20 主と大鷲と小鳥
視界に入れているだけで気分の悪くなる男が場を去った後、残された招待客たちは、落ち着かない雰囲気のまま、顔を見合わせたり、僕の隣にいるエルに視線を送ったりしている。
今のうちに当初の予定通りさっさと抜けさせてもらうか。
ここを抜けるための関門の一つは通った。残るは――
顔を元いた方向に向ければ、案の定、シャルドネ嬢は傍までやってきていた。先ほど一瞬見せた驚きや戸惑いの表情はすでになく、興味深げに僕と隣のエルを見やる。
エルも彼女の視線に応えるように顔を上げたが、血色は悪い。
それもそのはず。先ほど解毒剤を流し込んだとはいえ、エルの体内の毒が完全に解毒されたわけじゃないからだ。
あのじじいの性格と周到さから考えれば、そう簡単に解毒できるような毒を盛るわけがない。本人の性格同様、ねちっこく嫌らしくエルの体を蝕んでいくもののはずだ。僕の応急処置で、少なくとも命を落とすことはなくなっただろうけれど、完全な解毒のためには定期的に多種類の解毒剤を飲ませなきゃいけない。
母上のこともエルのことも含め、早く切り抜けなきゃね。
「僕は貴女様のご期待に沿えない男だとご理解いただけたでしょうか?」
「そうね。ナーベラ公爵家の者として申し上げるなら、相方に凡人は要らないわ」
もらった。ナーベラ公爵家の令嬢から婚約者としての僕を要らないと言ったのだ。これを引き出せれば十分だ。
「見込み違いで気落ちさせてしまいましたか。僕としても自分のことながら残念でなりません」
「お言葉とはまるで違う表情をなさっているわ。それを望んでいたかのようなご様子ね」
「ご冗談を」
シャルドネ嬢は、安堵した様子をそれほど隠していない僕に、含み笑いをした。
「気落ちなどしていないわ。ナーベラ公爵令嬢の夫としての『グレン・アルコット』は要らないけれど、私個人は、さっきの貴方様に興味が湧いたもの。以前より、ずっとね」
「貴女様にはつまらないものですよ」
「そうかしら。あの十年ほど前の貴方様が、と考えれば、とっても興味深くてよ?変わった理由も、変わった様子も。その後見せた切り返しを含めれば、手に入らないのは惜しい人材だとも思うわ」
惜しいと言っている時点で、彼女が僕個人を無理矢理奪い取るつもりが全くないことは分かるが、彼女の言う通り、僕に対する関心の程度は上がっている。
それが珍獣見たさから来る単純な興味ならいい。が、もし、彼女が襲撃者たちとつながりがあって新たな情報を探っているのだとしたら面倒だ。
彼女は、警戒を強める僕を検分するようにじっと見た後、その細い首を僕の右隣に向けた。
「澄んだ目の青い小鳥さん。あなたは、小さな羽で一生懸命羽ばたいて、大きな止まり木を見つけたのね。でも、その止まり木は、あなたには高すぎるのではない?高く飛ぶことに疲れてしまうのではないかしら。それでもあなたはそこに飛ぶの?」
からかうような声音は、エルへの敵意を感じさせるものではない。かといって同等と見るのでもない。
小さな青い鳥――エルを幼い子供向けの童話で「幸せを運ぶ」とよばれる存在に例えた彼女は、貴族の淑女らしく、遠回しにエルに問い、問いを受けたエルは、澄んだ青い瞳でシャルドネ嬢を見返し、思っていたよりも静かに返した。
「わたくしは、グレン様を止まり木と思ったことは一度もございません」
「では小鳥のあなたにとって、グレン様は一体何になるのか、教えてくださらない?」
「大鷲です。それも鋭い爪と嘴と、大きな翼を持った中でも特別、獰猛――いえ、果敢な個体だと思います」
エルとしての本音がにじみ出ているあたり、令嬢として過ごす耐久時間に限界が来たらしい。早めに撤収させないとボロが出る。
とはいえ、シャルドネ嬢は、彼女らしいやり方でエルを試している。おそらくは、エル本人への対応と、そしてエルの身内であり、シャルドネ嬢にとってエル以上に係わりが増えるであろうマーガレット様を見据えたうえでの問いだ。迂闊に介入するのも悪手になる。
僕が彼女の意図を探る間にも、シャルドネ嬢は、エルの答えを聞いておかしそうに笑った。紫紺の瞳が三日月の形で煌めく。
「大鷲、ね……。飛べない猛禽類の傍で、小鳥のあなたはどうするつもりなのかしら?」
「え?」
「あなたは小さくとも自由に大空を飛べるのよ。一緒に檻の中に入るの?それとも、羽をもがれ、傷ついた鷲に食べ物でも運ぶのかしら?」
指摘された事実が図星をついていても、自覚がある分、冷静にそれを聞けた。
僕はさながら、飛べない鳥だ。飛ぶ力はあったのに、羽をもがれ、檻で飼いならされた空しい存在。
そんな空しい存在が、檻から逃げられない自分の退屈しのぎに、憂さ晴らしに、最も自由で、いつでもどこからでも逃げられる弱い存在を見つけ出し、閉じ込めた――もしかしたら、僕のエルに対する自分でも呆れてしまうような行動の原因はここに所以するのかもしれない。
嫌がらせと、弱きモノへ緩やかな虐待で得られる優越感――それが、僕のエルに対する気持ちの正体なのだとしたら?
それは愛などではなくて、醜い執着に過ぎないんじゃないか?
「あの、一つ、質問をよろしいでしょうか?」
僕の内心の考察を一つの声が遮る。
女性にしては低く、男性にしては高めの、中途半端な声だ。
「どうぞ」
「どうして飛べないんですか?」
「……え?」
「どうして大鷲は飛べないんですか?」
「どうしてってそれは――」
「風切り羽は、切られても時間が経てば生え変わります。大鷲ほどの力があれば、檻の鍵くらい、何度も突けば壊せます。――大鷲は、いつでも飛び立てます。大空を自由に舞って、覇者として縦横無尽に飛び回れるんです」
シャルドネ嬢は、エルの質問に目を丸くして素直に驚きを見せた。それは僕や彼女が想定しない質問と、そしてそれへの回答だからだ。
「もし、今まだ飛べないのだとすれば、それは飛ぶ気力を持っていないからです。長いこと閉じ込められて飛ぶことを忘れているだけじゃないかと思うんです。――わたくしは、大鷲に飛ぶことの楽しさを知ってほしい。飛ぶことを思いだしてもらいたい」
「――小鳥にはそれができる、と仰りたいの?」
こくん、とエルが無言で頷く。
「大鷲にとって、小鳥は獲物でもあるのよ?檻から出た途端、お腹をすかせた大鷲に食べられてしまうかもしれない。無残に殺されてしまうかもしれない。それでもいいの?」
「――大鷲が望むなら、それも一つだと思います」
「自己犠牲心が強い小鳥さんは、分かってやっている、と仰りたいのね」
「いいえ。犠牲になるつもりは、ございません」
エルは先ほどよりも少しだけ前に出ていた。シャルドネ嬢から見てほんの少しだけ僕が前にいたはずなのに、今では僕と並ぶような位置よりもつま先一歩分ほど前に出ている。
僕よりも低い身長に、首輪がない分いつもより余計に細く見える首に、男だと言い切って僕に突っかかってきているはずの華奢な肩。それらがドレス姿だと余計に目立つ。
こんな姿のくせに、言うことは小姓姿の時と変わらないな――内心おかしく思ったとき、わずかに右袖が引っ張られる感覚がした。
本人の体に隠れてちょうど前から見えなくなっている死角で、前に歩んだエルの左手が、僕の右袖を掴んでいた。しっかり握られた袖は皺になっている。
「――鳥は、生涯、番を大切にする種の多い生き物です。相手の命の火が燃え尽きるまで、燃え尽きた後も、相手のみを番と認め、孤独に残りの生涯を終えることも多いのです」
どうしたんだ?お前はいつも、自信満々に僕の前に立っているでしょ?僕が弱気になっているとき、なぜかお前だけは強気でしょ?
それなのに、なんで怖がっている?なんで不安がっている?
「わたくしは、グレン様を、共に飛ぶ相手だと思っております。大鷲にはなれませんが、食べられもしません。小鳥として一生を共に過ごしていくつもりです」
エルが答え、それに合わせて裾の皺の溝が深くなった時、僕は、唐突に、傍にいる少女が「エレイン・アッシュリートン」だったことを思いだした。
こいつは、平気で他人を欺ける僕とは対照的に、答えに「根拠」を求める馬鹿のつく正直者だ。だから、僕と「男と女」として対等の位置に立てると言うなら、立てるという自信がなきゃいけないと思っている。
こいつが、周囲からの嫉妬にも、男の下心や邪心にも、敵意や悪意にも、信じられないくらい鈍いだけでなく、強い耐性があるのは、自信があるからだ。
「小姓」として僕が認めている保証、「獣医師課学生」としての己の実力――たまに小さくぐらつくことはあれど、そういうものに裏打ちされた己の根本があるからこそ、あれだけの聴衆の前で宣戦布告をすることもできるし、目上の者に真っ向から反対の意を唱えられる。
けれど、「エレイン・アッシュリートン」は、小姓でもなければ、獣医師志望の男子学生でもない。身分も美貌も能力も乏しい、ちっぽけで平凡な令嬢にすぎない。それに比べ、目の前の、女性として持つべき全ての魅力を兼ね備えた完璧なご令嬢は、客観的に見たら、僕の婚約者にふさわしいだろう。
彼女と比べて、僕と並び立つにふさわしい「令嬢」としての資質がないと思っているから、不安になっている。「令嬢」としての自信がないから心細くなっている。
こいつの不安の正体が分かった途端、張り詰めた緊張が一瞬解け、形容しがたいもどかしさが生まれる。そのもどかしさの正体に気づけば、自分すら信じられない僕の心に生まれた暗い鬼も霧のように消えていった。
最初のきっかけはそうだった。
檻にいるしかない僕の前を自由に飛び回る小鳥が腹立たしくて、同時に嫉ましくて、だから捕まえて閉じ込めて自由を奪おうと思った。退屈しのぎになるかもしれない、くらいに思っていた。
それなのに、いつの間にか、逆転していた。
啼き声が綺麗じゃなくても楽しそうに歌う姿に心惹かれた。羽が折れても、汚れても、飛ぼうと無様に羽を動かす姿に憧れた。
気づいたら、檻は壊せたし、羽も治っていたのに、小さな小鳥を檻から逃がしたくないから檻にいる。
閉じ込めたはずが、閉じ込められていた。
並ばなくたっていい。同程度じゃなくたっていい。だって、僕はそんなことでお前を生涯の相手に選んでいない。
エルとしても、エレインとしても、自分の信念のままに全力で僕にぶつかってくるお前だから、小姓としても、婚約者としても欲しいと思ったんだ。
大体お前、あれだけ「期間限定」とか「仮」だって念押ししてたじゃないか。お前にとっての「仮り初め」にそんなに気負うことないのに、それじゃあまるで、お前自身が本気で僕の婚約者になりたいみたいだよ。あ、この誤解いいな、しばらく浸っていようかな。
ほんと、お前はいつも僕が迷ったときに限ってやって来て前を照らしてくれるね。重い気分も吹き飛ばす。
馬鹿正直であきれ果ててしまうのに、愛おしくてたまらない。
じじいとの直接のやり取りを終え、一番大事な仕事である婚約者の確定についても目の前の彼女から言質を取ったとはいえ、母上のこともこいつのことも何も解決していない。
今が山場だと分かっているのに、一瞬、力が抜け、何もかも放り出して目の前のこいつを抱きしめたくなった。
「彼女は僕に風を連れてきます。彼女といると、どこまでも飛べる気がするんですよ」
抱きしめる代わりに言葉を足しながら、体の後ろで裾に捕まった腕をそっと離させると、緊張でか、毒のせいか、汗ばんだ指の形が袖にくっきりと付いているのが分かった。
エルがちらりと僕の袖に視線を落として、あからさまに「やらかした!」という顔をしているのがまたおかしい。
僕の袖を汚すのが気になるなら直接持てばいいのに。
周りから見えないように軽く身を寄せ、いつの間にか外していた絹の手袋のない生身の手をあえて掴んで握り込むと、エルは余計に身を固くした。
この反応は、最初の挨拶の時のお仕置きの再来を警戒しているな。
ほら、また無駄な体力を使ってる。一本一本指を折って引き抜こうとしても無駄だし、汗で滑らせて抜こうとしても逃さないし、軽く手を振っても離さないよ。早く無駄な抵抗だってことくらい分かりなよ。そんなに抵抗するならもう一度お見舞いしてやってもいいとか考え始めるよ。
「――青い小鳥の隣には、赤い大鷲あり――」
「へ?」
「――ふふ、小鳥でも侮れないってことね。これは失礼したわ」
僕とエルをじっと観察していたシャルドネ嬢が、ぽつりと呟いた後にくすりと笑った。楽し気で愉快そうな笑顔は彼女にしては珍しい。今なら彼女と襲撃者の関係についても白だとはっきりわかる。
一方のエルは、シャルドネ嬢の発言の意図が分からないらしく、いつも通りの間抜け顔を晒している。
「グレン様」
「なんでしょう?」
「私は、これから飛び立つ大鷲がどこに向かうのか、どう羽ばたくのか、この大空の下で見上げさせていただきます。貴方様にとっての風がよきものであるよう、お祈りいたします」
「ありがたき幸せに存じます」
「エレイン様」
「はいっ!」
「今度、王都にいらした時は、一緒にお茶を飲みましょう」
「え……は、はい」
名前で呼ばれた上にお茶会に誘われたエルは豆鉄砲を食った鳩のようになってから、思案深げな顔になった。そして顔をこわばらせる。
毒入りを警戒する心がけはいいけど、露骨だよ、馬鹿。
「グレン様のお傍を離れるのはおいや?お寂しい?」
「いえっ、是非はなれ――っ、ご、ご馳走になります!」
シャルドネ嬢が閉めた扇の向こうから覗く口角が楽しそうに上がっている。
相当面白がってるなぁ。彼女は僕と似た洞察力を持つ女性だから、エルの思考も行動も読もうとせずとも読めて新鮮なんだろう。
王家の血が濃いせいで僕ですら心を読めない相手に、自ら心を開かせた功績者だってことにも本人は気づいてない――そんな、彼女の周りで日ごろ見かけない純粋バカの反応を、シャルドネ嬢は、心から楽しんでいる。
「では王都に遊びにいらした時は連絡を頂戴ね」
エルが馬脚を現し始めた後も、いつも通り優雅な笑みを浮かべたシャルドネ嬢は、歌うように笑った。




