出席できなかった必修授業のレポートを代わりにやってもらった分の奢りでただ飲みできているのがよっぽど嬉しいらしい。
「はー甘い~美味しい~幸せだ~」
紅潮した頬を押さえてほあっと笑った後、俺の視線に気づいたのか、ストローを咥えたまま、抜けるように深く丸い紺碧の目を瞬かせて俺を見上げる。
「ん?ヨンサム、どうかした?」
「……いや、なんでもない」
「言いたいことをため込んでると早く禿るよ」
「やめろ。俺の先祖の現状を考えたら冗談にならねぇから」
「最初から未来が見えているなら希望を持たない方が幸せかもよー」
ここまでならいつも通りなのだが――
「仕方ないから可哀想なヨンサム君にお恵みをやろう。大事に飲めよー?」
ほら来た。やっぱり今日のエルはおかしい。
よく考えてみろ?あの、食べ物に関して人一倍貪欲なエルが、タダで手に入れた、甘い物を分けようとしている、んだぞ?
「要らないの?ほらほら?」
「それ、やるって言った後に『引っかかったな?あげるわけないだろ』って俺の前で飲み干すやつじゃねぇの?」
「僕、そんなに性格悪くないって。ご主人様と一緒にしないでほしいな。ほら、どーぞ?」
俺の前でストローから口を放し、甘い香りを漂わせるそれを俺の口元に近づけて来る。
仕方なしに受け取ってそれを口に含むと、目を煌めかせ、どうどう?と俺の感想を待つ。
「甘い。旨い」
「だっろー?」
「知ってるし。つか奢ったの俺だし」
「んーほら。僕が口をつけたってことで余計甘く感じる、とか」
「ぶはっ」
当たり前のことを突っ込むと、エルはさらりと似合わない冗談をぶち込んできた。
「気持ち悪ぃ、お前、何言ってるわけ――」
ジュースを噴きだし、口元を拭いながら文句をつけ、エルを見下ろす。目が合ったエルは、ジュースで潤った唇に人差し指を宛て、小首を傾げて俺を見上げてきた。
まただ。なんだこの妙な感じは。匂いに例えるなら、嗅ぐだけで酔いそうになる強い果実酒のような雰囲気。これは多分、艶めかしさ、ってやつか?いや待て、こいつにそんなものあったか?こいつは入学当初から女っぽい童顔で騒がれていたが、艶めかしさやら色気やらが皆無もいいところだったはずだろ?なのに、なんなんだこの表情は。
まるで、妙齢の女みたいじゃないか。
再び現れた慣れないエルの表情に妙に動悸が早くなり、それを誤魔化すようにジュースを突き返す。
「こ、これ、返すぞ!」
「もういいわけ?」
「要らねぇ!飲ませたいなら最初から奢れっての!」
「やーだねっ」
エルは、俺が口をつけたストローにためらいなく唇をつけ、ジュースの残りを飲み干していく。喉ぼとけのほとんど出ていない細く白い首が中の液体を嚥下していく姿に目を奪われた。ただ飲み物を飲んでるだけなのに、妙に色気がある。
飲み終わったエルは、俺の視線に気づくと、丸い瞳を細め、余裕そうな流し目で笑った。
「なに?今更僕に見惚れたとか?それともヨンサム君もさっきの僕の裸に欲情しちゃった?」
いつもなら子供向けのメロンコナトジュース並みの存在が、熟成された色香を漂わせる。酔いそうだ。
「はっはーん、図星?」
「――んなわけあるかっ、さっさと行くぞ」
「はーいはい」
急に頬に熱がこみ上げてきて、頭をぶんぶんと振って湧き上がった妄想を打ち消し、エルが「ヨンサム歩くの倍速になってるっての!」という文句を言うのも無視してずんずん自室へと向かう廊下を歩み進む。
なんだよ、なんだよ、なんなんだよこれ。おかしいぞ、俺!
違う。俺じゃなくて、今日のエルがおかしいんだ!
リッツのように頭の回るわけじゃないから、俺なりに、今日のエルが変な点をまとめて整理しよう。そうしないと俺がおかしくなりそうだ!
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昨夜俺が寝入った後に学生街から帰寮したらしきエルは、俺の朝練の時刻よりも前に起きていた。俺が目覚めそうになる直前、うとうととまどろんでいたところで、共有スペースからぶつぶつとなにやら文句を言っているエルの声が聞こえたから間違いない。
「ナタリアのやつ……満足してたくせに……!あんなに怒ることないじゃんか。虫のねばねばを顔に塗らせたのね、なんて……効能さえよければ、その原材料がなんだっていいとか前に言ってたくせに……!」
「ん――……エル、起きてんのか……?」
「あ、ヨンサム、おはよー。朝だよ」
エルはこっちの部屋を覗き込んで笑顔を見せた。
「はよー……あれ、お前、早くグレン様をお起こしに行った方がいいんじゃねぇの……?」
「あぁそのこと。実は、今日はないんだ」
「……えぇ?仕事ねぇのにこんなに早く起きてんのか?」
低血圧で朝に弱いのにご主人様のせいで已む無く起こされる、と毎朝ぶつくさ文句を言っている(言う余裕もなく走っていく時もある)エルが、グレン様の目覚ましもないのにこんな時間に元気いっぱいで起きているなど、普段ならありえない。
「まぁ……今日は気分が良かったからね」
「なんか文句言ってたくせに?」
「わーお、ヨンサム、地獄耳~。それはさておき、今日、国教学の小テストだったと思うけど、僕に構っている余裕あるの?貸してもらってたヨンサムのノート、真っ白なんだけど」
「うげぇっ!」
エルに指摘されようやくテストの存在を思いだした俺は、慌てて飛び起き、朝食を食べる余裕もなく教科書とにらみ合いをしてからテストに駆け込んだ。結果は訊かないでほしい。
エルと再会したのは、朝一の国教学のテストと、実技特化授業を終えた後だ。
朝食を抜いたせいで腹ペコでやってきた食堂の隅っこには、案の定、灰のようになっているエルがいた。座学に関して触れてほしくない俺と、エルの国教学のレベルはさして変わらないから想定通り――だと思った。
「おう相棒。予想通り爆死?――て、え、エル、お前、カンニングでもしたのか!?雷に打たれたか!?」
エルの手元にある国教学のテストを取り上げて見たそこには、八割越えの脅威の数字が載っている。
「どっちもないよ。昨日は快晴だったじゃん」
「じゃ、じゃあなんでお前がこんな高得点取れてんだよ!」
「――昨晩、グレン様の領地からの帰り際に詰め込んだだけ」
「お前にそんな才能があったなんて……!」
「そんなに引かなくてもいいだろ。友達甲斐のないやつめ」
「いや引くだろ。お前、国教学は常に底辺争いの四天王じゃねぇか」
「僕の成長に括目せよ!まぁ、国教学のレイニー教授も驚きすぎてぎっくり腰になってたけどね、明日の授業休講だって」
「朗報じゃねぇか。お前、毛虫より嫌ってただろ、あの陰険教授。なのになんで落ち込んでるんだよ?」
「そっちじゃない方で失敗しちゃったんだよねー」
「え?それは、実技ってことか?」
「うん……。マーイ獣医師にも今日は早退しろって言われたよ」
机から突っ伏していた上半身を起こし、他の生徒たちが昼食を取っている姿を見るエルの目は完全に死んでいる。
エルが、出来れば世界から存在を抹消したいとぶつくさ言うほど忌み嫌っている国教学のイヤらしいテストで八割越えの点数を叩き出して、逆にどんなに元気のないときでも大抵楽しみにしている獣医系の実技で失敗した?
「……お前、熱でもあるんじゃねぇの?」
「うーん、熱っていうか、疲れがたまってるって感じかなー……」
一拍置いた後、こちらを向いたエルの目は、風邪なのか、充血して潤んでいる。
あぁだからか。朝からおかしな機嫌だったりいつもと真逆の成績を叩き出したりしたのはこれのせいだったのか。まぁそうだよなー最近、一層グレン様の小姓としての仕事が忙しくなったって不規則な生活してたもんな。明後日からグレン様の婚約者内定会で領地まではせ参じなきゃいけないとか言ってたし。
「せっかく早退したんだったら今日はもう寝とけば?」
「えぇーでもさすがに風呂入んないと。もう四日も入ってない」
「でも熱の時はダメだろ」
「熱ないしー」
「とりあえず寝ろ。風呂の許可は俺が後で判断して与える」
「えぇーヨンサムにそんな権限与えてない」
「えー、じゃねぇよ。お前、放っておくといつも無茶するからなっと」
「うわっ」
有無を言わさずその腕を引っ張り上げると、妙に重い気がした。が、すぐにエルに腕を払われたので、気のせいだったかもしれない。
「――ちょっ、いきなり持ち上げるなよ!びっくりするだろ!」
「えっと、わりぃ」
「優しく扱ってくれる?僕、心と同じで体も繊細なんだよ?」
「心と同じなら踏んでも蹴っても大丈夫だろ。でも、前よりも筋肉ついたんじゃねぇの?今なんか重かったような――」
「ぎゃあ!」
もう一度同じ心持ちで持ち上げると、今度は以前同様のへにょっとした軽さしかなく、勢いがつきすぎてエルが倒れ掛かってきた。俺がしっかりしていたおかげでエルに押し倒される形にはならなくてほっとする。
ばれたら俺の命がどなた様かによって消し飛ぶ気しかしない!
「なにがでも、だよ!僕に力がないのはヨンサムが一番よく分かってるだろ!」
「あーさっきもう少し重かった気がしたんだけどな。肥っただけか。菓子の食いすぎ?」
「はぁ?この体のどこに肉がついてるって?いつもどこかの誰かが僕のお菓子を没収してくださるおかげでもれなくひもじい想いをしていますよーだ」
へそをまげたエルは寮の部屋に着くまで唇を尖らせていたが、部屋に入った瞬間、足を止めた。
「おい、エル、何止まってんだよ。さっさと入れっての」
「あー……」
なんだ?黒い甲虫でもいたのか?こいつ、そんなのに動揺する可愛さねぇだろ。
背の低いこいつの上からひょいと中を覗き込むと、共有スペースの真ん中にエルとよく一緒にいるネズミの魔獣がいた。
確かチコという名をエルに付けられていた魔獣は、ドアのところで止まったエルに対して全身の毛を逆立てて威嚇音を出している。この魔獣がこんなに警戒した状態を見るのは、この魔獣が最初に寮に潜り込んで寮中の生徒から追い掛け回されていた時以来だ。
「こいつ、どうしたんだ?」
「そうだ、喧嘩しちゃってたんだよねー、あーチコと。こないだチコのおやつを僕が横取りしちゃったから」
「動物の食い物を横取りするってどんだけ腹減ってたんだよ」
「あ――グレン様からお預けの刑を食らった後だったから……。ひとまず僕はチコと仲直りしてくるっ!」
「きゅきゅきゅっ!」と抗議の声を上げる小さなネズミの魔獣をひっつかんだエルが自室に走り込み、ドアが閉められた。
エルの自室からは、どたんばたんと何かが倒れる音や、「誤解なんだ、ちょっと話を聞いて」とか、浮気したカップルのような派手な喧嘩の音が響いていたが、その時は「魔獣って人と対等に喧嘩するくらい仲良くなれるもんなんだなぁ」と思うくらいで、特にそれ以上のことは思わなかった。
夕方になり、エルが部屋から出てきた時、小さな傷をたくさん作っていたものの、エルの顔色自体は戻っていたので、リッツも入れて三人で夕食を取った。
風邪ではなかったのか、エルはいつも通りのいい食欲を見せていたが、後から思えば、リッツの方は妙に静かに飯を食っていた。エルが席を離れた時にこそっと実技の授業の時の様子を尋ねたが、それもなんだかうやむやにされてしまった。
なんだ?俺だけ除け者にされてる?リッツとエルで何か企んでるとかか?
早々にリッツが自室に引きさがったから一人で悩んでいると、戻ってきたエルが不満そうに顔を顰めて俺を小突いた。
「ヨンサム、出すならさっさと風呂の許可出してよ」
「大丈夫そうだけど一応やめとけば?」
「やだ」
「やだじゃねぇよ。許可とる意味ねぇだろ」
「だから、僕はヨンサムにそんな権限与えてないし」
「もう一度言うけど、放っておくとどれだけ無茶してるか自覚あるか?そんでその迷惑をかけられるのが大抵俺だって分かってるか、お前」
「じゃあ、ヨンサムと一緒に行くならいい?」
「は?」
「僕が浴場でぶっ倒れたら困るからダメって言うなら、ヨンサムが一緒に入ってくれれば問題解決じゃん」
エルは一人で結論づけると俺の手を引っ張って浴場まで向かっていく。
「え、ちょ、いいのかよ!」
「男同士で何を遠慮してるの?……もしかしてヨンサム、とうとう男にそういうのを――」
「ねぇよ!!俺は女の子専門だよ!じゃ、なくて!お前、イモ洗いにされるの嫌だって人と入るのを毛嫌いしてただろうが!」
「仕方ないだろ。ヨンサムがうるさいんだもん」
浴場に足を踏み入れ脱衣所で制服を脱いでいくエルは、この浴場、それも人が集まるこの時間には滅多に来ないレアキャラだ。それに、こいつには顔と体格から女であるという小さな疑惑がある。
レアで真相の不明なこいつが騒ぎながら入ってきたとなれば、当然、浴場中の注目が集まる。
「おい、エル……お前、こいつらの目、気になんねぇの?」
「気持ち悪いなぁ、目が潰れたらいいなぁとは思うけど」
エルは好奇と期待に溢れた野郎の目を気にすることなく、言葉の刃でばっさりとその辺りの男どもを一掃してから、そのままばさっとシャツを下衣を脱いだ。
そこにいたのは、白い肌と童顔を惜しげもなく晒したエル。
平らな胸に……男だ。紛れもなく男だ。
「見たいなら見れば?――って言うつもりだったけど、まじまじと見てくる目か頭の悪い連中もいるみたいだから、これ以上見惚れるならお金払ってほしいくらい」
「お前それダメ!絶対金払うやついるから!」
「んじゃあ、こうする?」
下にタオルを巻いてから、エルは唇に人差し指を宛て、嫣然と微笑み、青い瞳を細めていたずらを思いついた女の子のように言いのけた。
「僕をグレン様から奪えるやつがいたら、僕、その人のものになってあげる」
お前この場で何言っちゃってんの!馬鹿かこの野郎!
と頭を叩き倒すつもりだったのに、俺としたことが、その瞬間、その視線に絡めとられた。
漂うのは、成熟した大人の女のような色香と、誰も触れられないような穢れのない少女の純潔さ。矛盾した二つを合わせて青い瞳が輝く。
意図の見えない瞳は浴場の湿気に犯されたように濡れていて、白い肌が浴場の熱気でわずかに赤く染まっている。灰色の髪が湿って顔に貼りついているのが一層――
――一層、欲情を煽る。
「――なぁんてね。さ、さっさと入って出よ。ヨンサムー早くしろよー」
ひょい、と妙な雰囲気を引っ込めたエルは、あれに見惚れた男どもを置いてさっさと浴場に入っていく。
「お前っ、状況悪化してんだろうがぁ!」
俺がそれを叫んだのは、暫く経ってからのことだった。
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そして今に至る。
そうだ、まとめて考えてもおかしい。
寝起きが異常によかったこと。あいつの苦手科目と得意科目が逆転したこと。あいつの体が一瞬重かったような気がしたこと。色欲やら恋やらについて鈍さの極致にいるはずのあいつが、あんな艶めかしい表情をして見せられたこと。甘い物に貪欲な食い意地の張ったこいつが俺にそれを分けようとしたこと。
仕草も顔も体格もいつものエルなのに、ちょっとずつおかしい。
調子に乗るのも、挑発するのも、人をおちょくった態度も、毒舌も、可愛い顔して喧嘩っ早いところもいつも通りなのに、調子がおかしい理由も納得いくはずのものだったのに、なんだかしっくりこない。
今日のエルは、一緒にいて安心できない。
なにより、チコと呼んでいつもあいつと仲よくしているあの魔獣があいつを警戒しまくっていたことが気になる。確かあの魔獣は、嗅覚に優れているとあいつは前に言っていた。隠していたおやつを全て食べられてしまうと嘆いていたから覚え間違いじゃない。
確認する方法は、一つ。
「――エル」
「なぁに?」
部屋に入った瞬間、俺は抜剣し、切っ先をエルの喉元に突き付ける。エルは丸い青い瞳を大きくして信じられないというように俺を見た。
「な、なに……どうしたの、ヨンサム――」
「やっぱりな」
「な、なにが?」
「お前、エルじゃねぇだろ」
「はぁ?何言ってるの?」
「唇を戦慄かせることもできるのかよ。見事としか言う他ねぇな。でもお前、怖いって思ってねぇだろ」
「こ、怖いに決まってるだろ!」
「避けられたのにあえて避けなかったやつが?」
エルの姿の誰かに剣を突きつけまま静かに続ける。
「今、俺は俺が今出来る最高速度でお前の首を狙った。本物のエルなら反応する間もないはずのない速度だった。でも、お前は、一瞬剣の軌道から首を逸らしただろ。無意識でやったなら、相当慣れてる」
「い、イアン様との特訓の成果だって!」
「イアン様の抜剣の速度だとつい防御魔法を張っちゃうのが癖になってて怒られるって、お前が俺に教えてくれたんだったよな。まだ避けられないとも言ってたよな?俺はまだイアン様ほど早く抜けねぇけど、グレン様よりは速い自信があるぜ?」
剣を構え、もう一撃を加えられる角度に調整しながら、俺を見る友人の姿をした相手を睨みつける。
「もう一度訊く。最後の一回だ。――お前、誰だ?エルをどこにやった?」
エルの姿のそいつは、俺の目から敵意が消えないのを見て取ると、ふっと笑って両手を上げた。
「――降参。さすがヨンサム君。だから君とはもう会いたくなかったんだよなぁ、俺」
そいつは今まで出していたエルの声よりも少し低い声で、エルとは全く違う表情と言葉遣いで笑った。
ヨンサムと兄様の再会話です。5章プロローグも兼ねてその2以降続きます。




