23 小姓は無情な運命を呪いたいのです
途中から泣き疲れて涙なんかとっくに出なくなっていたのに、それでも一睡もできずに過ごしていた夜は、無情にも、なんのためらいもなく明けた。
木の葉の隙間から入り込んでくる白っぽい朝日が、腫れぼったくて開きにくい目に染みるので、足を抱えていた手をようやく放し、遮るために掲げる。足を抱えて地面にお尻をつけていたせいで、誰もが認める高級ドレスは見るも無残に泥まみれな上、あちこちが水分で重くなっている。
これは賠償ものだなー。どれくらい働いたらお返しできるだろう?
肌に貼りついた水分が冷えて全身が寒い。悲しさやら悔しさやら無力感がお腹の中で混ざりあったまま渦巻いていて気持ちも悪いし、なにより頭痛が酷い。
息が白くなるほどの寒さの中で一晩濡れ鼠のままでいたから、風邪をひいてしまったのかも。それに、そういえば僕、つい数刻前に毒を飲んでいたんだっけ。あれ、解毒しきれてないのかな……。
ぼうっとした意識はかろうじて冷静な思考力を残しているのに、それでもどうしても立ち上がる気が起きなかった。
夜中、レイフィー様の笑顔や楽し気な笑い声を思い返す途中、時折、トパーズ色の髪の主の黒衣の後ろ姿がちらほらし、そのたびに枯れたはずの涙が溢れた。何が悲しいのかもわからないくらいになっていても、僕は泣き続けた。
泣くことが僕に残された唯一の逃げ道だったから。
「きゅ……」
ドレスから出てきて僕のお腹の上で一緒に一晩を過ごしてくれていたチコが、僕の肩付近まで這い上がって、ざらりとした舌で僕の涙の跡を舐めた。
夜間から明け方にかけてすっかり冷え込んだ空気と一緒に冷たくなった僕の体に白くもふっとした体を擦りつけ、一晩中暖めてくれた優しい子だ。
チコをぎゅっと抱きしめると、温かくて柔らかい、生きている感触がする。とくとくと心臓が鳴る音が、生きていることを実感させる。死と向き合った後だと猶更だ。
レイフィー様も、昨日僕を抱きしめて下さった時、きっと同じことを思われたんだろうな。
「チコ……僕は、どうして、いつも何もできないんだろうね……」
変異したアリクイさんの時もそう、レイフィー様のこともそう。
これでも命を救う職に就こうとしているというのに、僕は、目の前で消えていく命に対していつも何もできていない。手をこまねいているうちに、かけがえのない命はあっけなく散っていった。
アリクイさんがなぜあんな変異を遂げなきゃいけなかったのか、なんであんなに苦しませたまま死なせなければいけなかったのか。レイフィー様はどうしてグレン様とむざむざ死に別れなければいけなかったのか。レイフィー様の苦悩を和らげる術はなかったのか。
僕に何かできることはなかったのか。
想いに耽っていると、ざくざくと草をかき分ける音とともに、頭の上が陰る。
「やーっぱり森の中だったか。にしてもいるとこ深すぎるだろ。変装と人探しを生業にしてる俺が妹を見つけるのにまさかこんなに手間取るとは思わなかったわ」
「兄、様……?」
頭を上げるのも億劫で、代わりに声を出したけれど、擦れた耳障りな音しか出なかった。息をするだけで喉の奥が痛い。
僕の額に手が充てられた後、深いため息が聞こえた。
「そんでもって予想通り、いつものアホをしたな」
「ごめん……」
「たくさん説教したいとこだけど、今はそれどころじゃないだろ。力抜いてろよ」
兄様は有無を言わせず僕の腕を引いて背中に乗せ、森の中を元来た方向に歩み始めた。
温かくて堅い背中に乗せられると、優しくて懐かしい兄様の匂いがする。
昔はよくこうしておぶってもらったっけ。森の奥まで入りすぎて体力不足で動けなくなった時とか、無理に高いところの鳥の巣の中にいる雛の治療をして木から落ちて足を折った時とか、思いだせばキリがない。
双子で同い年なのに、面倒見がよく、昔から老成していたのは、兄様いわく僕のせいらしい。
「いつもごめんね、兄様……」
「いつものことだろこんなん。怒ってはいるけど、慣れてるよ。風邪が治ったあたりで父さんからこれでもかってくらい説教の手紙を送りつけさせるからな」
「うぅ……父様の説教怖い……」
「懲りずにやるからだろうが」
小さい頃、同じ体格の僕を運ぶのに苦労し、家に着いた途端力尽きていた兄様も、しばらく会わない間に立派な十七歳の青年になっていた。
痩せぎすとはいえ人一人分の体重を支えているというのに兄様の歩みは止まらない。それどころか、僕の代わりに学園にいた間の話をしながら息も切らさずに歩み続けてくれる。残念ながら頭がぼんやりしていて話のほとんどは右から左に流れているが、それでも兄様の優しさは伝わる。
「兄様……聞いていい?」
「なんだよ」
「……グレン様、どうしてる?」
歩みに会わせて上下する視界は、ぼうっとあたりの緑を捉えているのに、目の奥には赤い瞳を煌めかせてせせら笑うご主人様の姿が浮かんでは消える。
「今日一日、お一人で行動するそうだ。明日の朝には学園に直接戻るから、お前は先に帰るようにって申し付けられてる。お前を学園に送り届けるところまでが俺の仕事」
「い、今のグレン様をお一人にするのは――」
「それでも今くらい一人にしてやれよ」
兄様が強い語調で僕を遮った。
「自分の弱みを他人に握られるのはもちろん、アルコット家に母親の亡骸を奪われるのも嫌なんだろ。――これは俺の推測でしかないけど、父親と同じ墓に入れてやりたいんじゃないの」
兄様の言葉で、墓石を前に一人で座っている主人の姿がぼんやりと浮かんだ。でも墓石を見つめる表情だけは思い浮かべられないのは、僕が思い浮かべたくない、からなのかもしれない。
その姿を他人に考えられることすら、あの人は嫌うだろうから。
「墓の前で一人でいられる時間なんて、今日くらいしか手に入らないんだろ。あの人は」
グレン様は、二年前にお仕えしたときから、ときたま、窓から遠くを見つめることがあった。あの時は「僕の出来なさを憂いているアピールをしているのか、性格悪いなこんちくしょう!直接言えばいいものを……あ、直接も言われてるわ」などと流していたのだが、今思い返せば、その方向は、このアルコット領のある方向だった。
花や食べ物を贈ろうとしても拒絶されたのは、残り少ない命のかの方に、これから愛でることも、食すこともできないものを押し付け、ご本人に死を実感させるのが嫌だったんだろう。僕がレイフィー様に会いたいと申し出たときに過敏に反応したのだって、きっとレイフィー様の負担を避けるためだったのかもしれない。
グレン様はああ見えてレイフィー様のことをとても大切に想われていた。
前当主様の話だと、レイフィー様は、グレン様が半分平民であるにもかかわらず、あれだけの魔力を有し、それを自由に使いこなせるようになることの代償になったのだと聞く。そして、グレン様はその事実をとうの昔にご存知で、どうにか解呪しようと躍起になっていたけれど、結局功を奏しなかったのだ、とも言われた。
平民と貴族の掛け合わせの混血が、貴族として認められる程度の魔力を保有できる体を有せるという事実は、前代未聞の世紀の大発見だ。ご本人の努力や先祖返りだったということや、もしかしたら類まれなる幸運もあるだろうけど、それを度外視しても、一般の貴族としては十分な力を振るえる可能性がわずかでもあると知られれば、貴族連中だけでなく平民だって目の色を変える。国家単位で実験しようとするかもしれない。
そんな画期的な状態を可能にしたのがどういう魔術なのか、僕は知らない。でも、きっと――
「自分のせいで大事な人を犠牲にすること以上に辛いことって、ないよね……」
「……そうだな」
負けず嫌いで何も恐れるものはないと言わんばかりの唯我独尊人間が、手に入れた強大な自分の力ですらなすすべなく、その死を受け入れなければならないとしたら、その無力感は僕の比ではないだろう。
グレン様が自分の才能に奢っているところは確かにあると思う。でも、それを差し引いても、あまりに酷いんじゃないか。ましてや、その背景にそんな事情があると知っていたのなら、その力を使う時、あの人は何を考えていたんだろう。
「兄様……」
「どうした、エル?」
「どうして、奇跡って起こらないんだろうね……」
腫れぼったい目の縁がまた痛くなる。泣き過ぎと風邪でしわがれた声は、想像以上に聞き取りにくい声になってしまった。
「滅多に起こらないから『奇跡』なんだって分かっているけどさ……それでも、あんまりだよ……」
僕は、無情な朝日や残酷な運命を呪ってやりたい。僕くらいは、あの傷ついた主の傍で味方になってあげたい。あの人のために悪者になるのも、今ならいいかと思える。
「――同じことを、父さんも昔、母さんが死ぬときに思っただろうさ」
兄様は前を向き、ざくざくと草をかき分けながら「俺も、思うことになるかもしれない」と、小さな声で付け加えた。
「なぁエル」
「ん……?」
頭がぼうっとして、手足の感覚がない。なんだか力が抜ける。兄様の声がすごく遠くに聞こえる。
「自分の無力さで犠牲になった大事な人間をさらに追い詰めて、いずれ自分の手で殺さなきゃいけないかもしれないってなったら、お前は、どうする?」
なんだろう、この感じ。泣きすぎて疲れた時の倦怠感でもなく、風邪の寒気や毒なんかともまた違う、覚えのある感覚だ。これはまるで、魔力枯渇になっていくみたいな……
「――俺は例え自分が邪道に落ちても、お前を逝かせはしない」
兄様らしくない低い声が暗くなる視界の中で響いた。




